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アウシュヴィッツ開放60周年 仏語圏記事 長文(media_francophonie )
http://www.asyura2.com/0502/war66/msg/594.html
投稿者 kamenoko 日時 2005 年 1 月 25 日 19:28:19:pabqsWuV.mDlg

(回答先: 悲劇繰り返すなと国連総会 アウシュビッツ解放60年 (共同通信) 投稿者 彗星 日時 2005 年 1 月 25 日 11:10:28)

アウシュヴィッツ開放60周年
http://blog.livedoor.jp/media_francophonie/archives/12915960.html

2005年01月24日
アウシュヴィッツ解放60周年
1月27日はナチスのアウシュヴィッツ収容所解放からちょうど60年目に当たります。テレビでも新聞でも今週は特集が目白押しです。その中から、いくつか記事をご紹介します。

1本目は、フランスから強制収容所に送られて死亡した人の名前と死亡年が全て刻まれた巨大な壁が、パリのマレ地区に建造され、その落成式が今日(1月23日日曜日)行われたというル・モンドのニュース。テレビでこの壁を見たのですが、圧倒されます。すごいものです。


続いて以下はリベルテの特集記事から、ネット上にソースがあるものをすべて訳しました。2本目、3本目はインタビュー記事です。2本目はヨーロッパの視点から見たアウシュヴィッツについて、3本目は現在の収容所跡の展示や資料館の抱える問題点について。
最後の2本はアウシュヴィッツのあるポーランドの今を現地取材した興味深い記事です。


Paroles de déportés à l'inauguration du Mur des Noms, à Paris
パリの名碑壁落成式で生存者が演説

1月23日付け ル・モンド−AFP
元記事はこちら

(翻訳はじめ)
2000名以上の生存者と強制収容所送りになった人々の家族が、1月23日日曜日、パリのマレ地区の中心部にあるショアー記念碑前につめかけ、第二次世界大戦中強制収容所に送られた7万6000人のフランスのユダヤ人の思い出を記念するための名碑壁の落成式に出席した。

フランス各地のみならずベルギーからもショアー記念碑のある広場に老若男女が集まった。エルサレムから取り寄せられた石でつくられたこの壁には、1942年から1944年の間、ヴィシー政権の協力の下、狂気の中で絶滅収容所に送られた人々の名前が刻まれている。集まった人々はそれぞれの近親者の名前を探した。

歴史に能動的に関与する主体

パリ警察署によると、広場に入ることができたのは500名で、残りの2000名は広場の外にとどまった。中に入れなかった人は、ホロコーストの犠牲者に捧げられた数々の感動的な追悼の辞を聞くことはできなかった。ショアー記念財団の会長で欧州議会の元議長であるシモーヌ・ヴェイユや、強制収容所送りになったフランス人ユダヤ教徒の子弟の会会長セルジュ・クラルスフェルド、またショアー記念館の総裁であるエリック・ド・ロトシルドが挨拶を行った。

1978年に「強制収容所送りになったフランスのユダヤ人名簿」を作成したセルジュ・クラルスフェルドは「最後の一人の生き証人が死に絶えたあとも、この名碑はユダヤ人の蒙った悲劇の凄まじさを伝え続けてくれることでしょう」と語った。「記憶を後世に伝えるという仕事のおかげで、過去の忘却の中で無名のままであり続けたかもしれないこれらすべての人々の名前は、歴史に能動的に関与する主体として残り続けることでしょう」

家族と共にアウシュヴィッツに送られたシモーヌ・ヴェイユは、感情の高まりと同時に力強さを印象付ける演説の中で、自分自身の収容所体験を想起し、式典の前に「沈黙の中で」自分自身の家族の名前、特に母親の名前を探しに来たと語った。この母親がいなければ、「私も、私の妹も、生き延びることは出来なかったでしょう」

