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「朝日と読売の火ダルマ時代」 藤原肇著より抜粋。
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[歴史の証言]『肥大したジャーナリズム背後にいる電通の威力』
朝日と読売という日本の2大新聞について、その抱えている問題点を考察していく過程で、日本のメディアに共通する一般論になり、広告を通じた情報支配が話題になった。話の相手がその方面に詳しかったためで、私が予想もしていなかった展開であるが、この収穫を含むインタビューの再現に際し、相手の名前をRとして対談を記録に残した。
販売力で突進した読売とグレーシャムの法則
F 朝日と読売のトップ争いを調べていたら、読売の中興の祖である正力松太郎の役割が、重要なものとして浮かび上がりました。内務大臣の後藤新平と財界の資金をバックに、反政府の砦だった新聞を乗っ取る目的で、警視庁の高級幹部だった彼が読売に乗りこみ、大正デモクラシーを潰した陰謀があったらしい。
戦前と戦後では警察の機構が大きく変わり、内務省が建設省や厚生省などに分割され、警察庁や自治庁なども独立しています。内務大臣の下で治安を担当した警務局長と、戦後の警察庁長官との間の権力の差には、具体的にどんなものがあるのでしょうか?
R 戦後は国家公安委員会の下に警察庁があり、長官のすぐ下にいるキャリアが局長だし、それが警視庁では警視監になるわけです。また、貴族院を始め内閣や議会を扱う任務だったので、正力がやった官房主事は筆頭局長に相当していた。
F 幾ら虎ノ門事件で辞任していたにしても、そんなやり手を読売に送り込んだという後藤新平には大きな計画があったのでしょうか?
R 読売は何といっても三流新聞だった事実からも、正力をそんなに過大評価するのは疑問だな。また、大衆を引き付けるためにお化け屋敷を作ったり、野球の興行に熱を入れたりしているから、ちょっと愚直に過ぎる感じもします。また、正力と務台のコンビが出来て事業が発展し、全国紙として読売が本格的に動き出したのは、帝人事件を乗り越えた戦時体制の中であり、正力の性格も大いに関係していたせいで、軍国主義の旗振り役の先頭を切っている。
F 販売の神様といわれた務台は裏の世界にも強く、かなり強引な拡張のやり方を使い、競争紙の販売店を攻略したらしいですね。
R 務台路線の中心は押し紙をどんどんやって、販売店に無理難題を押しつけて部数を増やしたり、洗剤や携帯ラジオを景品につけたりで、競争紙のお客を奪うことで有名でした。販売について特別詳しいわけではないが、広告媒体としての発行部数に関して言えば、何が何でも部数を増やせという路線で、質より量の競争について実行しています。
広告による言論支配の実情
R その原因として日本的な歪んだ構造があり、電通という存在が大きな力を持っていて、ここがメディアの広告斡旋を独占的に支配し、新聞社の首根っ子を押さえている。問屋制度を大規模にしたやり方ですが、その都度に広告面を買い取るのではなく、上半期や下半期という単位で紙面を買い切り、それを広告主に売り捌いているのです。そうなると新聞社としては経営は楽でして、広告部員が注文を取るために走り回ったり、頭を使って成績を上げる必要がなくなる。そして、営業部は電通のご機嫌伺いだけが仕事だから、馴れ合いが蔓延するのは必然になります。
F 電通の意見を忠実に聞くことが仕事になり、それが新聞杜の経営に影響すれば、記事の内容も間接的に電通の顔色を伺って、自已規制をしながら書くことになります。しかも、電通の実力はダントツというしかなく、2位の博報堂は大きな差をつけられて、自由競争がほとんど機能していないから、電通の圧倒的な支配が確立してしまった。
R 博報堂は電通に較べたらガクンと落ちるし、大阪の大広も隙間で辛うじて稼ぐ程度だから、そうなると電通の権力は絶大になる。
F 電通がそんなに圧倒的な力を持つ理由に、歴史的な背景があると思うのですが、それはどんなことだったのでしょうか?
