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(回答先: イエスとテーブル?想像できるか? 投稿者 アンチキリスト666 日時 2005 年 1 月 21 日 22:40:06)
話がズレるかもしれませんが、ダ=ビンチは兵器を開発していたのですね。
殺戮の「妄想」は自由なのだと思いますけど、では需要が有る中での「実用」兵器の開発はどうでしょう。
キリスト教では、犯罪に至る前の「妄想」(原義としては罪を犯したり、誰か他者が罪を犯したと想像することのつもりです)を戒めているようですが、自分としては「嘘」と「妄想」とを“天秤”にかけると「当事者が赦せない妄想」とでは「当事者が赦せない嘘」のほうが、常に罪が重い(嘘にのみ罪が有る)ように感じます。(当事者の「自然な」気持ち1つかもしれないというのでは何なのですが)
それが何れ嘘であると知られうる限りで(つまり、ほとんどの場合でしょうけど)利害関係者が“死滅”していない以上は(少なくとも暫くは生きそうな人を相手に嘘を話す、その相手も、あるいは“医師・受託執行人など、職種・立場として幾通りかありうるかもしれない”誰かの責任で「長くはないとされた」歿する直前の相手でも、その相手は“利害関係者”なのでしょうから)その「利害関係者が赦せない(ような)嘘」は、つかないほうがよいのだと思われます。
尤も自分自身にも、嘘のようなことは多々有るでしょう。
例えば店員に“また宜しくお願いします”といわれて頷いて、それっきり訪れなければ、それも広い意味での(そのつもりの無い内面の、または後で決まる外的事実としての)嘘なのかもしれません。
(厳密に言えば、すぐに自分で否定しても一時的に嘘ではあるでしょうし、危険を言えば、その時差の間に「訂正」できなくなるかもしれません)
しかし、たとえ自分もそうであっても(嘘の程度を比較するのではないのだとして)他の人の嘘には引っかかりを覚えるようです。
そういう感覚で厳しく人に接すると、少なくとも、哲学者でも宗教者でもない、この世の一般の人々の中では、この自分は、自分の首を締めることになるのでしょうが。
「愛を標榜するならば、愛を標榜すればこそ、いっそう、嘘は罪として」云々。
“愛のために”とはいっても、相手が何を欲しているのか判らないなか、判りえず、判ろうとはせずに、判っておらずで欲してはいないのに、それでも真理で「最善」を決めるのは押し付けで(たとえ語ることそのものが何らかの危険に直結でもしていない限りであろうとも、即ち事実を告げるのは良い場合でも)嘘はつくべきではないという気がします。
しかし、真実に基づかず、かつ真実として掲げられたと言えなくもなさそうな宗教画は「演出」なのか「嘘」なのか、そもそも「演出」も悪なのか。
嘘をつかなければ生きづらい世の中に誰がしているのかは、はっきりしませんが、嘘で先んじている何者かが、競争を引っ張っているような感じはしますね。
(的外れな、倫理のような話で済みません、その辺りの“宗教倫理”的な思索について、未だ余り深めておりませんし)