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松尾芭蕉は元禄二年(1689)三月末、江戸を立ち、門弟河合曽良をただ一人伴って、奥州への旅に出る。 そして、北陸路を経て、九月美濃大垣に帰り着く。この旅の紀行文が有名な「奥の細道」である。
この芭蕉の旅は、実は、情報探索、すなわち、スパイ活動を目的としたものであったとの説がある。
芭蕉は伊賀上野の赤坂農人町(現在の上野市赤坂町)に、松尾与左衛門の次男として生まれる。 伊賀上野は忍者の里である。家は無足人と呼ばれた郷士・地侍級の農家である。 十九歳の時、藤堂藩の侍大将の藤堂良精(ヨシキヨ)の嗣子、良忠に子小姓として仕える。 この時、主君の良忠と共に俳諧を学ぶ。 しかし、芭蕉二十三歳の時、良忠が病没したので致仕し、その後は専ら俳諧の道を歩むことになる。 ここで、彼の生家が「無足人」と言われる階級の家であったことが、まず注目される。 伊賀は甲賀と並び称せられる忍者の里である。 かつて、伊賀の郷士たちは「伊賀惣国一揆」を組んで守護大名の支配に抗して自治をはかり、各々、 伝統の武芸である忍術の修練に励んだが、やがて、織田信長の二度にわたる伊賀討伐によって壊滅する。 この時、多くの者が全国に四散して諸大名に仕えたが、また多くの者は郷士として伊賀に留まった。 彼らが無足人である。芭蕉隠密説が第一の根拠とするところである。
他方、俳諧と云うものは中世の連歌から発展したものである。 ところが、中世以来、連歌師たちは諸国を遍歴するので、しばしば諜報活動を担わされた。 室町時代の連歌師柴屋軒宗長などが、その有名な例である。 宗長は今川家の有力な家臣である朝比奈氏の掛川の城を詳細に探索し、日記の中に書き残している。 これが、芭蕉隠密説の第二の根拠である。
芭蕉隠密説が、その決定的な根拠とするところは、 その東北旅行に同行した河合曽良の「曽良旅日記」(「奥の細道随行日記」)と、 芭蕉自身の「奥の細道」との間に、八十個所以上にのぼる食い違いがあることである。 まず、江戸深川を旅立った日から既に食い違っている。 芭蕉は三月二十七日、曽良は二十日としている。 芭蕉の「奥の細道」は文学作品であるから、ある程度の文学的デフォルメがあるのは已むを得ないにしても、 その食い違いの多くは、そのようなことでは解釈出来ず、 そこには、何か隠されたものがあると見ざるを得ないと云う。
では、芭蕉は何を探索しようとしたのか。 最上川上流における紅花の技術を探ろうとした産業スパイであったと云う説もある。 これは、尾去沢の紅花問屋に十日近くも滞在して、「眉掃きを俤 (オモカゲ) にして紅花 (ベニ) の花」と云う句を作っているからである。
しかし、最近の研究によると、芭蕉の目的は仙台伊達藩の動静を探ることにあったと云われている。 当時、幕府は伊達藩に日光東照宮の修繕を命令したが、莫大な出費を強いられることから、 伊達藩が不穏な動きを示す可能性があったためと云う。 そして、彼はこの探索を水戸藩を通じて命ぜられたと云う。 事実、彼の旅程を詳さに検討すると、伊達藩領内については、何かと異常と思われる節が多く見られるのである。
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(参考文献) NHK 「歴史発見」2(奥の細道・芭蕉、謎の旅路)、1993、