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(回答先: 小倉利丸氏を知る:その5 投稿者 ぷち熟女 日時 2005 年 3 月 11 日 22:04:01)
小倉氏が赤い旅団の主力メンバーで亡命中の
アントニオ=ネグリの著作を多数翻訳していることはご周知の通りですが、
それは学術的活動以上のものであろうとあたくしは見ております。
以下はネグリのある著作の出版社のメルマガですが、
以下に引用した中の最後のネグリの言葉を先にこちらにご紹介します:
『実際のところ、近代主義、ヘーゲル主義、ナショナリズムの幻想に結びつい
たオルタナティヴ、これらのあらゆるヴァリエーションムムそれが自由主義的
であれ社会主義的であれムムを超えていくことが重要だったのである。だから、
グローバルかつコミュニスト的な、すなわち「グローバル化反対」という思考の
運動が開始された。そして、われわれはこのような経験を拡大しながら、現在、
次のように新たに自問している。どの空間で、このような経験が参照基準と反
乱の拠点を見つけることができるのだろうか、と。その空間は太平洋アジアか
もしれない。』
実質的に赤軍支援派である小倉氏の活動は、
ネグリの著作の翻訳、紹介という側面においては
赤い旅団の『極東支部』とでもいった様相を帯びている、
といった目で考察してみることも出来ると思います。
http://www.aguni.com/hon/back/149.5.html
以下引用(文字化け御免):
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[本]のメルマガ 2003.08.10.発行
■■ vol.149.5
■■ mailmagazine of books [臨時増刊号:ネグリ新刊プレビュー]
■■-----------------------------------------------------------------
■■ 創刊は1999年5月10日、現在の読者数は5842名です
■■ 「まぐまぐ」で、殿堂入りメールマガジンのひとつに選ばれました
■CONTENTS-----------------------------------------------------------
★日本語版刊行までの四半世紀 / 五月(ごがつ)
→『マルクスを超えるマルクス』の目次や書誌情報、関連データを紹介。
★特別掲載「ネグリから編集者への私信」/(C)作品社
→これは貴重! ネグリ本人から日本語版の編集者へ宛てられた私信を公開!
★『マルクスを超えるマルクス』序文邦訳未定稿より / (C)作品社
→邦訳書発行発売元のご好意により、最新の序文を先行特別掲載!
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■エピグラフ / アントニオ・ネグリ
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マルクスを読み直すことによって、あなたはどこに連れて行かれたのですか?
ムムそれは、マルクス主義者によって歪められたマルクス主義を超える地点へ、
です。(レビッビアの監獄にて。「英語版」(1984年)への序文より)
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■日本語版刊行までの四半世紀 / 五月(ごがつ)
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2003年年頭に日本語訳が出版されて大きなブームを巻き起こした、マイケル・
ハートとアントニオ・ネグリの共著『帝国』(以文社)の理論的出発点と言え
る、ネグリのスピノザ論『野性のアノマリー』とマルクス論『マルクスを超え
るマルクス』のうち、ついに後者が完訳されることになった。ネグリの自伝を
刊行した作品社から今月(2003年8月)末にいよいよ出版される。原著刊行か
ら実に四半世紀が過ぎているが、その新鮮さは今なお失われていないどころか、
年を経るごとにその先駆性が見直されてきている。
小誌なかんずく連載「現代思想の最前線」ではこれまで幾度となくアントニ
オ・ネグリの新刊動向について報告してきたが、このたび、出版社のご好意に
より、全国に先駆けて『マルクスを超えるマルクス』の序文邦訳を、本号でご
紹介することになった。作品社に深く感謝申し上げたい。なお、訳文について
は未定稿であることをあらかじめお断りしておきたい。
『マルクスを超えるマルクス』書誌情報概要は以下の通り。
書名・・・マルクスを超えるマルクス
副題・・・『経済学批判要綱』研究
著者・・・アントニオ・ネグリ(1933-)
訳者・・・清水和巳、小倉利丸、大町慎浩、香内力
版元・・・作品社(電話03-3262-9753)
http://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/
本体・・・4600円(税別)
版型・・・46判、上製カバー装
頁数・・・464頁
