現在地 HOME > 戦争68 > 277.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: 英国が伝えたレバノンのシリア支援デモの様子、チェチェンのマスハドフ殺害の感想 [アラブの声ML] 投稿者 white 日時 2005 年 3 月 10 日 14:00:00)
マスハドフ、粛清される
"Le terroriste numéro 0 a été tué"
「テロリストNo.0殺害」
3月9日付け ル・モンド Guillaume Pélissier-Combescure
元記事はこちら
http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3214,36-400988,0.html
チェチェンの「唯一の正統な大統領」であったマスハドフ氏が殺害されました。その遺体の写真には何かチェ・ゲバラを思い起こさせるものがあるような気がします。マスハドフの逮捕・殺害に何度も失敗しているロシア政府としては、写真を出さざるを得なかったのでしょうが…。ル・モンドの、ロシア各紙の記事をまとめた長い記事をご紹介します。
************************
(翻訳はじめ)
政府に対してあまり批判的でないことで知られ、他紙をはるかに引き離してロシア一の発行部数を誇る日刊紙イズヴェスチヤは、「No.0テロリスト殺害」の大見出しを打ち、親ロシアのチェチェン大統領「カディロフが小チェチェンに睨みを効かせている」限り、「マスハドフの逮捕と抹殺は戦略的・軍事的な見地からは不可能な任務であったためしがなかった」と評した。
ゆえにイズヴェスチヤにとって、これは「情報機関の作戦の予想外の成功ではなく、政府の最高レベルで下された決定が実施された結果」なのだ。そして事件がそのようなものであるなら、「クレムリンにおける対チェチェン政策は当然変化する」とイズヴェスチヤは続ける。事実、「軍事的なリーダーとしてのマスハドフは、チェチェン内部のほかの数10名の司令官と同じく、勢力を失っていた」。つまり、マスハドフが「クレムリンを苛立たせた」のは政治的なリーダーとしてであった。「予想外の事態を回避するために、抵抗運動の政治的な部分を統率できるような、いわば『シン・フェイン(記者註:IRAの政治部門)』的役割を果たすリーダーを生かしておく必要があるという方針をロシア政府はずいぶん前から放棄していた。(…)この放棄を撤回させるほどには、政治家としてのマスハドフはクレムリンにとって重要ではなかった」
イズヴェスチヤ紙は、2月の軍事作戦の一時停止と、とくに「第二次チェチェン紛争以来初めて、マスハドフがきっぱりとバサエフ(記者註:チェチェン抵抗勢力の急進的な軍事司令官で、べスラン事件を含む複数の襲撃事件に犯行声明を出した。一部からはロシア軍との癒着を疑惑視されている)と袂を分かった」という事実が、欧州審議会の議員総会の一環として3月に予定されていた会議の直前に、マスハドフにとっての致命的な「一線」であった可能性があるとしている。
マスハドフはテロを準備していたのか?
失脚した「クレムリンの元ドン」、ボリス・ベレゾフスキーが所有している自由主義日刊紙「コンメルサント」によれば、トルストイ・ユールトの行政当局は「夜明けから大規模なロシア軍部隊が村内に入り、中心部に通じる街路を封鎖した」と語っている。「その時まだ表に出ていた住民に対して、至急帰宅して以後外出するなという命令が出された」と同紙は指摘している。そして「チェチェン共和国の政府も内務省も、軍隊の命令だからというだけで何も説明がなかった」という住民の談話を引いている。コンメルサント紙は「チェチェン共和国内部でもっとも平和な場所であり」「反ドゥダエフ派、反マスハドフ派の中心地」であった「トルストイ・ユールトで、このような事態が発生したのはここ数年で初めてのことである」と指摘している。
同じくコンメルサント紙によれば、「軍部とFSB(記者註:元KGB、連邦治安局)のエージェントが、地方行政当局所有の建物で3月8日に行われた式典参加者を襲撃する予定だったボイエヴィキ(戦闘員)と会談したと、対テロ作戦の地方参謀本部の正式な代表者イリヤ・チャバルキンが午後半ば頃に発表した」。イリヤ・チャバルキンは「ロシア軍が式典の2時間前にボイエヴィキを足止めしてテロを阻止した」と発表したらしい。コンメルサント紙は「その晩は襲撃未遂事件の発表しか行われなかった。(…)この発表は世論に対する準備行為であった」と書いている。チェチェン共和国内務省筋の匿名の情報提供者は、コンメルサント紙に対して「軍事行動の一時停止を発表してその約束を守ったマスハドフを粛清するのは容易ではなかった」「現実問題としてトルストイ・ユールトを攻撃するつもりだった人間は一人もいなかった」と語った模様だ。皮肉めかして「いかにして10年間マスハドフを殺し続けたか」と題した記事の中で、コンメルサント紙は独立派大統領が何度も危機一髪で死をまぬがれ続けたこと、ロシア当局が何度もマスハドフ逮捕やマスハドフ死亡を発表しながら、結局は発表を覆し続けてきたことに触れている。
一面に黒々と「粛清」と記した日刊紙ガゼータは、「少し前にノヤイ・ユルトフ県で逮捕された武装集団が、トルストイ・ユールト内部に過激派が潜伏しているという複数の情報をもたらした。ノヤイ・ユールトにはアハメド・アヴォハノフ(記者註:アスラン・マスハドフの私的な親衛隊の隊長)率いる大規模な過激派武装集団が潜伏していることが判明」しており、彼らが関係当局に「トルストイ・ユールトで3月8日に大規模なテロを行う」計画について情報を漏らしたものらしい。