祖母や両親や兄弟姉妹の思い出を辿り、彼らの名前を探すために多くの人が集まった。名碑に名前を刻まれている人の多くはヨーロッパ中からフランスに亡命してきたが、1942年以降、ヴィシー政権の警察によって逮捕された人々である。息子に付き添われてやってきたラファエル・デルパールさんはそのような人々の一人であり、祖母と両親を追想した。デルパールさん一家は他の多くのポーランド人と同じようにフランスに逃れてきて、そのフランスから強制収容所に送られた。一人として戻ってきた者はいなかった。デルパールさん自身の命が助かったのは、偽の身分証明書を入手できたからだった。

苦渋

日曜日に式典に参加した強制収容所の生存者の多くは、収容所の解放時に味合わされた待遇を苦渋とともに記憶している。生存者の一人、アディ・フックスは「歓迎されたのは英雄だけでした」と語る。「私たちの話を聞こうという人は一人もいませんでした。戻ってきて、ほとんど嫌な顔をされたほどです」
シモーヌ・ヴェイユもまたこのような苦渋を言葉の端々に滲ませた。「私たちは虐待されました。そして今でも、『収容所に送られるようなどんなふしだらなことをやったんですか?』というような不実な問いを耳にすることがあります」。ヴェイユは「ショアーの記憶は犠牲者の子どもたちのみによって担われるべきではありません。収容所で殺されたのは人類全体だったのです」と強調した。そして「十分には考察されてこなかったひとつの歴史について、この記念行事が本当の出発点となるよう、政治家の皆さんにも期待しております」と付け加えた。

強制収容所に送られたフランスの7万6000名のユダヤ人のうち、子どもは1万1000人含まれており、その多くはアウシュヴィッツ・ビルケナウに送られた。戻ってきたのはそのうちわずか2500名だった。
(翻訳おわり)

"Auschwitz, un événement limite qui interroge sur ce que l'homme est capable de faire..."
「アウシュヴィッツ、人間がなしうる極限の出来事が何かを突きつけるもの…」

1月22日付け ラ・リベルテ Patrick Vallélian(インタビュアー)
元記事はこちら

(翻訳はじめ)
なぜアウシュヴィッツは数週間前から各紙の一面を飾っているのだろうか?ラ・リベルテは歴史家のフィリップ・ビュランにこの質問を投げかけてみた。ビュランはジュネーヴ大学の国際研究所所長で、ナチス問題の専門家だ。

ラ・リベルテ:どうしてアウシュヴィッツの解放記念日は特別なものなのでしょうか?

フィリップ・ビュラン:大量の殺人や、極限の暴力は繰り返し発生する性質を持った現象ですが、ユダヤ民族の抹殺(ジェノサイド)は、人間がより高い段階の文明に進化したと信じた時代に行われました。さらに、このジェノサイドはこのような進歩が顕著であった国において発生しました。ドイツは当時、思想家、音楽家、そして知識人の国であると自負していました。また、殺害は非常に現代的なやり方で行われました。ナチス政権は文明の所産である国家によって人々を選別するのに人種差別を利用し、ガス殺という洗練された技術を使い、労働の割り振りを行いました。

様々なジェノサイドの間に重要度の序列はあるのでしょうか?

いいえ、ありません。地球上のあらゆる人々の命の重さは同じです。しかし、虐殺という分野において、ユダヤ人ジェノサイドが特殊な位置を占めているとは言えると思います。

人の命の重さが同じなら、なぜ我々はアウシュヴィッツにこれほどの重要性を付与しているのでしょうか?

まず、あれがヨーロッパで行われたからです。ヨーロッパ人の一人として、我々の文明が責任を負っているこの事件に対して、我々には自問する義務があります。そして次に、現在我々のこの事件に対する感じ方が変化している最中であるというのが挙げられます。ここ数10年の長い間、第二次世界大戦は国家間の戦争であるととらえられてきました。このような解釈はレジスタンスの物語に最上の地位を付与してきました。続いて次第に、このような見方が崩れてきました。ナショナリズムの衰弱と欧州連合の建設がその主な理由です。一緒にヨーロッパを建設しなければならないのに、どうしてドイツ人を非難できるでしょうか?このような感じ方の変化は、我々が国家の運命よりも少数者や個人の運命により大きな重要性を与えるという結果も引き起こしました。

このような変化をどう説明なさいますか?