R 戦前は電通と連合の2つの通信社があって、両方が海外情報を取り扱っていたが、大陸に侵略の舞台が広がったこともあり、政府は言うことを聞く通信社が欲しくなった。特に満洲国が国営の満洲通信を作ったし、関東軍の報道統制に協力したのを見て、日本政府も国策を遂行に情報操作の必要性を感じ、斎藤実内閣は通信統制に乗り出したのです。そして、軍部が独裁化してファシズム体制が固り、日独防共協定が締結されたりしたので、二・二六事件が起きた1936(昭11)年に、広田内閣が同盟通信を強引に発足させました。
その時に電通のニュース関係を扱う部門と、連合通信を一緒にして同盟通信を作ると共に、広告部門を担当していたセクションを切離し、広告会社としての電通にしたのです。
しかも、電通は軍部の情報機関と提携して、上海を足場に中国市場に進出したのだが、特務機関の隠れ蓑として動いたわけです。
F それで戦後になって政府の広報機関として動き、自民党の広報を担当した第9連絡局が、総理府の宣伝予算を独占したのだし、GHQとの関係でCIAの東京支局として、いろんな工作に関係したと言われるのですね。
R 満洲や上海から引き揚げて来た者を引き受け、旧軍人や満鉄関係者を大量に採用して、戦後における一種の情報機関化したわけです。この段階の広告代理店はヤクザの親戚であり、飲ませたり抱かせたりで商売をやったし、強請やタカリとハッタリを武器にして、いかがわしいことをやりまくってましたな。
そんな営業路線にアメリカの広告術を取り入れ、近代化を試みたのが社長の吉田秀雄であり、有名な「鬼十則」というスローガンの下に、日本の広告市場の制覇を試みました。同時にGHQや日本政府にも食いこみ、影の情報局とか築地CIAと呼ばれて、その威力を天下に知られるほどの実績を築いて、メディアの世界を完全に掌握したわけです。
F 吉田家に書生として住みこんだ人の話では、社長は非常に厳しい親分肌の人物で、実力者の子供を優先的に入社させたり、社員を代議土の秘書に送り込んだそうです。その人は吉田社長の支援でアメリカの大学を卒業し、一種の国際フィクサーとして生きていたが、彼が電通はフィクサー集団の巣だと言ってました。
R 日本では読売の正力松太郎を怪人扱いするが、実力の点では新聞社より通信社に大人物がいて、権力を外から動かす手腕を持っており、電通の吉田秀雄や時事の長谷川才次の前では、正力も小怪人に見えるほどでしたな。
だから、日本の新聞が電通に手なづけられてしまい、テレビや雑誌のメディアも支配されたのは、説明抜きで当然と言うだけです。
秘密の鍵はニューヨークにある
F 正力が読売で実践した大衆化の路線も、背後に電通があったと考えることが出来るし、その点で[シオンの長老の議定書]の路線に注目して、実践したのが電通だとも言えそうですね。
R 日本で最初にマジソン・アベニューに目をつけ、そのノウハウを取り込んだのが吉田秀雄だから、ユダヤ仕込みの宣伝術のマスターに関しては、彼が日本で一番であっても不思議ではない。それに上海で謀略活動をした特務の人間で、影佐機関と密着していただけでなく、東条内閣時代の憲兵特高課長をやった、塚本誠大佐も戦後は電通社員だったから、知られざる秘密工作もあったでしょうな。
F その辺をもっと調べない限りは、日本の戦後秘史ははっきりしないだろうが、なぜ日本の新聞が巨大化路線を突き進んだか、解明のカギが見つかるかも知れませんね。
R 日本では軽薄なユダヤ陰謀説が蔓延して、それを吹聴して大儲けしている連中が多いが、要するに資本主義のノウハウは金儲けにあり、それをユダヤ人が最初に握っただけのことです。そして、ユダヤ人が一番大量に集まっている町が、ニューヨークだから米国は繁栄したのだし、その中心地がマジソン・アベニューだった。しかも、それに注目してビジネスに生かした最初の日本人が、電通の中興の祖の吉田社長だったから、電通は日本のメディアを支配したのです。そう考えれば至って簡単であり、電通がメディアを通じて日本を支配したのも、当然の結果だと言えるのではないですかな・・・。
F 確かにそうですね。でも、アメリカの広告代理店の場合は、自由競争の原理が機能しているせいで、1つの広告代理店の業界寡占はあり得ず、GMとフォードは別の広告会社を使うし、業種別に激しい実力競争が行われている。ところが、日本ではトヨタも日産もマツダも電通だし、家庭電器でも東芝、松下、日立、サンヨー、ソニーが、揃って電通に広告を任せているように、全く奇妙なことが罷り通っているんです。
R だから、電通は世界一の広告代理店になったのです。政府広報でも電通がダントツで、政府御用達をほとんど独占しているし、新聞広告の圧倒的なものは電通を仲介にして、もたれ合いで安易な営業をしています。そこには読者なんて存在しておらず、広告を受け取り宣伝を流す対象として、マスに対してのメディアがあるだけです。読売や毎日の幹部の子弟たちが電通社員だし、朝日の中江社長の息子も電通に入社しているが、飛び降り自殺をした事件が起きた時も、電通が工作して新聞記事にならなかった。それくらい日本のメディアは電通に押さえられ、世界有数の発行部数を誇る大新聞でも、手も足も出ない状態だから情けないんだ・・・。