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(回答先: 『ワイマールからヒットラーへ』 投稿者 外野 日時 2005 年 3 月 15 日 22:38:24)
これも当時(昨年)のものです。
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『自由からの逃走』は1941年にアメリカで上梓され、邦訳版は1952年に出版され、多くの人に読まれてきたようです。いわゆる今のベストセラー本とは違い、すでに「古典」の名著の部類に入るようです。
実は僕もベストセラー本というのは読みません。正確に言えば、ベストセラー本だから…という理由や動機では読みません。けれども、たとえば少し前に出版された天木直人氏の『さらば 外務省!』は読みました。まだベストセラーになる前にですが。まぁそんなところです。
このエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』は、”ファシズム”へ人々を傾斜させるものとして、また”人間一般における”自由からの逃走を分析している本です。僕には非常に興味深い思索です。
近代人は、個人に安定と同時に束縛をしていた前時代の社会の絆から自由になったが、それは個人に自由をもたらした反面、個人を孤独にし、不安な無力なものとした、その孤独や不安から逃れようとすること、それが「自由からの逃走」だとフロムは分析します。
権威主義もその”自由からの逃走”から捉えられています。そしてその権威主義がファシズムを生むことを語っています。
一方、なだ氏の『権威と権力』は、<人の>言うことを聞く、聞かせる、という観点で権威の話を小説風に(無論書き方がであって、権威などの分析は科学的です。「不安」から権威主義が生まれるというような分析はフロムと同じですが、その「不安」の内容については少し両者には違いがあるように思われます)人生の問題として語っています。
僕がこの『権威と権力』を読み、メディア・リテラシーの教育に最適の一冊と考えたのは、次のフロムの三つにわけた”権威”のうち、最後のものを考えれば容易に想像できると思います。現在、人々は人生において、ほとんどの社会の問題の情報をメディアを介して得ています。そのメディアと接する時間も半端ではありません。人々が思い描いている「社会」は、個人のごく狭い直接体験をのぞけば、ほとんどがメディアからの情報で認識されているものです。人生における”権威に対する問題”が、メディアの問題ともなる理由がそこにあります。
……
外的権威:汝はこのことをなせ、あのことをなすべからずと命令するような個人や制度。
内的権威:上記の外的権威の位置に、義務、良心あるいは超自我の名のもと、人間の内的良心が取って代わられたもの。この変化は多くの人々には自由の勝利のように思われた。しかし、あたえられる秩序の内容は、個人的な自我の要求によってよりも、倫理的規範の威厳をよそおった社会的要求によって左右されやすいものであることが明らかになっている。またその「良心」の支配は外的権威よりももっと冷酷。何故なら、その「良心」を自分が自分自身のものと感じているとき、どうしてその「良心」に反逆できようか。
匿名の権威:「良心」の重要性は失われてきて、個人生活において力をふるっているのは、外的権威も内的権威でもなくなった。しかし、権威はなくなったのではなく、むしろ命令する者も命令も見えなくなったものとなった。
強制せず、おだやかに説得するように、自明のことだけしか要求しないように、微妙な暗示が全生活をおおうようになった。
この”匿名の権威”のよそおいは、常識であり、科学であり、精神の健康であり、正常性であり、世論である。この権威は、あらわな権威よりも効果的である。何故なら、人はそこに自分が服従することが期待されているような秩序があろうなどとは想像できず、また認識できず、命令する者や命令が明瞭なあらわな権威と違って、戦うべきなにびとも、またなにものも存在しないからである。
……
そして、自分で実際に本物を見たり聞いたり体験したいと考えても、それができる時間的金銭的物理的余裕は多くの人は持ち合わせていません。
たとえば、少し前に、イラクで人質となった人たちを考えて下さい。僕からみれば彼らは「自分で実際に本物を見たり聞いたり体験」した人たちです。
そして、その彼らの行為に対し、多くのメディアや世論が行った仕打ちについては、僕は次の言葉がそのままあてはまるように思うのです。
《権威主義的な人間は、無力な人間をみると、かれを攻撃し、支配し、絶滅したくなる。相手が無力になればなるほどいきりたってくる。
また権威主義的性格の権威に対する戦いは、本質的に一種の「いどみ」にすぎない。それは権威と戦うことによって、かれ自身を肯定し、かれ自身の無力感を克服しようとしている。そして多面では意識的であれ、無意識的であれ、服従への憧れが残っている。
すべての権威主義的思考に共通の特質は、人生が、自分自身やかれの関心や、かれの希望をこえた力によって決定されているという確信である。残されたただ一つの幸福は、この力に服従することである》(『自由からの逃走』より)
『自由からの逃走』『権威と権力』は、自他ともに、いろんなことを考えさせてくれる本です。
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アメリカのネオコンのほとんどはユダヤ移民の子孫であり、シャロンとも関係が深く、「好戦的シオニスト」と言われていますが、フロム自身は20歳代はじめからすでにシオニズムに反対しています。シオ二ズムはナショナリズムのもととなるとも言っており、ユダヤ教の教義にも反すると批判しています。そして、パレスチナ人を情熱的に擁護しています。
「われわれはドイツにおける数百万のひとびとが、彼らの父祖たちが自由のために戦ったのと同じような熱心さで、自由を棄ててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由から逃れる道をさがしたこと、他の数百万は無関心な人々であり、自由を、そのために戦い、そのために死ぬほどの価値あるものとは信じていなかったこと、などを認めざるを得ないようになった」(『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム)
僕はこれは読むと今の日本が思い浮かびます。
今欧州では、特にドイツでは地球環境的経済的に「持続可能な社会」に向けての取り組みが試行錯誤で進んでいます。ハードウェアの高い技術力などを持つ日本はその取り組みに参画していくべきなのです。
しかしながら、今日本は「ブッシュの戦争」に参画し、ゆくえは暗くなっています。地球や人類は「ブッシュの戦争」などで人や時間や労力を奪われている時ではないと思います。
日本は自由意志でそう決めているのですが、それは世界にとっても多大な損失です。
日本の経済的社会的問題は深刻なものがあるかもしれませんが、「持続可能な社会」をめざしつつ、それは乗り越えられないものではないのではないでしょうか。叡智を結集すれば。
日本は誰に強制されているわけでもないのに、”自由に”進路が決められ、努力が出来る社会を持っていながら、それをやろうとしていないように思えます。まさに「自由からの逃走」のように思えます。