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(回答先: NYT紙「サムスン電子は10年前のソニー」 朝鮮日報 投稿者 愚民党 日時 2005 年 3 月 13 日 12:48:02)
ホーム > 経済 記事入力 : 2005/03/10 20:08
「企業は社会のもの」植民地時代から続く透明経営の柳韓洋行
「健康な国民だけが主権を奪回できる」。
日本植民地時代の1926年に柳韓洋行(ユハンヤンヘン)を創立した故・柳一韓(ユ・イルハン)博士の創業理念は、単純な利潤追求ではなかった。
当時、病に苦しむ民の健康を思っては医薬品を売り、そこから生じる利益を教育事業に投資する、民族愛の精神だった。
鎮痛・消炎剤「Antiphlamine」で知られる柳韓洋行は創業10年目の1936年に株式会社に転換、以来、黒字配当を続けている。上場前後の実績を合わせれば、69年連続の黒字配当(上場後は43年間)という驚異的な記録を打ち立てている。
「企業は社会のもので、企業家はただこれを引き受けて経営するだけという創業主の理念に支えられ、世界のどんな企業よりも透明な支配構造を構築しているためです」。
同社CEOの車重根(チャ・ジュングン/59)社長は柳韓洋行の黒字経営の秘訣について、こう語った。
71年に柳博士が他界して以降、経営を担当して来た、車社長をはじめとする柳韓洋行の社長陣は揃いも揃って平社員上がり。社員なら誰でも社長になれるという動機を付与することで、これが愛社心と透明経営を生み、生産性を極大化した。
柳韓洋行は、優れた薬品を作り、その薬品を販売して生じた利益から小まめに納税し社会に還元するという「正直な企業」だったからこそ、消費者から慕われた。社員らはこのような哲学を中心に結束した。
「1989年のことです。ロシア(当時はソ連)に輸出する30億ウォン規模の解熱剤の納品日を守るため、全社員が心を合わせ、4か月にわたり残業と夜勤を続けました」。
「この経験は今も柳韓洋行の伝説として男性社員の心の中に染み付いています。97年の通貨危機当時は毎年600%以上支給されていたボーナスを返上し、『30分さらに働く運動』をしました」。
車社長は、柳韓洋行の宝物は「まさにこのような社員たち」と誇らしげに話した。
実際にこの会社は従業員を「主人」待遇している。1936年に株式会社に移行した際、韓国内では初めて従業員に株式を分け与える社員持ち株制度を実施した。1998年にも国内企業としては初めて、役員でない一般の職員を対象にストックオプションを導入した。
現在も社長と労働組合が毎週一回の電話で堅苦しくない雰囲気で対話するのが慣例として続いている。このおかげで1975年に労働組合が設立されてから30年間、労使紛争なしの記録を守っている。
創業者のユ・イルハン博士は米国留学時代からアルバイトで商売をするなど、卓越した事業センスを持っていた。
平壌(ピョンヤン)で大きな雑貨商をしていた父親の影響を受け、中国でシルクやハンカチ、カーペットなど輸入して米国で販売し、米国で中国料理店が急増すると、もやし販売を手始めに「ラチョイ」という食品会社も作った。
1925年帰国直後、ヨンヒ専門学校から教授職の誘いを受けたが、民族の健康と教育のためにもっと大きな仕事をしたいと考え、企業家に転身した。
54年には私財を投じて「高麗工科技術学校」を設立し、60年代には韓国職業学院と柳韓工業高等学校、柳韓中学校を順に設立して教育事業を本格させた。1971年の柳博士他界後は、本人所有の全財産を柳韓財団に寄付、社会に還元した。
1991年に他界したユ博士の娘であるユ・ジェラ女史も柳韓洋行の株式と財産全てを柳韓財団に寄付した。現在、ユ博士の家族は米国に住み、会社経営には一切関与していない。
チャ社長は「今も柳韓洋行の株式のうち25パーセントは柳韓学園(柳韓工業高等学校と柳韓大学を運営)と柳韓財団が保有している。毎年5〜10パーセントの無償増資と年平均15〜20パーセントの配当で柳韓学園と柳韓財団の運営資金がまかなわれている」と話した。
ここには創業者の民族愛と哲学が息づいている。
ハン・ユンジェ記者 yoonjae1@chosun.com
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/03/10/20050310000064.html