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(回答先: [東京大空襲]「明らかに『戦争犯罪』だった」 (読売新聞) 投稿者 彗星 日時 2005 年 3 月 10 日 04:25:29)
社説
03月10日付
■東京大空襲――あれは「戦場」だった
東京大空襲から10日で60年になる。
太平洋戦争の末期、大都市から地方都市まで、全土が米軍の無差別爆撃にさらされた。その犠牲者は広島、長崎の原爆による約30万人に匹敵するといわれる。
とりわけ、東京大空襲では10万人が亡くなったとされている。当時の陸軍記念日をねらっての攻撃だった。
飛来したのはB29300機、投下された爆弾は1800トンに達したという。兵器工場などの軍事目標から都市部へのじゅうたん爆撃に戦略を変えて最初の攻撃だった。
書家の故井上有一氏は、本所区(現在の墨田区)にあった横川国民学校の教員として宿直についていた。日付が10日に変わった直後からの空襲に、安全とされていた校舎は避難民であふれた。猛火がガラス窓を破り、建物の隅々までなめ尽くした。
九死に一生を得た彼が見たのは、戦場そのものとも言える凄惨(せいさん)な光景だった。1978年の作品「噫(ああ)横川国民学校」には、「白骨死体如火葬場生焼女人全裸腹裂胎児露出 悲惨極此」「噫呼何の故あってか無辜(むこ)を殺戮(さつりく)するのか」などの文字がたたき付けるように書かれ、断末魔の叫びが伝わってくる。
当時の記録では、遺体のうち65%は男女の別も分からなかった。身元不明のまま合葬されたのは、7万体とされる。この人たちは、他の戦災の犠牲者とともに450個の大きな白磁のつぼに納められ、墨田区の東京都慰霊堂に安置されている。本来なら、それぞれの墓に眠ったはずの人々である。
慰霊堂からほど近い江戸東京博物館では現在、被災地図が展示されている。新たに見つかった名簿などをもとに、住まいと亡くなった場所を結んだものだ。約700人分が描かれている。
展示品の中に、赤茶けた「防空新聞」があった。東部軍管区、東京都、警視庁の指導で、朝日新聞が発行したものだ。昭和19年12月5日の紙面は、「女、子供でも掴(つか)める」との見出しで、焼夷弾(しょういだん)について報じている。新聞は町内で回覧され、最後のページにはいくつもの判子が押してあった。
国民に防災の義務を課した「防空法」はこうして隅々に伝えられ、その結果、逃げ遅れた人が多かったとも言われる。同じ新聞社に働く者として、決して繰り返してはならない過ちである。
空襲を体験した人たちは年々、減っている。こうしたなか、日米双方の資料にとどまらず戦跡など「場所の記憶」も生かして、この史上まれに見る惨劇を後世に伝えるよう努めたい。
今も空爆と名前を変えた空襲が、世界のあちこちで人々の命を脅かしている。
大空襲の被害の実態を立体的に明らかにすることは、日本が加害者だった時代に生きたアジアの人々の嘆きの深さを共有し、イラクで続く理不尽な死への住民の怒りを理解することにつながる。
http://www.asahi.com/paper/editorial20050310.html