いくつかの決定的に重要な出来事がありました。1960年代にドイツで行われたアウシュヴィッツの看守の裁判と、1970年代終わりに映画「ホロコースト」が上映されたことです。意識のより深いところで、アウシュヴィッツは我々が未来に関して以前と同じような信頼を持てなくなったという点で重要な意味を持っています。より良い、または素晴らしい未来を約束した数々の偉大な思想の信憑性が失われたという意味において、我々は現在未来に対する危機感の中で生きています。突如として我々は未来ではなく過去のものにより高い価値を与えるようになりました。遺跡の保護に与えられる重要性などがこれを示しています。しかしかといって再び過去を繰り返したいわけでないことは強調されます。結局、アウシュヴィッツはひとつのシンボルなのです。これが人間がなしうる極限の出来事が何かを突きつけるものだからです。

アウシュヴィッツ問題の出発点はなんでしょうか?

ユダヤ人ジェノサイドは、他の事件と分けて考察されるべきではありません。このジェノサイドは、人類の内部には異なる分裂した人種があり、それぞれの人種の持つ価値は等しくないというナチスの人種主義にもともとは結びついています。人種を最善の状態に保つために、異民族を排除すると同時に自国内部の「欠陥のある」人間や病人もまた排除されねばなりませんでした。社会的な体に対する一種の外科手術です。こうしてナチスは約40万人のドイツ人に対し、繁殖しないよう不妊手術を施しました。ナチスは70万人以上のユダヤ人ではないドイツ人を殺害しました。彼らが身体障害や精神障害に苦しんでいたからです。ナチスは同性愛者、長期にわたって失業している人々、アルコール中毒患者を投獄しました。このような人々は退化しており、ドイツという「国体」の健康を害すると考えられたからです。

反ユダヤ主義は?

これらの中心が反ユダヤ主義でした。ナチスにとって、ユダヤ人は最も危険な「人種」だったのです。

どうしてですか?

ナチスはキリスト教の反ユダヤ教的な本質と、17世紀終わりから始まったユダヤ人のヨーロッパじゅうへの拡散に対する反動としての近代的反ユダヤ主義を換骨奪胎しました。ナチスには、伝統的な宗教的主張と、あまりにも成功したユダヤ人に向けられた経済的な批判、ユダヤ人が伝統の破壊者あるいは革新的であるといういわゆる政治的な敵意が混在しています。要するに、ナチスにとってユダヤ人はヨーロッパ社会において上手くいかないあらゆることを象徴する存在だったのです。

このような憎しみが、一歩進んでどうやってアウシュヴィッツにまで行き着いたのでしょうか?

人種主義が決定的でした。人種差別とは家畜を飼育するためのロジックです。数頭の家畜を繁殖させるために、他の数100頭を排除するのです。このようなロジックは我々の文明とは断絶しています。自然界の内部で人間は特権的な位置を占めておらず、人間も他の動物と同じような獣に過ぎないと人種主義は考えます。しかしこれは人間と動物の間に一線を引き、動物は人間に奉仕するものだというキリスト教的な考え方と正反対です。

1930年の排除政策から、どうして戦争中に絶滅政策に転換したのでしょうか?

ヒトラーとナチス党員の間には、ドイツ人と混ざってユダヤ人は生活するべきではないという基本的な計画がありました。しかしユダヤ人排除の方法は様々な形をとって顕れました。追い出すか、遠い土地に入植させるか、殺すかです。戦争勃発後、ドイツは国外移住というオプションが不可能であることに気づきました。そこで彼らはまずマダガスカルに、次いでシベリアに、ユダヤ人を強制的に入植させようとしました。しかしすべては戦争のために失敗してしまいました。結局残ったのは絶滅しかなかったということです。

このようなことはすべて、長い時間をかけて計画されていたのですか?

