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(回答先: 秋の日のヴィオロンの・・・ 投稿者 染川瀝青 日時 2005 年 8 月 23 日 01:28:59)
藤原敏行
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tosiyuki.html#AT
秋立つ日、よめる
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今169)
海潮音は美文のかたまりなもんで、あまり気にかけてはいなかったんですが、つい現実の政治家の抗争を見ていると、うらびれてゆく寂しさを歌に託してみた次第です。
かなかなぜみは、南九州の片田舎住まいのころの幼年時の私にとってはとても思い出が深い。
あれが鳴くのを聞いていたころを思えば、どうしても現在の私の生活からみて喪失感に満ちてしまいます。
夏の夕方のことです。夏は夕立がかならずありましたね。
真っ暗な闇の中で、藪で鈴虫とりしたり、小さな用水路や溝では蛍が飛んでいました。
カナカナカナカナ・・・とゆっくりと静かに鳴く声がどこかの杉林(防風林でしたが)から聞こえ、そして第に消えてゆく。そしてこれにこだまするかのように、また近くの杉林静かに別のところから、かなかなかなかな・・・と聞こえてくる。一匹が鳴きやんでから、途切れ途切れではあるが、静かに波が寄せ、そして退いてゆくようにいつまでも、夏の夕暮れに響く「ため息」(ため息は現在的なとらえかえしですが)。
なぜ、かくも、ありありとあのころの光景を思い出すのか。
当時の田舎では木炭バスや高等馬車で町に出ていた時代だった。戦後10年もしない時代で、人々は貧乏で、山が本来の山の静けさをもっていた。お山の杉の子の歌にあるように国土は荒れていたのだろうが、何よりもエンジンの音を立てまくる「車」の騒音がなかった。だから一日中静かだったのでしょう。
夜は道は真っ暗。
友達の家に遊びに行ってつい夕方暗くなってしまうまで遊んだあとは星空を頼りに、上を向いて並木の黒い影を確認しながらとぼとぼ帰宅した。ようやく我が家のあかりがみえてきたときの嬉しさ。
こういう感覚が、ヒグラシの声から想起されます。