ISBN・・・4-87893-559-6
発売日は2003年8月25日の予定である。新刊書籍の場合、発売日というのは取
次搬入日のことなので、実際全国の店頭に並ぶのは、発売日から早くてその2
〜5日後となる。書影については下記サイトをご覧いただきたい。
http://biblia.infoseek.ne.jp/b/mom.htm
目次は以下のとおりである。
日本語版への序文
イタリア語版再版(1998年)への序文
英語版(1984年)への序文
イタリア語版初版(1979年)への序文
第一講義:『経済学批判要綱』ムム開かれた作品
第二講義:貨幣と価値
第三講義:敵対的傾向という方法
第四講義:余剰価値と搾取
第五講義:利潤、恐慌、破局
第六講義:社会的資本と世界市場
第七講義:賃金論とその展開
第八講義:コミュニズムと移行
第九講義:資本制発展と革命的階級
英語版イントロダクション I(ハリー・クリーヴァー)
英語版イントロダクション II(マイケル・ライアン)
英語版イントロダクション III(マウリツィオ・ヴィアーノ)
英語版エピローグ (マイケル・ライアン)
日本語版解説 (小倉利丸)
訳者あとがき (清水和巳)
人名・事項索引
序文が多いのは、本書の来歴を物語っている。70年代イタリアのアウトノミア
運動を通じて鍛えられた理論的かつ実践的なマルクス読解の成果を、フランス
の高等師範学校において講義形式で披露したのが本書の原型になっている。ア
ウトノミア(「自律」を意味する)運動とは、「党」に拠らない大衆による社
会運動であり、その特徴は、革命の主体が「労働者の男性」に限定されること
なく、老若男女を問わず、失業者や学生らが参加した点である。こんにちの市
民的な反グローバリゼーション運動や反戦運動の参加層の広さとも比較できる
かもしれない。
テロ事件の濡れ衣でほどなく逮捕されることになるネグリを高等師範学校に招
聘したのは、ヤン・ムーリエらをはじめとするアルチュセールの教え子たち
だったと言う。本書の初版刊行年にネグリは逮捕された。英語版の序文を書い
た時には監獄の中におり、獄中から国会議員に当選した彼は英語版刊行の年に
フランスへ亡命した。イタリア語版が再版された時には、ネグリはイタリアに
自らの意思で帰還し、再び獄に繋がれていた。そして記念すべき2003年4月25
日、ネグリはついに解放された。
1997-1998 レビッビア刑務所に完全に拘束
1999-2000 昼間のみ仕事のための外出が許される
2000-2001 ローマから外へ出ることは禁止、夜は刑務所で眠る
2001- 監視付きで自由行動、夜は自宅から外出禁止
1979-1983の拘置期間も含めると計11年を経て、ついに自由となったわけであ
る(帰還後の詳細情報はパリ在住のHさんから得ている。感謝申し上げたい)。
解説が多いのは、本書の難解さによるが、説明過多にはなっていない。ネグリ
のマルクス論やスピノザ論は、本人も十分承知しているように、いわゆる学究
筋や権威からは「アノマリー(異例)」的なものに映るだろう。裏返せば、伝
統的束縛からは自由だということだ。資本主義によって「牢獄化」した世界の
搾取的構造に不意打ちを食らわせ、転覆を図る彼の戦略は、アカデミズムにも
向けられているわけだ。コミュニズムとは「生き方」である、とネグリは言う。
闘いの果てに理想社会が出現するわけではない。資本による万民の奴隷化や価
値の包摂化との闘いのさなかにこそ、コミュニズムは出現する。牢獄の外にい
るか、内側にいるかは問題ではないのだ。
さらに言えば、こうしたコミュニズム的「生き方」には、左翼であるとか右翼
であるとかの古臭い区別はもはや関係ない。「コミュニズムとは個人的かつ集
団的な特異/固有性(サンギュラリテ)を解放する試みである」と、ネグリは
ガタリとともにかつて書いた(『自由の新たな空間』朝日出版社、絶版)。彼
はレビッビアからパリに亡命する端境期にガタリとともに高らかにこう宣言し
たのだった、「われわれはコミュニズムを諸意識と諸現実の変容へと向かう社
会的実践の総体であると呼ぼう」と。コミュニズム、それは「欲望と思考を収
奪する体制とは完全に対立するもの」であり、「社会主義を名乗る体制」とは
まったく異なる。彼らは社会主義体制の崩壊を当時すでに見抜いていた。
ネグリを読んでいるといないとにかかわらず、私たちは彼が捉えた世界像に実
はすでに親しんでいる。ウォシャウスキー兄弟の映画『マトリックス』シリー
ズのことだ。『マトリックス』には、こんにちの社会的現実のアナロジーとで
も呼ぶべきものが見て取れる。現実は虚構であるという認識、人類は奴隷であ
るという自覚、システムへの反抗と、アノマリーの存在、そして愛と選択の力。
これらの比喩をすべて、ウォシャウスキー兄弟が参照項とするところのボード
リヤールに帰すわけにはいかない。実際の革命においては(あるいは第三作
「レヴォリューションズ」においては、と言い換えてもいい)、ネグリが捕ま
えようとする「未来」と、『マトリックス』が捉えようとする「現在」には当
然相違が生じてくるだろうが、それでも対比させてみることは興味深いだろう。
