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ワヤクチャさん、お久しぶりです。
わけあって、今はこんな姿です(こころなしか丁寧口調です)。
ワヤクチャさんが、阿修羅掲示板で、同志と呼んだ相手は、私の知る限りでは2人しかいませんね、ワヤクチャさんのは、ほとんど読みませんが。
何を隠そう、その1人が私です。(だからといって同志の称号を剥奪して、存在を抹消しないでください、せめて明日までは)
ワヤクチャさんとは、もう何度も議論しましたね。意味が判らない、という御指摘は初めてではないでしょうが、残念です。
とくに説明はしませんが、新しい発想というものは、えてして受け入れられ難いということではいけませんか、その意味も、内容も、とくに説明はしませんが。
阿修羅でも、学問の枠組みに囚われている人が多いと思いますし、もしかすると全員がそうなのかもしれません、或る人を除いて。
いまさらワヤクチャさんと対話といっても、どういう人か、いちおうは存じあげていますよ、馬鹿にしないでください。
ワヤクチャさんとは“対話しなくていいじゃない”という対話なら、していいかもしれません(すでに開始していますね)。
しかし、ワヤクチャさんには酷な対話ではないでしょうか。そんな対話をしていて、ワヤクチャさんまで対話が嫌になってもいけないでしょう。
対話をはじめると、それが議論になり、口論に移行し、しまいにはワヤクチャになってしまう場合も(たまに)有ると思います。
(対話の相手を選んでいるから、たまにしかワヤクチャにならないのですね。
私の行きつけの店で対話して御覧なさい、たぶん殴られると思いますよ。賭けてみますか?
もちろん店で対話するのは、対話好きのワヤクチャさんの役目ですよね)
ワヤクチャさんは、酒はお好きですか? 今度いっしょに、マックシェークでも飲みに行きましょう、私は殆ど飲めませんから。
熱くなって絡まれてもいけませんし(失礼)、また、暴れられてはいい迷惑です(失敬)。そもそも酒も飲めない人種には、嫌味なタイプが多いのです、嘘です。
ワヤクチャさんが私にどんな批判をしたのかは知りませんが(まだ読んでいないのです、すみません)なるべく批判というものは、大いに歓迎です。
ちゃんと読ませていただくつもりです、たとえワヤクチャさんが、いくら読む、読む、といっても読まない人だったとしてもです、読むつもりです、今のところは(それにワヤクチャさんのことは、決して嘘つきとは思っていないつもりなのです、不思議なことに、とでもいえばいいのか、お世辞にも、といおうか、まかり間違ってでもワヤクチャさんのことを)。
それではまた、おままごとのヴァーチャル酒場ではなく、マックシェークでも飲みに行きましょう。
あの不味さからして、人生のほろ苦さを味わえるかもしれませんよ。
とはいえ(なるべくならば)とわに、さようなら。
ありがとうございました、
ワヤクチャさんのことは、
嫌いではありません。
嘘ではありません。
(香田理論のほうは完成しましたでしょうか。去年からですから、さぞかし立派なものが出来ているのでしょうね。ちなみに、この質問は初めてではないかもしれません。辞書はつくっておられましたね、システムのほうはどうでしょう。対話でつくるのでしょうか、継続的に一緒につくる同志は見つかりましたか? 全員とつくるのですか? ワヤクチャさんは太っておられるとのことですが、私が阿修羅に来て、初めてレスをつけさせてもらった頃は、たしか女性だと思っていたはずです。お忙しいと思うので、質問への御回答は、謹んで申し上げます、結構です)
ちなみにワヤクチャさんのことは、
嫌いではありません。さようなら。
(ちなみに以前、ワヤクチャさんが田端稔をよく読まれたらしい話に驚かされたことがあったと思います(道理で似ているわけですね)。
あのかたとは呑みに行ったり、あのかたを、よく大声で罵倒したはずです。
そして宿で味噌汁を啜りながら、朝からチクチクと批判し合っていたとすれば、それは対話でしょうか。
あのかたも、私とは一生対話するようなことをいっていましたが、別に今は対話していないでしょう。
対話というのは期間も密度も気紛れなのですか。やはり、してもしなくてもいい、というほどのものなのかもしれません。
ですから、だからこそ私も、さほど対話しないのでしょう。幸いワヤクチャさんとの対話も途切れがちです、すみません。
なお対話しないことが自他の存在の同時否定だとは思っていません。
もしそうなら、何度も女性に対話を切られた私は、今は彼女以外に対話の回線を持っておらず、ワヤクチャさんと対話するまで、何処にも存在していないことになるはずです。
ところが対話しなくても表現はできるわけですね。
そうすると対話を(しかも対話で)唱導する人は、対話と称する範囲を、あらゆる表現にまで広げるかどうかの選択を迫られる気がします、恐らくは知の概念を拡張したのと同様に。
そうやって終局的には、対話はコミュニケーションの特殊な一つに過ぎないと気づくかもしれませんね)