ナチスは最初からジェノサイドをしようとしていたわけではありません。ナチス・ドイツとそれ以外の世界の間の闘争という黙示録的状況を作り出してしまったのは第二次世界大戦です。ヒトラーはユダヤ人と連合国を同一視していたため、この戦いは彼の目には「アーリア人」とユダヤ人が死をかけて雌雄を決するためのものと映りました。そしてこの闘いでユダヤ人が勝利することはヒトラーにとってはあってはならないことでした。ユダヤ人を絶滅してしまえれば、ユダヤ人の勝利は回避できます。

このような抜本的な路線転換が起きたのはいつですか?

1941年から1942年にかけてです。大雑把に言うと、ドイツがソ連を攻撃し、アメリカが参戦して戦争が世界的なものとなった時です。戦争が世界化されたため、ドイツの完全勝利は怪しくなりました。そこで、ともかくもユダヤ人が勝者とならないようにというロジックが力を持ち始めたのです。

なぜ東欧に収容所を建設したのですか?

占領地の住民を除いたドイツ人のかなり大きな部分が絶滅を許容しないだろうということをナチスはよく解っていました。ドイツ人がパリ市街でフランス人を銃殺などしたらどんなことになるか考えてみれば充分でしょう。そのため、ことは秘密裡に行われました。おまけに、絶滅収容所を建設したおかげで執行者の数が極端に少ないにもかかわらず大量の人々を殺すことが可能になりました。ガス室にガスを散布するには医師1名、SSの将校が1名いればこと足ります。そのあとでユダヤ人囚人に死体を運び出させて燃やすという汚れ仕事をやらせるだけです。

連合国はこれについて何を知っていたのでしょうか?

1942年末にはすでに、ヨーロッパ規模でナチスがユダヤ人を絶滅しようとしている企てがあることを連合国側は知っていました。しかし連合国側は、たとえばドイツ国内にビラを撒いたりするような本物の情報活動は行いませんでした。これには様々な理由がありますが、その一番主なものは、連合国が「ユダヤの戦争」を遂行しているとドイツ人が批難するのではないかと恐れたためでした。ユダヤ人に対して反感を持っていたのはドイツ人だけではありませんでした。このような偏見は連合国にも中立国にも広く行き渡っていました。

仮に連合国側がもっと積極的に対処していたら、ヒトラーはどのように反応したでしょうか?

腰の入らない適当な抗議以外、実質的には何もしなかった連合国と中立国は、ナチスの行為の前に立ち塞がりえたかもしれない障壁を打ち建てなかったという意味で、虐殺の実行を容易くしました。たとえこのような障壁があっても物事の進行を局所的な形以外では止めることはできなかったでしょう。ただ、ヒトラーは時折柔軟さを見せています。例えば、ヒトラーは1941年に身体障害者の処刑を中止しましたが、これはカトリック教会が動いたためです。しかしユダヤ人問題に関してもヒトラーが同じような柔軟さを見せたかもしれないとは私には思えません。ヒトラー自身はユダヤ人を悪魔だと考えていました。

ならば、たとえば連合軍が収容所へ続く線路を爆破するとか、軍事的に介入していたらどうなったでしょう?

