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(回答先: 肥大したジャーナリズム背後にいる電通の威力 投稿者 外野 日時 2005 年 2 月 11 日 19:18:35)
「人間、この非人間的なもの」 なだいなだ著より抜粋。
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日の丸を掲げる人と日の丸に掲げられる人
--連帯の象徴である前に孤立の象徴である日の丸--
オキナワからサッポロヘ
オキナワ国会の終る頃、木枯らしが吹き、北日本と裏日本は雪に埋もれて、いよいよサッポロではオリンピック冬季大会が開かれることになります。安っぽいファンファーレの音を、テレビでうんざりするほど聞かねばなりますまい。そして、テレビもラジオも、新聞も週刊誌も、サッポロのオリンピック記事で埋められてしまうことでしょう。日の丸があがれば、紙面のスペースは更にサッポロのためにとられることになります。
こうして、二週間ほどの間、北国が雪にとざされるように、日本中はサッポロの文字で埋められてしまうでしょう。なにしろ、日本の商業ジャーナリズムのオリンピック好みといったら、世界でも定評のあるところですから。そして、さしも高められたオキナワ協定をめぐっての熱気も、いつの間にやら寒い国からのメッセージによって冷やされ、オリンピックの終る頃には、日本の政局は平静をとりもどすといったぐあいでしょう。考えると、うまくできています。いや、あまりうまくできすぎているので、今のおそまつな自民党には、こんなにうまく計算できるものはおるまい。だからそれは、こちらの思いすごしにしか過ぎないだろうと、考えねばならなくなるほどです。しかし、もし、それが、充分に意図され、計画されていたのだとしたら、推理小説における完全犯罪にもあたるような、巧妙なやりかたであるといわねばなりますまい。そこに、マスコミを利用した、大衆操作の巧妙な技術が可能性として浮かびあがってきます。
もし、マスコミを権力が利用しようとする場合、直接に大衆を操作することは、ありえないでしょう。現在の商業ジャーナリズムは、今のところ、政治的な第三者の位置を売物としています。もし、権力との完全な癒着ぶりが明白になったら、読者から、そっぽを向かれることになりましょう。そうなったら、権力の、マスコミと癒着した意味がなくなります。
ですから、マスコミが、表面的だけでも批判的でなければ、権力にとって利用価値はないのです。また、マスコミ自身も、批判的姿勢の中に、自らの存在価値をみとめているので、たやすく権力者の支配に屈することはありますまい。としたら、マスコミを、自分に対して批判的な姿勢をたもたせながら、それでいて無意識のうちに、自已に協力させることしか、それを利用する方法はありません。
そのためには、マスコミを直接支配しようとするより、マスコミの弱点をとらえ、それに積極的に働きかける方がいいのです。マスコミは、ニュースを餌として、飼われている巨大な動物という一面があります。どのような場合にも、ニュースという餌をなげられれば、その餌にとびつかねばならないのが、商業ジャーナリズムの悲しい性なのです。そこで、たとえば、強行採決をすれば、そのニュースにとびつき、権力に批判的であろうとするために、執拗に政府与党を攻撃してやまないマスコミの前に、オリンピックという餌をなげ与えたらどうなるかです。マスコミは、そのとたんに、自己の弱点をさらけだし、その餌にくらいつかざるをえません。そして、その餌にくらいついている間、前のニュースを追えなくなり、かくして、悠々と相手を立ち去らせてしまうというわけです。
マスコミは、こうして、権力による大衆操縦の巧妙なはめてに、自らはまりこみ、いつの間にか、批判のポーズをとりながら、結果としては、相手に協力している、ということになります。
私が、サツポロがオキナワのあとに置かれたことが、偶然か意図的かを考えざるをえない理由が、これでわかってもらえるでしょう。
こうして、一度サッポロの時点まで行き、そこから、ふりかえるようにして、現在おこっていることを見たら、どうなるでしようか。今起っているすべてが、あたかも、すべて予定されていたかのように見えてくるのではないでしようか。強行採決、国会の混乱、審議のストップ、各党間の話しあい、そして、自民党の単独審議か、あるいは、社共両党の審議拒否が続き、そのあとで、国会の「正常化」の話し合いが続けられることになります。国会の外では、抗議の集会やデモが、かなり激しくおこなわれるにちがいありません。商業ジャーナリズムは、当初は、激しく自民党へ非難攻撃を加えますが、そのうち一部野党の柔軟ならざる態度に、非難を向けはじめるでしょう。
だが、そのすべては、サッポロ・オリンピックの日の丸があがるか、あがらぬかという興奮の中で、いつの間にか冷却され、過去のものとされるという段取りです。今、私たちの前で、ただ流動的で、どうなるかわからないように思われている状況が、こんなふうに、なにもかもすじがきどおりに進行しているだけなのだと思われてきて、私に深いためいきをつかせます。しかし、それが私の考えすぎにすぎず、サッポロがオキナワの直後にあるのは、計画されたものでなく、まったくの偶然にしかすぎないとしたら、日本の保守派は、なんとツイているのだろうと思わざるをえません。
死んだ自民党の某大物政治家は、「政治は、一寸先は闇だ」と、口癖のようにいっていました。私はこの人物は好きになれませんでしたが、この言葉の方は好きでした。そもそも、この人物は権謀術数で政界を泳ぎぬいてきた、古い型の政治家としては最後の人で、そうであるからこそ、一瞬の油断も自分の政治生命を危うくすることを認識していたのでしょう。この言葉は、そうした政治生活を送って来た彼の実感ではなかったかと思います。また、一寸先は闇だといいながら、現実には、彼自身はともかく判断をあやまたず、上手に泳ぎぬいているのですから、結果として、大した器量人であったことになります。それを、言外にいいたかったのもかもしれません。しかし、現在の政治状況を見ていると、なにもかもが、すじがき通りにはこばれていて、この政治家が、政治は一寸先が闇だなどといったことが、信じられなくなります。そして、政治が、ほんとうに一寸先は闇であってくれたらなあとさえ、思うのです。