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http://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/nizkor/66qa01.txt
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ゲッペルスの日記のみは、まったくの幸運でかろうじて、7000ページもの反故
紙として売られてしまうところから救い出されたのだが、しかし、四散した手書き
原稿に埋もれた記述のいくつかは、全体像を語っている。
(ロシナーの翻訳による「ゲッペルス日記」1948年 pp.86,147-148)
1942年2月14日:総統は、ヨーロッパのユダヤ人を情け容赦なく一掃する彼
の決定を、今一度表明した。それに関して、神経質なセンチメンタリズムなど
あってはならない。ユダヤ人は破滅に値するのであり、今こそその運命が彼ら
を襲ったのだ。彼らの絶滅は我々の敵の絶滅と同一歩調をとってなされるだろ
う。我々は、冷たい無慈悲さでもって、この過程を促進せねばならない。
1942年3月27日:手続きはきわめて野蛮なものであり、ここにより正確に描
写すべきではない。ユダヤ人のうち残るのは、けして多くはないだろう。概し
て、彼らの約60%が消され、しかるに40%のみが強制労働に使用可能だ。
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これの信憑性はどうなんでしょ?
googleしてみたら・・
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http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/gulfwar_02_05_03.html
参考資料:ゲッペルス日記 1943年9月29日
一九九二年十一月号『中央公論』より
(アドレス:www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/new_page_19.htm)
ところが歴史はまわり、時代がかわり、ソ連が崩壊し、ソビエト時代のあらゆる秘密文書が外に流れ出した一九九二年七月のはじめに、モスクワのロシア国立公文書館で、ナチス・ドイツの宣伝相であったあのゲッペルスの自筆日記が発見された。ヨゼフ・ゲッペルスこそ「カチンの森」事件を最初に世界へ向かってスターリンの犯罪だ
と呼びかけた張本人だった。その本人の日記に驚くべきことが記されていた。そのいきさつについては一九九二年十一月号の『中央公論』に作家の逢坂剛氏が書いているが、ゲッペルス日記の一九四三年九月二十九日付にはつぎのように書いてあった。
「遺憾ながらわれわれは、カチンの森の一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが一万二千人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件は行くゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない」と。ゲッペルスは一九四三年四月段階では対外的にソビエト政府とスターリンの犯罪だと声明しつつ、同年の九月の日記には「われわれが殺した事実」を認めつつ、このことがナチスとヒトラーへはねかえってくることを心配しているのである。
参考資料:SANSPO_COM 2004/7/14
第2次世界大戦中の1943年4月、ソ連西部(現ロシア)スモレンスク郊外のカチンの森で、ソ連に抑留されていたポーランド人将校ら約4000人の虐殺体が見つかった同事件は、長くナチス・ドイツの犯行とされてきたが、90年、当時のソ連のゴルバチョフ政権がソ連秘密警察の犯行だったことを認めた。
※ 1989年、ソビエト連邦の学者たちはヨセフ・スターリンが虐殺を命令したことを明らかにした。そして1990年、ミハイル・ゴルバチョフはカチンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部(NKVD)がポーランド人を処刑したことを認めた。1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリンの署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の処刑が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフあての文書も含まれている。
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やっぱ、『ゲッペルス日記』も偽造なんじゃないかな?
ホロコースト肯定論者の「証拠」は、「これは」と思って調べても、いつもこうだ。
自分で調べるのはうんざりしているので、木田さん、「これは」と思う証拠をあげてください。