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(2005.1.30)
「忘れたくても忘れてはいけないこと」
−ドイツ、フランスの感覚、日本の感覚タブー!
■ちょうど60年前の欧州、1944年6月のノルマンディー上陸作戦を大きな転機として攻勢を強めた連合軍は、ナチスによる強制収容所を次々と解放し、45年1月27日、ソ連軍によってポーランドのアウシュビッツ収容所が解放された。
この日を記念して、1月27日、約40カ国の首脳が集まって式典が開かれる。ドイツのシュレーダー首相はこれに先立つ25日、ベルリンでのドイツ政府主催の式典で「この大きな犯罪について黙っていたままで居る方がドイツ人にはいいだろう。しかし、ドイツ人には特別な責任がある。忘れたいという誘惑は大きいが負けてはならない」「ホロコーストはヒトラーだけの責任ではない。ナチスのイデオロギーはまぎれもなく、人々が欲したものだ」「過去は清算できないが。過去の痕跡と教訓は現在に至るものだ」と演説した。
アウシュビッツでは、欧州各地からユダヤ人を収容し、ガス室での大量殺害や病死などで約100万人が死亡した。いま、このアウシュビッツの歴史を抹殺しようとする動きがあるが、ドイツもフランスも、世界中がこれを否定しその責任を感じている。
■恥ずかしい日本の判決
一方日本では、26日、東京都の管理職試験の受験を拒否された在日韓国人の女性が訴えていた外国人国籍者管理職拒否事件で、最高裁が「日本人職員と外国人職員を区別するのは、法の下の平等を定めた憲法には違反しない」との判決を下した。訴えていた鄭香均さん(54)は日本に生まれ育った在日韓国人。しかしこの判決が問題なのは、日本が外国人に開かれていないという閉鎖性のほかに、鄭さんのような永住権を持った「在日」の人たちについて、歴史も権利も全くわきまえていない、「過去を忘れた判決」だという点だ。
ちょうど100年前の1905年。日本は「第二次日韓協約」を締結、外交権、警察権を奪い、韓国統監部を置く。そして5年後、韓国を併合、日本の植民地とした。日本は、朝鮮語の使用を禁じ、「創氏改名」をし、朝鮮の人々を労働力として鉱山や建設現場に、「皇軍」の一員として戦場に駆り出した。「日本人」であることの強制だった。
その子孫、家族合わせて終戦時に60万人余。日本は彼らを一律に「外国人」にして、手帳を持たせ、指紋押捺をさせ、統制を強めた。社会も彼らを差別し、まさに税金は払っても、健保や年金や公営住宅に入れないなどといった差別が70年代まで続いた。職場も狭まれたままだった。 日本の社会に溶け込むしかできない「在日」の人たちは、そこでどう働けばよかったのか。鄭さんは「外国人は税金を払うロボット。私たちは日本社会にひずみがあると提示しているに過ぎない。これは日本国民の問題」と語ったが、まさに恥ずかしいとしか言えない判決だ。
■地震津波をどう見るか
まだ惨状が残っているスマトラ島沖地震津波。日本のマスコミも、「日本人の被害」か ら「現地の被災」に焦点が移ったが、「ル・モンド・ディプロマティーク」の編集総長イグナシオ・ラモネ氏は、「現地に欧米人がいて、犠牲者に含まれていたこともあり、華やいだ年末という時期との恐ろしい対照をなす惨事は、世界的な反応を呼び起こした」「インド洋の全犠牲者に対する連帯意識によって、我々の中の多くが、今回の天変地異にとどまらず、これらの国に住む人々の日常的な生活状態の現実に目を向けさせられた。そして、これまでに集まった支援は大変なものだが、彼らの構造的困難を解決するにはまだまだ足りないことが明白だ」とし、次のように指摘している。
*同じ規模の「自然」災害では、貧しい国よりも豊かな国の方が犠牲者は少ない。これは、先進国には経済力があるからで、我々は天変地異の前に不平等だ。毎年およそ2億1100万人が災害の被害にあっているが、その3分の2は南側諸国の住人だ。