それでもジェノサイドに関して大した変化はなかったのではないでしょうか。線路の修復にはほとんど時間がかかりません。連合国側はドイツを武力で叩きのめすことによって戦争をできるだけ早く終わらせるという選択肢を選びました。この目的のためにあらゆるリソースが集中されました。そしてこのような状況下で、収容所の破壊には大きな利益がなかったわけです。
(翻訳おわり)

Un historien dé,nonce les oublis d'Auschwitz
アウシュヴィッツ忘却を告発する歴史家

1月22日付け ラ・リベルテ Patrick Vallélian
元記事はこちら


(翻訳はじめ)
水溜まりの中の石畳の道…。アウシュヴィッツ解放の公式記念行事から少し距離を置いて、イタリアの歴史家で長年収容所の機構について研究しているマルチェッロ・パゼッティは臆することなく口を開いた。パゼッティは現在の収容所跡地は記憶というその使命の重大さにそぐわないものだと考えている。パゼッティはリベルテの独占インタビューに答えてくれた。

世界中が大掛かりな式典の準備に向けて動いているのに、あなたは非難の声を高めていますね。なぜですか?

マルチェッロ・ペゼッティ:ただ単に、収容所が現在置かれているような状態では戦争中にそこで起きた現実を見せることができないからです。

えっ?

現在アウシュヴィッツを見る事、体験することができるのはアウシュヴィッツ第1強制収容所に限定されています。しかし、ナチスの殺人機構が最も多くの人々を殺したのはビルケナウにあったアウシュヴィッツ第2強制収容所でのことでした。ビルケナウのガス室ではおよそ100万人が殺害され、そのほとんどがユダヤ人でした。まさしくこの施設こそ強調されねばならない場所なのです。しかしそうはなっていません。私の知るところでは、アウシュヴィッツ見学者の3分の1以下しかビルケナウを訪問しません。アウシュヴィッツが何であったかを理解しようとしているのなら、これは普通ではありません。

このようなズレをどう説明なさいますか?

実はアウシュヴィッツ第1は抵抗運動の記念の地なのです。アウシュヴィッツが大々的に宣伝されたのはソ連の共産主義時代のことでした。問題は、ポーランド人がこのソ連の信仰を受け継いで、さらにポーランド人やカトリック信者の犠牲者を前面に押し出したことです。そのせいで、97万人の死者を出し、収容所の主な犠牲者であったユダヤ人は脇におしやられました。これは歴史的な現実の否定です。突然見学路から第2収容所が完全に削除されてしまったのです。この現状を変化させるため、ポーランド国外からの圧力に頼らねばならなくなりました。

なにか例はありますか?

フランス、イタリア、ユーゴスラビア、さらにはオランダから集められたユダヤ人が汽車から降りた直後に強制労働か死かを選別されたユーデンランプは完全に忘れ去られていました。60年の間、隠微されていたといっても過言ではありません。この場所の復元が始まったのは先月のことです。またアウシュヴィッツ最初のガス室バンカー1のこともあります。この施設があった土地は宅地として造成されたため、ユダヤ人が買い取って復元しなければなりませんでした。彼ら自身の過去の記憶を尊重させるために金を払わなければならないなど、とんでもないことです。

ビルケナウが3度目に拡張された「メキシコ」についても言及されていますね。

この土地はもとの所有者に返還されました。バラックは取り壊されました。そしてこの巨大な墓場の上に住宅が建設されたんです。これを気にかける人は一人もいませんでした。また収容所の司令室があった場所には教会が建てられました。

あなたの提案していることは?

世界中のユダヤ人から寄せられた寄付やヨーロッパの基金を、アウシュヴィッツとビルケナウの間で適正に分配することを私たちは求めています。ユーデンアンプのそばにあるカルトゥッフェルバンカー(じゃがいもバンカー)を復元するというのが私たちのアイデアです。そこに、ビルケナウまでの囚人輸送とガス室への道のりを再現した展示場を作りたいのです。つまり、歴史を再現するということです。

つまり、ひとつのシンボル(象徴的な場所)を創り出すということですか?

それがまさしく問題でもあるのです。シンボルは研究の対象にはなりません。シンボルは単なるシンボルです。私の考えでは、アウシュヴィッツの死者製造システムのしくみを理解して仕事をしている歴史家は多くありません。もうひとつの問題は、ビルケナウで歴史的な研究をするにはほとんど遅すぎるということです。多くの痕跡は消し去られてしまいました。ですから、歴史ではなく、死そのものを研究する考古学的なものに研究が変化していかねばなりません。

1947年の解説以来、2500万人の見学者が訪れた資料館についてはいかがお考えですか?

