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「バルカンにおける同胞民族浄化を思い出したイタリア」
http://news.independent.co.uk/europe/story.jsp?story=609901
翻訳開始・・・・
2月11日
昨日のイタリアは、第二次世界大戦中の最も残虐な事件を記憶するために、
学校や仕事場で黙祷が行われ反旗が翻った。これは先週までほとんどの
イタリア人が全く知らなかった大量虐殺事件である。
敗戦が色濃くなったバルカン半島のイタリア占領地で起きたのは、残忍
極まる民族浄化であり、それはクロアチア・ボスニア戦争が勃発する
50年前の出来事だった。一体何人のイタリア人が追われて殺されたか
今日のこの日まで誰も正確に把握していなかったが、犠牲者数は1万5千
にのぼり、その多くがイストリア山脈のクレバスの下に眠っていると
信じる筋がある。
ファシスト党の流れを組むアレアンツァ・ナチオナーレ党党首、
ジャンフランコ・フィーニ外相の下で、敵対しているイタリアの政党が
今年初の合意達したのは、この事件を記念日とする決定だった。
オーストリア・ハンガリー帝国の一部であったイストリア半島とバルカンの
海岸地方にイタリア人が入植を始めたのは、第一次大戦後にこの地域が
イタリアに譲渡されたことをうけてのもの。ムッソリーニの登場でフル・
スケールのイタリア化が進められ、学校ではイタリア語の使用が強制された。
1943年ファシスト党陥落の後、ユーゴスラビアのパルチザンが復讐を
開始した。悪夢は数千人のイタリア民衆がイストリアの住まいから追いたて
られ、拘束されたまま銃撃を受け、多くが生きたままクレバスに投げ込まれた
43年9月8日に始まった。
暴力の拡大は45年の5月初旬から6月中旬にかけて、トリエステとゴリツィア
および周辺都市がユーゴスラビアの単独統制下となる45日間に発生する。
殺されなかった者は住まいを追われ、イタリアへ強制送還された。
フォイブ(クレバスの方言)大量虐殺は、これまでイタリアではタブーの話題と
されていた。国営放送RAIで今週全国放映された、この残虐事件をテーマとした
ドラマ製作者アントニオ・ネグリンは、インディペンデント紙のインタビューに
こう語る。「自分は大学で歴史を学んだのですが、このテレビ映画の話を受けるまで、
虐殺事件について何も知りませんでした。どの歴史書も、一行も触れていないのです」
多くの人間がさまざまな理由で、戦後この事件を秘密裏におきたがった。
右派にとっては、ムッソリーニ下の強制イタリア化の恥ずべき成り行きと考え、
コミュニストたちは、ユーゴスラビアのコミュニストによるこの事件を自分たちとは
無関係としたかった。支配政党だった中道にとっては、欧州コミュニスト同盟における
西寄りリーダーのひとりだったチトーを擁くユーゴスラビアとの関係を危険に晒し
たくなかった。
今週は、元コミュニスト党のリーダー ピエロ・ファッシノ、ウォルター・
ベルトローニから、元ファシストフィーニ氏までが党派を超え、記念日に
手をつないで参加した。
昨日はカルロ・アゼリオ・チャンピ大統領が、ローマの教会に花輪を捧げた。
「国会は、偽善とだんまりが汚点を残したわが国の歴史上最悪の悲劇の1頁に
明解な答えを出した」 ピエル・フェルナンド・カジーニ下院委員長
記念日に距離を置いた唯一の人々は、元ユーゴスラビアの住民であった。
翻訳終了・・・・