*津波への援助は、現時点でおよそ40億ドル。米国の軍事予算は年間4000億ドル、昨年秋のフロリダのハリケーン被害に米国が出した支援金は30億ドルだ。 *UNDP(国連開発計画)によれば、世界的に見て、飲み水、屋根、まともな食物、初等教育、必須の治療などの基本的サービスのための資金が年間800億ドル不足しているという。この金額は、ブッシュ大統領がイラク戦争の資金として要求した増額予算と一致する。世界銀行の最新統計では、被災国のうち5カ国の対外債務は計3000億ドル。貧しい国々は「債務の返済」という名目で、北半球に毎年2300億ドル以上を払っている。
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2005年1月号)
■「地球税」の提案
ラモネ氏は「今回のような緊急事態と公正な世界を築くために、国際付加価値税のようなものを創設する必要が増している。外為市場への課税(トービン税)、武器売却税、再生不能エネルギーへの消費税など『地球税』のアイデアが、フランスのシラク大統領らから提案され、国連で100カ国以上から支持されている。こうした国際連帯税の即時実施を主張するために、インド洋の惨事が世界中に呼び起こした感情を支えとしない理由があるだろうか」と述べている。
この「地球税」の感覚。日本にはどこにあるのだろうか?
日本のマスコミ自体、この問題をほとんど書いていない。日本は欧米の共生や連帯の感覚、その精神的な高さと比べ、遅れている。
「過去に目をつぶるものは、現在についても盲目となる」(ヴァイツゼッカー西ドイツ元大統領)…。(M)
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(2005.1.24)
タブー!
■「タブー」とは「触れたり口に出したりしてはならないとされる物・事物。禁忌」(広辞苑)とされる。教育テレビの「ETV2001」番組について、最初の話があったとき、下請け会社の担当ディレクターは「企画がNHKでは通るはずはないのではないか」と思ったのだという。「従軍慰安婦」「旧日本軍の戦争責任」…。
■何とか企画は通り、制作に入ったが、できあがってから加わってきた右翼、そして自民党の「圧力」。「このまま出したら皆さんとお別れだ」―そう言われて、下請け会社は番組制作から降り、NHK自身の手での修正が始まった。44分が43分に、さらに40分に。貴重な証言は削られ、出演者に「人格」も傷つけられた。やはり「慰安婦」はタブーだった。
■戦前、日本のタブーは、「菊」=皇室、「桜」=陸軍、「錨」=海軍などといわれたが、いまやいずれも、「菊」=天皇制、「桜」=自衛隊、「星」=米軍になり、それに「鶴」=創価学会が加わった。そしていま、このタブーは再編成され、「天皇制」や「戦争責任」「慰安婦」「南京事件」のグループとなってしまった。
■つまり、こうした問題を一般メディアが取り上げることは「危ない」のだ。もっと言えば、「北朝鮮」も彼らの立場に理解を示すとタブーに触れる。「共産党」もその主張を「その通り」とは書きづらい。このまま行くと、「戦争放棄」も「非武装」もタブーになりかねない。
■「危ない」問題について論じられずに、ジャーナリズムとは言えない。「そのとき、私には直接関係がないから黙っていた。教会が攻撃されたとき、立ち上がった。そのときはもう遅かった」―ニーメラー牧師の言葉をまた思い出す。
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(2005.1.20)
NHK問題の本質−−ETV番組改変への
政治介入がもたらすもの
■NHKに対する安倍晋三、中川昭一両氏による番組介入事件は、当時から「何かあるはずだ」とみられていただけに、「やっぱりそうか!」という実感である。
下請けのプロダクションに作らせていた番組について、放送の前日、当日になって修正する、しかも時間が短くなっている、出演者が怒っている、という話は、当時も話題になり、小さな会合が開かれたこともあった。そこで真相は明らかにはならなかったが、単に右翼に押しかけられたくらいで起きるはずはない、と多くの人々が感じていたからである。
