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(回答先: Re: カフカス地方に「米国の影」 投稿者 中田英寿 日時 2005 年 4 月 08 日 14:27:11)
▼著者は約40年にわたってニューヨーク・タイムズ紙の記者、海外特派員、コラムニスト、編集者を務める。著書に『それぞれの歩調』『屋根と路地』など。
http://plaza.rakuten.co.jp/SOROS/2000
複雑な人格の由来、解き明かす
「ヘッジファンドの帝王]として投機の最前線で二十年以上上昇を続け、1992年のポンド売りで「イングランド銀行をうちのめした男」として世界に名を轟かせるようになったクォンタム・ファンド・グループの総帥ジョージ・ソロスは、不可解な多面性を持つ人物としても知られている。
莫大な資金を背景に79年に「オープン・ソサエティ・ファンド」を設立、慈善家としても東欧・旧ソ連を初めとしてアフリカ・アジアまで三十を超える国々で世界最大規模の支出を行う。しかしそれは、誰もが過ちうること(「可謬性」)を前提に、訴えるカール・ポパーの哲学を実現する目的を有するという。認可されたプロジェクトは、マルクス主義の決定論的な歴史観から自由な学問を旧ソ連で奨励したり、機密主義が蔓延していたハンガリーに多数のゼロックスを寄付すると言った具合だ。
そのうえ近年では政治的発言を強め、投機の行き過ぎはグローバル資本主義を危機にさらすと主張して、資本取引の規制をうながす。そこでアジア金融危機に際しては、危機を演出し巨万の利益を得た相場師が自分を縛るかのような発言するのは欺瞞だとマハティール・マレーシア首相から非難された。
カウフマンの手になるこの浩瀚(こうかん)なる伝記は、無数の証言を元に、ソロスの複雑な人格が何に由来するのかを解き明かそうとしている。ユダヤ人としてハンガリーでナチスの弾圧に遭った少年時代、ロンドンにおける屈辱の体験、投機家としてのアメリカでの大成功、そして仕事上の相棒や両親や先妻、年若い妻との交流など。フロイトの精神分析を批判する論文をものしながら中年の危機を精神分析によって乗り越えたというのは、「可謬性」を唱えるソロスらしいエピソードだ。
経済学者などは、ソロスの政策提言が学界では通用しない素人のお遊びだとこき下ろす。だが、イラク戦争を引き起こすブッシュの市場原理主義こそが懐疑を知らぬ独善だとして政権転覆に資金を投入すると言う最近の宣言を見ても、この人物の思想こそが机上の遊びからかけ離れていると言うべきだろう。
コーカサス安定化作戦
http://tanakanews.com/e0429caucasus.htm
ウクライナ民主主義の戦いのウソ
http://tanakanews.com/e1130ukraine.htm
「薔薇の革命」は米国主導だった?
http://bizns.nikkeibp.co.jp/cgi-bin/search/wcs-bun.cgi?ID=296932&FORM=biztechnews
2003年11月22日、グルジアでは議会選挙と大統領辞任を求める野党勢力が国会と大統領府を占拠した。この時警備に当たっていた兵士の銃口に、若者の手によって一輪の薔薇が差し込まれた。「薔薇の革命」という名はそこに由来する。
旧ソ連でゴルバチョフ書記長の右腕としてペレストロイカ(改革)外交を担い、後グルジアで長期政権を率いていたシェワルナゼ大統領は、翌23日あっけなく辞任に追い込まれた。
野党・国民運動党党首として反対派を束ねたミハイル・ニコラエヴィチ・サーカシビリ氏は一躍国民的英雄となり、続く1月4日の選挙で96%という圧倒的支持を得、正式に大統領となった。
サーカシビリという人、67年12月生まれ、36歳と若い。キエフ大学を出たあと米コロンビア大学で法学修士号、ジョージ・ワシントン大学で博士号を得た。1919年創立の老舗法律事務所、パターソン・ベルクナップ(Patterson, Belknap, Webb & Tyler、ニューヨーク)に所属していたこともある。
開明派というより、米国の「ポスターチャイルド」、または「ピンナップボーイ」という匂いを漂わせる経歴であり、人物である。
