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(回答先: Re: 投稿者 木田貴常 日時 2005 年 3 月 01 日 19:10:24)
さん付けで参ります。
「虐殺」と言う言葉は御意のとおり、相当に主観的な言葉です。怒りの言葉です。
しかし、主観的な言葉は曖昧さを持つと同時に包含力をもっています。
したがって、
「煙に巻く」場合もあれば、事物を認識するきっかけとして力になる場合もあります。
もちろん陰謀家も良く使うでしょう。
トリッキーに使っているか否かを見抜くには、
言葉を受け取った人間が、次に、
具体的な事物の確認へと向かうかどうかに懸かっていると思います。
(1)「虐殺」
→(2)「その虐殺とは何か」
→(3)「何時、どこで、だけが、だれを、どうして(状況・事実)」さらに「倫理性」の検証
→(4)「虐殺」の再定義(例えば国際法違反、人道への罪、などなど)
→(5)強制や陰謀でないコンセンサスの形成
(1)と(4)(5)は、みんなが一致する、と言うことにはならないでしょう。
でも、中の餡子の(2)→(3)が重要です。
(1)と(4)が一致できないもの同士でも、(2)→(3)の検証作業は協働できます。
討論であり論争です。無理に(5)のコンセンサスに至らなくても良いのです。
しかし、(1)を論じるばかりで停滞しても何も生まれません。
少なくとも具体的検証作業を行っている最中には、あなたがいう「煙に巻く」現象を幾らかでも遠ざけることも出来るのではないでしょうか。(具体的検証作業なしにはそれはできない)
「虐殺」と言う言葉は怒りの表現ですから、具体的なことを論じているからといって、
怒っている人がその言葉を使うことを禁止することは出来ないでしょうが。
また、どんなに大事なテーマも、高踏的で抽象的な議論をいくら重ねても、言葉の曖昧さからの脱出は果たせないと思います。西岡さんのこの随想自体が結局は煙に巻く議論を導くだけに陥るような気がします。
陥った結果をもって、「虐殺は煙に巻く言葉だ」という結論を導いても、
何の意味も無いでしょう。
> 鈴木氏は、収容所でユダヤ人が病死した事も虐殺ではないか、と言った意味の事を書いて
> いるのです。正直言って、非常に疑問を持ちました。失礼ですが、鈴木氏は、
> 論点をぼかそうとして居るとしか思えませんでした。
なぜそのロフトで西岡さんは "in situ"に(その場で)疑義を呈しなかったのですか?
その座談は、抑圧的な雰囲気で行われて、うかつなことが言えない物だったのですか?
鈴木さんの「虐殺」の中味を問い、
西岡さん自身の「虐殺」概念と照らし合わせ、
あるいは、もしそこに不当性があれば、問い詰め、
それこそ曖昧さを暴き、
具体的な事柄の議論へと、引き戻せば良かったのではありませんか?
今からでも、鈴木さんの掲示板で鈴木さんに直接問うてみたらいかがですか?
私たちは、オーディエンスとして仔細経緯を見つめます。
それこそ西岡さんの主張したい
「虐殺という言葉を使って議論することの危うさ」
を、身をもって知る良いチャンスになるかと思います。
初老浪人である私からの、ささやかな提案です。
もちろん無視してくださっても結構です。
一介のルンペンには何の障りもありません。