資料館の説明書きをすべてやり直さなければなりません。「プロバガンダ」が多すぎ、「歴史」が少なすぎます。この資料館を見学しても、ユダヤ人やジプシーの抹殺については何も理解することはできません。しかし、これらを理解することは、この地獄が何であったのかを把握するためには本質的なことなのです。絶滅収容所ではなく、強制収容所としての側面が強調されすぎています。
(翻訳おわり)

"Oswiecim se meurt", jurent ses habitants
「オシフィエンチムは死にかけている」と口をそろえる住民

1月22日付け ラ・リベルテ Patrick Vallélian
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(翻訳はじめ)
オシフィエンチム、ドイツ語ではアウシュヴィッツの街路を、夜間ぶらつくのがパヴェルの習慣だ。パヴェルは26歳のコックだが、夜間の散歩には危険はほとんどない。いかつい肩で背の高い元スキンヘッドはこの町のボスの一人として通っており、どうやって身を守ればいいのかもよく知っている。それにオシフェンチウムの夜は死んだような静けさなのだ。出歩く人はほとんどおらず、バーやレストランは早い時間に閉店してしまうと若いパヴェルは毒づく。
住民4万8000人のこの町の中央広場を友だちとうろつきながら、「ここにはすることは何もないんだ」とパヴェルは続けた。「今から数年前にはまだ、クラブが一軒あった。でも奴らは上手くやってクラブを閉店に追い込んだんだ。クラブの建っていた場所が、収容所を取り囲んでいる沈黙ゾーンに近すぎたからだよ」
オシフィエンチムの若者から楽しみを奪っている「奴ら」とは一体誰なのだろう?パヴェルはしばし口を噤んだ。「誰って、ユダヤ人だよ、当然」と、パヴェルはそれが当たり前のことであるかのように答えた。「奴らは建物を買ってバーを閉店させることまでやるんだ。そういうのは合法なんだよ。でも、そんなことをしたら町は死んでしまう。奴らは何もかも全部コントロールしたがるのさ」

観光にはよろしくない

悪評で名高い2つの「S」が腋の下に刺青されているにもかかわらず、パヴェルは自分が反ユダヤ主義者ではないと力説し、若者たちが町を出て行くのは当然だと語った。事実、1年ちょっと前からドイツ・チェーンのスーパーマーケットがようやく一軒できたばかりのこの町は、経済的には惨憺たる状態にある。「収容所が町の発展をすべて邪魔しているんです」とヘンリクは指摘した。30代のヘンリクは町である工場の建設に従事している。「町に工場を建てようとすると、特別な圧力がかかるんですよ。それで投資家がしり込みしてしまうんです」
また投資家たちはオフィシエンチムという町の名も嫌がる。オフィシエンチムの悪評はポーランド国内では有名だ。「ここに住んでいると話すと、ふつうは変な目で見られるんですよ。他所の人たちは、私たちが墓場の上に住んでいると言うんです」と自動車整備工のスタニスラフ・ガルシュカは語った。
いずれにせよ、1947年開館以来収容所資料館の見学者は2500万人にのぼり、2004年だけで50万人が訪れた。観光産業への影響は大きいはずではないだろうか?「観光客は普通、日中収容所を見学したらすぐクラクフ方面に移動してしまうんです。この町には足を延ばしてくれないんですよ。商店で買い物もしてくれません」。したがって町にある5軒の商店の経営も楽ではない。「観光客は町にお金を落としていってくれません」とスタニスラフ・ガルシュカは認めた。

