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(回答先: 猿田彦大王の山から 日本国民概念序説 投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 03 日 00:02:05)
愚民党さん、こんにちは。
日本国民概念序説をありがとうございます。
“日本国民”が愚民党さん固有の“空”の観念によって捉えられていることが分かったような気がしました。おそらく、“日本国民”はあるようでないもの、ないようであるもの、あるとしたら人々が其々に身体性で受けとめている中にこそ既に宿っているということになるのでしょう。愚民党さんが束の間の故郷(原風景)へ帰還して目にした情景には、今も尚その証が息づいていると感じました。
以前、私は“身体性”に拘ってみた場合に“日本”をどう受けとめることができるかと、自問ともつかない問いを発したことがありました。解剖学者の養老孟司が『唯脳論』の中で世界は人間の脳の投影されたものといった見解を展開していましたが、その末尾で中継体(媒体)としての身体性の様態を如何に叙述するべきかという課題は殆ど手付かずのままであると述懐していた記憶があります。
>「敗北主義」と受けとられると思いますが、もはやユダヤ世界権力を凌駕することは、この21世紀において
できないのではないかと思っております。自衛するしかありません。
この部分は私とは意見を異にするものですが、「そんなことでは、ルサンチマンを源泉にして自らを選民に他をゴイムとし、歴史のシナリオを構成するようなユダヤの思想に伍して、かつ凌駕していくことなど到底叶うものではありますまい。」と述べたのは、「敗北主義」というよりはむしろ日本人は先ず己の内なる「ひ弱さ」を克服すべきとの主旨です。
>選民様は京都を世界大戦で爆撃しませんでした。古代、東方をめざしたオリジナル・ユダヤ人が日本に来ましてつくったのがエレサレムとしての平安京であるとする言説もあります。現在のユダヤ人は「ハザール王国」の末裔であります。エレサレムであった平安京たる京都をゆえに選民様は爆撃しなかったのであります。
京都を爆撃しなかったのは、アングロサクソン・アメリカンの意向が大きく働いたと考えています。新興の国USには、新興ゆえに伝統的なもの、遺跡にたいする畏怖があったのではないかと想われます。「ハザール人」の心象風景が実際どんなものであったか不明ですが、ユダヤ教はイスラム教と同じように偶像崇拝の禁止で元来他の文化にたいする不寛容性が強いものですから、京都爆撃の関して彼らは然程頓着しなかったのではないでしょうか。尚、エルサレムと平安京の近接性及び同質性についてはよく分かりません。
ご存知のように日本人は歴史的に限りなく混交していますし、その根の在り処も不明です。網野善彦によれば「日本の」を「ニッポンの」と読むと、それは「天皇の」とイコールなのですが、天皇の根拠でさえ不明確なのにそれ以前の日本の源泉を特定することなど殆ど不可能に想われます。
私が「世界の諸問題を“日本”という枠組みでは捉えきれない、受けとめることすらできないと考えるからです。」と強調するのは、無理矢理に国際主義に誘導したいがためではなく、「“日本”の処で思考停止してしまう傾向」から脱するのには、何かしらの例えば身体性などの媒介項が必要だと考えるからです。さらに、愚民党さんがその身体性で受けとめられている“日本国民”を“日本国民党”にするためには、普遍化のプロセスが肝要でしょう。それには一つに“国”と“個”という身体性との関係性に言及しなければならないと思います。しかし、「おそらく“国”に関する概念構成のプロセスを広汎に共有して来なかった、そんな民衆史の浅さに起因しているのかも知れません。」と見ているように、関係性の明確化が容易であるとは楽観視してはいません。もちろん、俄仕立ての大和魂や武士道への回帰が身体性の確保を包摂出来得ぬのは言うまでもないことです。けれども、“日本国民”を普遍化するプロセスとは、頭の先から爪の先まで西欧的な思考にどっぷり浸かりながら、かつそれを乗り越えようとする二重の困難性に立ち向うことと同義であることに変わりはありません。
愚民党さんがご自身の内的時間の位相を日本人の今日へさらに末来へと接合すべく悪戦苦闘している姿には頭が下がりますし、敬意をはらいたいと思います。“日本国民”をさらにブラッシュ・アップされることを願っています。
また、会いましょう。