なお、『マトリックス』の英語版サイトでは、コリン・マッギンやヒューバー
ト・ドレイファスらによる「マトリックス」論が読める「哲学と『マトリック
ス』」というページが設置されている。
http://whatisthematrix.warnerbros.com/
以下に掲載する日本語訳について一言申し上げるが、読者諸姉兄はこれらのテ
クストを未定稿であると了解せられ、転載については堅くご遠慮願いたい。著
作権は作品社に帰属している。一行あけは小誌編集部が便宜上施したものであ
り、原テクストに忠実ではない。誤字脱字があるとすれば、小誌編集部の作業
上で生じたものであり、その責任は出版社ではなく小誌にある。「ネグリから
の編集者への私信」は、作品社編集部の内田眞人さんのご厚意によりここに特
別掲載が叶ったものであり、日本語版には無論収録されることのない貴重な資
料である。ネグリの肉声に触れる機会を与えてくださった内田さんに厚く御礼
申し上げたい。では、ご覧いただこう。[2003年8月10日]
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■特別掲載「ネグリから編集者への私信」/ (C)作品社
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◎以下は、ネグリに『マルクスを超えるマルクス』の日本語版校正刷りを送っ
たことに対しての、ネグリから作品社編集部内田氏への返信である(原文:イ
タリア語)。
Roma, 28/02/03
チャオ、ウチダ。
日本語版の校正刷りを送ってくれてありがとう。日本語のわかる友人と一緒
に、ところどころ読んでみましたが、私としては修正をお願いする箇所はあり
ませんでした。日本語の翻訳家の友人が、翻訳の質の高さを誉めていました。
Empire の関する日本の反響の情報も送っていただいて、大いに感謝します。
しかし、なによりもうれしいのは、私の旧著作(私がもっとも気に入っている)
Marx oltre Marx が、日本でやっと出版されることです。日本語版の本を手に
取るのを楽しみにしていますので、刊行されましたら送っていただければ幸い
です。
私の健康状態は、今ではすっかり回復しています。
友人の何人かは、私の生活がやっと一般社会と平和に共存できる域に達した
と言っています。しかし私は、彼らの意見にはあまり信用を置いておりません。
本当にありがとう。杉村昌昭および小倉利丸の両教授、そして清水和巳助教
授には、くれぐれもよろしくお伝えください。
Toni Negri
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■『マルクスを超えるマルクス』日本語版序文 / 邦訳未定稿より (C)作品社
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一九八〇年代・九〇年代を通じて、太平洋アジアの諸国は将来性豊かな国々
である、とよく言われた。ジョヴァンニ・アリッギが世界経済の発展について
著わした素晴らしい著書の中では、日本(そしておそらく中国も)が世界経済
の発展を牽引していくと考えられていた。しかし現在、このように語る人はい
なくなってしまった。アメリカの権勢ムムしばしばそれは傲慢であるムムが、
科学的予測に基づいたこの仮説をぶち壊してしまったからである。第二次湾岸
戦争〔イラク戦争〕を巡る論争の中で、二つの対立する現実が露わになった。
「新しいアメリカ」と「旧いヨーロッパ」である。では、太平洋アジアはどうなっ
てしまったのか ? 「新しいアジア」という希望は、〔覇権〕交替理論とそれが
生み出した予言と同様に、本当に消え去ってしまったのだろうか ?
われわれが今日生きている帝国の歴史=物語の内部には、何か腐敗したもの
があるような気がする。第二次世界大戦ムムこれは帝国主義者間の戦争である
ムムに続く五〇年間、あるグローバルな秩序へ向かう動きは、闘争や破局をと
もないながらも継続的に続いてきた。この動きが、現在、アメリカの力によっ
て中断されたのである。第二次湾岸戦争〔イラク戦争〕に際して、われわれは、
ジョージ・W・ブッシュの「ブリュメールの十八日」に、すなわち、帝国の秩
序に関する真のクーデターに立ち会ったのである。しかし、今回、規定された
事態は作為的であり、ある意味で堕落している。
〔だから〕われわれはみんな反撃を待ち望んでいる。つまり、帝国の主権の
正当性をマルチチュードの審議にかけ、マルチチュードの活動によって再検討
することを待ち望んでいる。一方通行的な権利要求と戦争の暴力を、最強国か
ら奪い取ることを待ち望んでいる。独裁制という危険に対抗して、民主的な反
撃を世界規模で実行しなくてはならないのである。旧いヨーロッパと新しい太
平洋アジアに、このことができるだろうか ? 旧いヨーロッパと新しい太平洋
アジアは、自らを世界規模で活動を繰り広げることのできる強国として自覚し、
今日置かれている二番手の地位を脱し、自由のための新たな条件を世界にはっ
きりと示すことができるのだろうか ?