全てを妨害する「奴ら」

「いずれにせよ、スケートリンク、オリンピック・プール、それからいくつかの教会以外、ここにはあまり見所はないんですよ」とヘンリクは言いつのった。「町は死にかけているのに、誰も救おうとはしません。開発計画が必要なんです。でも奴らが全部妨害するんです」。奴ら?当然ユダヤ人だ。「奴らはたいした政治力を持っているんですよ」。そして実のところ、奴らの望みはたった一つだけだとスタニスラフは付け加えた。「僕らを追い出して、例の場所を祈りの場所に建て替えるために町を封鎖することですよ」
戦前にはオシフェンチウムの全人口の60%を占めていたユダヤ人は、現在上シレジアのこの町であまりよく思われていないようだ。「奴らは僕らが腰を低くしてこそこそ歩くことを望んでいるんです」とパヴェルは吐き出すように語る。それをヘンリクが「奴らは僕たちを見下したいんだよ」と補足する。
このような主張に、クラコフ大学のフランス人学生、ベアトリス・プラキエは笑いをもらした。「もし私たちユダヤ人がそれほどの力を持っていたら、収容所を飾っているカトリックの十字架はとっくに取り外されていたでしょうよ」
(翻訳おわり)

Un antisémitisme sans juifs
ユダヤ人不在の反ユダヤ主義

1月22日付け ラ・リベルテ Patrick Vallélian
元記事はこちら


(翻訳はじめ)
ユダヤ人のいない国で反ユダヤ主義者になることは可能だろうか?どうやらそうらしい。アウシュヴィッツから60年後のポーランドにはいまだに人種主義の痕跡が染み付いている。ポーランド各地の外壁に描かれた落書きがそれをよく物語っている。絞首台にダビデの星がぶらさがっていたり、ダビデの星がめちゃめちゃに消されたりしている。外国人にはあまり目に付かないが、ポーランドのル・ペン、アンドレイ・レッペルを称える落書きもある。
クラコフにあるユダヤ書店の店主、ジジスラル・レスは「時々反ユダヤ的ないやがらせをされたり、嫌味を言われたりすることがあります。でも一般的に言って、たいして深刻なものではありません」と語る。ベルゼツの絶滅収容所に関する本を執筆中の英国人歴史家マイケル・トリゲンザは、東部のルブリンで状況はより深刻であると語る。「ある日、ユダヤ教の司祭を礼拝堂に案内したんです。司祭が祈り始めたら、スキンヘッドたちがやってきて取り囲まれました」
ポーランド人の中には、ユダヤ人の絶滅のおかげで家や企業を安価で買い取ることができた者もいることは指摘しなければならない。このようなポーランド人は遺産相続人が名乗り出ることを恐れている。クラコフ大学の学生であるパリ出身のベアトリス・プラキエは「カジミエルズ地区の家屋が突然廃墟になったりするのもそのせいだと思います」とそっと教えてくれた。
このような熱気の高まりをどう説明したらいいのだろうか?クラコフの開業医、アレクサンデル・B・ストニツキーはポーランド人に対するイスラエルの態度は昔からのものだと語る。「イスラエル人やアメリカのユダヤ人の一部の間には、一般的に言って非常に強いポーランド嫌いの感情があります。彼らの家族を救うためにポーランド人にもっとできることがあったはずだと彼らは考えているんです」
クラコフのユダヤ人街であるクパ地区でシナゴーグ付属美術館の管理人でもあるこの医師は、しかしどうやってあの当時、あれ以上ユダヤ人を助けることができただろうかと自問している。「1939年、ポーランド軍は5週間ナチス軍と共産軍に抵抗しました。その間、フランスとイギリスはポーランド人が死ぬのを傍観していたんです。戦争を止めてユダヤ人を救うことができたかもしでないのは、むしろフランスやイギリスのほうでしょう」。また、数多くのポーランド人がユダヤ人を助けたために死ぬことになったとアレクサンデル・B・ストニツキーは主張する。「こんな風にポーランド人が非難されるのはおかしいですよ」
(翻訳おわり)

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