■最初の「朝日」の報道を読んで、まず驚いたのは、当事者の政治家が「注文を付けるのは当然」と開き直っていたことだったが、その後の2人の「否定」を読み、「朝日」の取材経過のレポートを見れば、いかに彼らが「傍若無人」「破廉恥」で、ジャーナリズム、ひいては国民の意見などどうでもいい、と思っているかがよく分かる。
こんな政治家には、即刻辞めてもらわなければならないし、こんなNHKの体質はとことんウミを出してもらわなければならないのだ。
■各紙がこの問題を報じ、社説で論じている中で、またまた「読売」と「産経」の異常さが目立つ。双方とも、「番組内容への介入」問題を、「慰安婦問題を取り上げた女性国際法廷」の問題に完全にそらし、「内閣官房副長官」という電波や予算の許認可権を握る政府の高官が、番組について事前に発言することの重みも是非も、無視している。「介入」を問題にはしないのである。
「読売」は「不可解な『制作現場の自由』論」(1月15日付)で、「そもそも従軍慰安婦問題は、戦時勤労動員の女子挺身(ていしん)隊を『慰安婦狩り』だったとして、歴史を偽造するような一部のマスコミや市民グループが偽情報を振りまいたことから、国際社会の誤解を招いた経緯がある」と書く。ここでは、1993年、慰安婦問題について「軍の責任だった」として官房長官が謝罪した(http://hs-8899.hp.infoseek.co.jp/kouno.danwa.html)経緯などは全く無視する。「『女性国際戦犯法廷』では、昭和天皇が『強姦(ごうかん)』の罪などで起訴され、有罪が言い渡された。このような性格の『法廷』の趣旨に沿った番組が、『制作現場の自由』としてもしそのまま放送されたとすれば、NHKの上層部はあまりに無責任、ということになる」と主張する。
「産経」に至っては、「NHK『圧力』騒動 この胡散臭さは何なのか」(18日付)と言い、問題自体について「ことさら問題を大きくさせているところに政治的なたくらみも感じる。そこに胡散(うさん)臭さを覚えざるを得ない」と、謀略扱いだ。そして「模擬法廷とはいえ、弁護人もつけず死者を一方的に裁いた政治糾弾集会だった。そもそも、これを教育番組として放送しようとすること自体に疑問を感じざるを得ないが、取り上げる以上、その内容を上司がチェックするのは、NHKに限らず報道機関の常識だろう。政治家の圧力の有無や公正な放送を求めた放送法三条などが問題になっているが、それ以前の問題」だそうである。
■果たしてそうなのだろうか?
私は、番組について最初に問題になったころ開かれた前述の会合で、「上層部が作り直せ、といってきたとしたら、それは異常なことだ。そのことに議論はなかったのか」と質問したが、「NHKではね…。難しいでしょう…」ということで、番組内容や編集について「もの」が言えなくなっている「現場のひどさ」を実感的に聞いたものだった。
問題は、現場で取り上げにくくなっている多くの「タブー」の問題と、そうしたことに発言しにくい「ものが言えない職場」、そして困難な問題を取り上げるのをやめてしまう「自己規制」である。
ものが言えない職場の中では、最初から、何を取り上げるかについても、「この批判は無理だな」「この団体のことを取り上げると、また何か言われるよ」「せいぜいこの人にしゃべってもらって、反論と言うことにするか…」といった枠の中に閉じこめられていく。「戦争責任はヤバイよ」になり、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」も「靖国神社」も、あるいは「戦争放棄」も「憲法」も「ヤバイ」問題になってしまうのだ。
■しかし、考えてみたい。「ヤバイ」問題について議論がなくなって、ジャーナリズムといえるのだろうか? そんなことで私たちは、メディアを信頼できるのだろうか?
「読売」は「偏向しないバランスのとれた報道が必要だ。それが、NHKの責務である」と書いている。その点、「読売」は、「産経」は、本当に大丈夫なのだろうか?
http://www.jcj.gr.jp/view.html