非常に部数の多いコムソモルスカヤ・プラダ紙は親ロシアのラムザン・カディロフ大統領のインタビューを掲載し、このインタビューは他の多くの新聞によって引用された。インタビューの中でカディロフは、マスハドフが自らのボディガードによって殺害されたと語ったが、ロシア政府はこの発言を否定した。カディロフはまた、「戦士にとって、3月8日のような日に死ぬことは不名誉なことだ」と評した。3月8日はつまり、「国際女性の日」である。そしてカディロフは、自分が跡を継いだ実父アハマト・ハジが3月9日に起きたテロ事件で「雄雄しく」死んだことに触れた。3月9日はロシアにとってナチス・ドイツに勝利した記念日であり、「勇者の日」である。
イズヴェスチヤ紙はまた、カディロフが「死者を鞭打つ真似はしない」と語り、もし家族が名乗り出るならマスハドフの遺体を家族の元に返すつもりであると報じている。しかし同紙はイリヤ・チャバルキンの「テロリストの遺体を家族の元に返すことを禁じる法律があり、この法律は現在も有効である」という発言に触れて、「マスハドフの遺体は、特殊墓地の中の、名前のない番号をつけられただけの墓の下に埋葬されるのではないか」と結論している。
マスハドフ不在のチェチェン
「マスハドフ以後」の推論を試みたガゼータ紙は、マスハドフがロシア軍に対する武力行使中止を命じた1996年1月以降にチェチェンが有名になったこと、マスハドフが「ひとたびならずテロ的行為には関与していないと言明」していたことに触れ、「1997年初頭のマスハドフの勝利はチェチェンの住民によって歓迎された。彼が大統領になることで戦争と諍いの時代が終わりを告げると思ったからだ。クレムリンも同じように見ており、マスハドフには建設的な交渉を行う意向があると考えていた」と想起している。いわば、当時マスハドフは「状況を自分の手で支配する本物のチャンスを手にしていた」。
マスハドフ大統領の「比較的穏健な」立場は、しかし安楽なものではなかったとガゼータ紙は指摘する。1998年9月以降、「バサエフとラドゥエフを筆頭に反マスハドフの野党が、権力濫用、憲法とイスラム法への違反を告発し、さらにはマスハドフの政策が親ロシア的だとまで批判して大統領の辞職を要求した」ためだ。しかし「武器を持ってワッハーブ派やボイエヴィキと闘ったアハマト・カディロフやヤマダエフ兄弟とはちがって、マスハドフはロシア中央政府には従わず、結局バサエフと同じ陣営に属することになってしまった(…)」とガゼータ紙は評する。同紙は「和平を望むというマスハドフの意志がどれほど誠実なものであったか、我々には推測することしかできない」と結論している。
いっぽう経済紙ヴィエドモスティは、マスハドフが「モスクワに何度も和平交渉を呼びかけた」こと、「欧米の政治家の多くはマスハドフがチェチェンの正統な指導者であり、モスクワはマスハドフとの交渉によって紛争を政治的に解決するべきであったと見なしている」ことを指摘している。しかし「ロシアでは、マスハドフの死によってのみ、紛争の終結に近づくことができると期待していた」とヴィエドモスティ紙は書く。同紙の中で、ロシア国会の治安評議会に所属するある議員は「一番簡単な方法はマスハドフの死をもってテロを壊滅することだった」と語り、FSPのある部員すらも、「マスハドフはシャミル・バサエフの作ったテロリスムの機械の重要な部品だった。(…)マスハドフという『紳士的な証人』がいなければ、バサエフの活動は政治的な意味を失ってしまうからだ」と語っている。
コンメルサント紙は、ここまでは一致していない様々な反応を紹介している。親プーチンの統一ロシア党チェチェン支部のアハマル・ザガエフは、マスハドフの死に「避けられない運命」を見つつ、こう続けた。「苦悩と涙と血以外のものを何一つ、マスハドフはチェチェンにもたらさなかった。無法者のグループがその首を失った今となっては、テロの数も減るだろう」。しかし同じ政党所属の議員で、1995年のグロズニー戦争の司令官であったアルカディ・バスカエフは同紙にこう語っている。「残念なことだと思う。マスハドフの死は早すぎた。1995年、私は何度も彼と会談し、多くの問題を解決することができた。今となっては独立派で残っているのはバサエフしかいない。マスハドフとは反対に、バサエフとは何も話し合うことはできない。それにバサエフにはマスハドフの代わりを務めることはできない」。
各紙はまた、マスハドフの後継者についても触れている。コンメルサントは「チェチェンで活発に活動中のボイエヴィキのリーダーとしては、シャミル・バサエフかドク・ウマロフしかいない」と明言している。コンメルサント紙によれば、「この2人の現場指揮官は(…)ロシアに対する攻撃性でよく知られている」。イズヴェスチヤはさらにはっきりと、「マスハドフの代わりに名乗り出る者はいないし、そのような人間がありえるはずもない。かなり長い間マスハドフがその正統性を保持していた大統領という立場は特殊なものだった」と書く。イズヴェスチヤ紙によれば、「抵抗運動に『正統な』リーダーはもういない。唯一生き残っている重要な人物はバサイエフだけだ(…)」。
(翻訳おわり)
http://blog.livedoor.jp/media_francophonie/archives/16004371.html