1月25日、コウリン・パウエル米国務長官はサーカシビリ氏の大統領宣誓就任式に参列し、米国は引き続き支援を惜しまないことを明らかにした。2003年、米国はグルジアに1億1040万ドルの援助を与えた*2が、2004年にそれを1億6800万ドルに増額することを約束したらしい*3。
米ロ間に立つ冷たいさざ波が、ようやく誰の目にも明らかとなったのはこの頃である。
パウエル国務長官がグルジア訪問を先にし、モスクワへ立ち寄るのを後にした*4 のみならず、ロシアでイズベスチヤに寄稿し対ロ批判を公然と口にしたことは、現下の米ロ関係が「冷たい平和」としか呼べない状態になったことを多くの人に気づかせた*5。
長官によれば、「ロシアは民主化しつつあるが、三権分立ができていない。政治権力は法に十分服していると言えない。報道の自由など市民社会を成り立たせる重要な要素ができていない」のだという。すべてその通りなのだとしても、言わずもがなのことばかりである。
他方サーカシビリ大統領は1カ月後の2月26日、訪米してジョージ・ブッシュ大統領と会談した。このように経過をかいつまんで概観しただけでも、米国の肩入れぶりになみなみならないもののあったことが諒解できよう。
実際ここに至るまでには米国の重層的な関与があり、まさしくそれが米ロ関係冷却化の大きな原因となっていた。一連の経過において決定的となったのは、「9.11」の後、テロリスト掃討を助けると称し、米国がグルジアに対して軍事顧問団を送ったことである。
ジョージ・ソロスの登場
ここで話を少しさかのぼらせる。米国がグルジアにどう「重層的」な関わりを続けてきたか、アウトラインだけでも見ておきたい。
ワシントンがグルジアの戦略価値を再発見したのは、冷戦終焉から数年たった1990年代半ばのことである。バクー油田を擁するアゼルバイジャンと西側巨大石油資本が、初めて「世紀の契約(Contract of the Century)」を結ぶに成功したころのことだ。
ズビグニュー・ブレジンスキー氏(カーター政権の国家安全保障担当大統領補佐官)が98年10月に出した書The Grand Chessboard: American Primacy and Its Geostrategic Imperativesは、米国の目を改めてユーラシア地方に向けさせた功績をもつ。
そして99年10月トビリシを訪れたブレジンスキー氏は、同年11月10日付ウォールストリート・ジャーナルでこう述べた。
「(ロシアがグルジアを再び属国化しようとすることは)米国にとって憂慮すべき話になろう。グルジアがロシアの属国となれば、ロシアの力は既にモスクワの従属国となっているアルメニアに一気通貫する。アゼルバイジャンと中央アジアは西側陣営から切り離され、モスクワはバクーと黒海を結ぶパイプラインを政治的支配下に置くことができるようになる」。
相前後して米国国防長官による史上初のグルジア訪問(99年8月)があり、UNOCALをはじめ米国石油企業の関係者がさかんにグルジアから中央アジア、アフガニスタン周辺を訪れるようになる*6。
97年9月時点で既に、ブッシュ(父)政権で国務長官を務めたジェイムズ・ベイカー氏は「米国カザフスタン協議会」会長(無給)の地位にあり、「米国アゼルバイジャン商工会議所」の無給顧問にはベイカー、ブレジンスキー両氏のほか、ニクソン政権の国家安全保障担当大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャー、現ブッシュ政権で副大統領を務めるリチャード・チェイニー、ブッシュ(父)政権で大統領主席補佐官だったジョン・スヌヌの各氏が名を連ねていた*7。
ここで登場するのが投機家にして慈善事業家のジョージ・ソロス氏であり、彼の財団Open Society Institute(本部ニューヨーク)である。
同財団の1997年版年次報告書によれば、オープン・ソサエティー・グルジア・ファウンデーションは97年、グルジアで合計269万ドルを使っている。メディア環境の整備や関係者の教育、非政府組織30団体の支援などが目を引く*8。
そしてその驚嘆すべき成果は、カナダ紙Globe and Mail2003年11月26日付のスクープ記事によって知られるところとなった*9。