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(回答先: Re: 「NHK番組改変」の気になる“中身”【SPA! 05.2/8号】 投稿者 JFK 日時 2005 年 2 月 11 日 03:33:55)
僕が最初この記事(NHK番組改変劇「暗黒の5日間」)を読んだ動機は、ことの経緯が放送の改変部分の内容とともに詳しく書かれているようだったから、です。番組の改変後と改変前のビデオなどを見ることが出来ない者にとって、この記事はそれだけで読む価値があるものでした。
今回の番組内容改変の問題には語りかける二つのテーマがあると思います。
一つはメディアに対する権力者の介入の問題、もう一つは、放送にとっての公平中立とは?という問題です。
NHK番組改変劇「暗黒の5日間」(魚住昭)はご指摘のように、前者の問題についてのルポです。後者については詳細な検証がされていません。
ことの優先順位からいきますと、前者の次に後者ということになります。まず前者の権力者による介入という問題を片付けてから、公平中立の問題を論ずるのが正しいでしょう。今回の場合、この二つの問題を一緒にやろうとすると、前者の問題が置き去りにされる危険性があるように思います。今回のようなものの場合、それだけ公平中立の問題というのは議論の幅がひろいものだということがいえるのかもしれません。
従って、NHK番組改変劇「暗黒の5日間」(魚住昭)は、番組自体の公平中立という問題については検証不足だとはいえ、権力者の介入問題ということにおいてはよく出来た記事であるという印象であり、今回の問題の記事としてはよしとしたいと思います。
今回のこの番組における公平中立についてひとこと書いておけば、たとえ”「取材対象に近すぎる」番組制作の現場の問題”が実際にあったのだとしても、それは番組自体の質の問題であり、権力者による介入の存在の良否の問題にはなりえません。なぜなら、もしそういう理由で権力者の介入が許されるということになれば、それは検閲以外のなにものでもなくなります。
”癒着”があった、ということであれば、それはジャーナリズムにおいては失格ということでしょう。しかし、取材対象との個人の関わりという、ジャーナリズムの「距離」の問題ということになるとこれはむずかしい問題であるように思います。
たとえば、トーマス・マンは詩人について、「個人を語ることが世界を語ることにつながるもの、それが詩人というものだ」と言っています。これは当事者であっても、深いところで事実(この場合、客観的な基礎的な事実)を知らしめることが可能であるということにもなります。
逆に、もしまったくの部外者にしかものは語れない、ということになれば、あるものについての素人が、単に人の言うことやったことなどを列挙し並べただけで、そこには深い洞察も、深い認識を必要とする未来の展望というものも欠けたものが出来上がりはしないでしょうか。深い認識、深い洞察は、普通その件に長く関わることで得られるもので、その過程で、関係者らとの距離が近くなるということはありえます。要は科学者の意識も持ったジャーナリズム魂に帰結するということでしょうか。