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3月10日付・読売社説(2)
[東京大空襲]「明らかに『戦争犯罪』だった」
「もし、われわれが負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」
60年前の3月10日未明、東京の下町を焦土と化した大空襲の指揮をとったカーチス・ルメイ米司令官が、後年語った言葉である。
東京大空襲は、初めから一般市民を主目標とした大量虐殺作戦だった。明らかな国際法違反である。軍事関連施設に目標を絞った爆撃で戦果を上げることができなかった米軍は、焼夷(しょうい)弾を使って市街地を焼き払い日本国民の戦意をそぐ作戦に転じていた。
木造住宅密集地が火の海となり、約10万人の生命が奪われた。犠牲者は、欧州最大規模の英米によるドイツ・ドレスデン爆撃を上回る。
東京大空襲で“成功”した米国は、3月12日に名古屋、13、14日には大阪へと軍民無差別爆撃の対象を広げて行く。終戦までに150前後の都市が空襲され、犠牲者は50万人に上った。
東京大空襲を戦争犯罪と認めているのは、ルメイ将軍だけではない。
「ルメイも私も、戦争犯罪を行ったのだ。もし負けていればだ」。ベトナム戦争介入責任者の一人だったロバート・マクナマラ元国防長官が、昨年日本公開されたドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー」で、こう述べている。
マクナマラ氏は当時、ルメイ将軍の下の中佐として“効率的”な焼夷弾爆撃の作戦計画作成に手腕を振るっていた。
日本の政治・軍事指導者を戦争犯罪人として裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)とは、いったい何だったのか。改めて考えさせられる述懐である。
1992年、ドレスデン爆撃を指揮したアーサー・ハリス将軍の銅像がロンドンの中心部に建てられた際、ドイツ政府は強く抗議した。
対照的に、日本政府は1964年、ルメイ将軍に勲一等旭日大綬章を贈っている。航空自衛隊の育成に協力した、という理由だった。“東京裁判史観”の呪縛(じゅばく)がいかに強く日本社会の歴史認識をゆがめたかを示す、象徴的な現象である。
警視庁のカメラマンだった石川光陽さんは大空襲直後の街の光景をカメラに収めていた。連合国軍総司令部(GHQ)にフィルムの提出を命じられたが、自宅の庭に埋めて、守り抜いたという。
その一部、黒焦げになった母子の写真などが、江戸東京博物館の「東京空襲60年」のコーナーに展示されている。
恒例の、東京都平和の日記念式典も、きょう催される。大空襲の記憶を風化させず、語り継いでいきたいものだ。
(2005/3/10/01:35 読売新聞 無断転載禁止)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050309ig91.htm