これらのことすべてが可能であるなら、あるいはこれらすべてのことがもは
や現実のものであるなら、マルクスの『経済学批判要綱』〔以下、『要綱』と
略記〕を再度、研究し直すことは非常に有益だろう。それは、知識人にとって
も政治家にとっても、企業家にとっても革命家にとっても、すなわち、マルチ
チュードとして生活しているすべての人々、マルチチュードを自分の仕事を通
じて刷新するすべての人々にとって、有益なのである。実際、マルクスの『要
綱』は世界市場の生産的発展のためのいくつかの条件を、労働者の側から、す
なわち下の視点から先取りしている。ここで労働者とは、富と自由を同時に構
築する人々である。ここに見出されるのはなによりも、生産の原動力となる
「一般的知性 general intellect」である。「一般的知性」とは知的労働だけ
を単に指すのではなく、科学的な労働・物質的な労働にともなう情動的な労働
・ネットワーク的な労働も指す。「一般的知性」は生産的生活と生産的社会に強
い影響を与えているので、生政治的(ビオポリティーク)な側面を有している。
それは単に頭脳の勝利ではない。それは、肉体を横断し、開放し、愛しいもの
にする、そういう頭脳の勝利なのである。したがって、マルチチュードの運命
がかかっているこの知的労働の巨大な塊が、今度は、自由の原動力となるだろ
う。知的労働をするマルチチュードとは、世界市民であるマルチチュードであ
る。このことが意味しているのは、自由は知性と同様に、もっとも広範に配分
することのできる財だということである。
『要綱』におけるマルクスの仮説が依拠しているのは、将来に関するこのよ
うな見込みなのである。また、われわれは『要綱』から、現代世界の政治的条
件に関連する非常に基本的な結論も導くことができるだろう。この結論は主権
概念に、より正確に言えば帝国主権の概念に、すなわち世界規模の秩序におい
て展開されている主権の概念に関連している。近代国家建設の数世紀にわたっ
て、主権は「本質主義」的な概念として、すなわちそれ自体で自足するものに
関する概念として考えられていた。しかし、われわれは、資本は指令する者と
反抗する者、富む者と搾取される者、これら両者間の脆弱かつ強力な関係であ
ることを知っている(これは、マルクスがわれわれに教えてくれたことである)。
したがって、われわれは権力もまた一つの関係であることを知っている。そし
て、われわれは、知性と自由がマルチチュードムム商品・サービスの生産主体
としての、そして情動・創意の生産主体としてのムムを横断すればするほど、
その関係〔権力〕が生きた労働に有利な方向に揺り動かされることを知ってい
る。だから、帝国主権が近代的伝統にのっとった「本質主義的」形態をとるこ
とはムム特に世界秩序のマルチチュード的な側面を考えればムム不可能である。
ジョージ・W・ブッシュのクーデターは〔成功の〕可能性がないところで行な
われたことになる。マルクスの『要綱』によって,われわれは、近代的秩序の
危機、価値の危機、国家の危機、これらを主張できるだけではなく、世界秩序
のポスト・モダン性と力関係がマルチチュードとして生成するというポスト・
モダン性を経験できるのである。
書物を政治的なパースペクティヴに引き付けすぎて読むことは、けっして良
いとは言えない。しかし、そういう読み方をしない方が良いとは言っても、名
著が読者に向けて放つ多数かつ多様な〔政治的〕要請を評価することは、やは
り可能である。また、名著が現在の知性の刷新に役立つのは、それが不確定だ
からである。だから、名著をその不確定性に基づいて読まないのなら、どのよ
うにしてその作品の価値を認めることができるのだろうか? われわれの『要
綱』読解には闘争の経験が結びつけられている。そのような読解のおかげで、
ヨーロッパのある世代の活動家は、「現実の社会主義」の風化によって引き起
こされたマルクス主義の危機を乗り切ることができたのである。それは理性の
偉大な冒険であった。あらゆるマルクス主義的・社会主義的な「再建」が泥沼
化するなか、その危険から冒険者たちを救ったのである。〔つまり〕社会主義
の経験を極めてラディカルに越えてムム過去を美化することもなく後悔するこ
ともなくムムどのように前進することができるのか、という問いを、『要綱』
を通過することによって発することができるようになったのである。
実際のところ、近代主義、ヘーゲル主義、ナショナリズムの幻想に結びつい
たオルタナティヴ、これらのあらゆるヴァリエーションムムそれが自由主義的
であれ社会主義的であれムムを超えていくことが重要だったのである。だから、
グローバルかつコミュニスト的な、すなわち「グローバル化反対」という思考の
運動が開始された。そして、われわれはこのような経験を拡大しながら、現在、
次のように新たに自問している。どの空間で、このような経験が参照基準と反
乱の拠点を見つけることができるのだろうか、と。その空間は太平洋アジアか
もしれない。
二〇〇三年五月十五日 イタリア・ローマにて アントニオ・ネグリ
(後略)
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