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(回答先: 新聞・テレビは最後の「護送船団」 投稿者 外野 日時 2005 年 6 月 25 日 02:36:11)
カレル・ヴァン・ウオルフレン『日本/権力構造の謎』
『大原社会問題研究所雑誌』No.386、1991年1月号
http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/nazo.htm
(1)本書の位置
本書は、日本の歴史と現状に対する鋭い告発の書である。
その驚異的な経済成長と国際的な比重の増大によって、日本の存在と行動が世界的な注目を集めるようになってから、既に久しい。経済の分野における良好なパフォーマンスは、「遅れている」とされていた日本の企業のあり方や労使関係、その背後にある社会的・文化的特性や政治構造・政治過程に対する一連の再評価論を産み出した。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(TBSブリタニカ、1979年6月)は、このような日本再評価論の頂点に位置している。「自民党支配の民主主義」を論じたジェラルド・カーティス『「日本型政治」の本質』(TBSブリタニカ、1987年10月)もまた、日本政治の分野における「普遍的価値観と行動規範」の再評価であった。
これらの議論に共通するものは、欧米と異なる日本の独自性や違いを肯定的に評価し、このような特性が日本の優位性を産み出す要因になったとする視点であった。日本の成功の要因は、「市場経済と自由・民主主義の日本版」ともいえる独自の型を作り出したことにあり、それは欧米的な普遍的価値とは異なったもう一つの普遍性を獲得し、他の国でも導入可能だとされたのである。シンガポールにおける「ルック・イースト」政策や欧米の日本企業での「日本的経営」導入の試み、ソ連ペレストロイカ調査団の日本経済に関する報告書などは、基本的にこのような見解を共有していた。
しかし、欧米での「日本的経営」導入の試みは必ずしも国際的競争力の増大をもたらさず、世界経済における日本の相対的に良好なパフォーマンスは揺るがない。貿易摩擦を契機としたさまざまな「ジャパン・プロブレム」は「ジャパン・バッシング」を引き出すまでに至った。こうして、80年代後半に入って「日本論」は新しい段階に入り、「市場経済と自由・民主主義の日本版」の再評価論に対する疑問・反論が提起されるようになる。そして、その最先端に位置するものの一つが、本書なのである。
(2)「日本論」と労働問題
ところで、以上のような経過を含む「日本人論」「日本文化論」をめぐる議論は、日本における労使関係と労働運動、政治構造の研究にとっても、密接な関わりを持っている。それは、労働問題や政治構造の背景となっている日本人のイデオロギー、行動規範、心理、慣行、物の考え方などを明らかにするうえで不可欠なだけでなく、日本における協調的な労使関係や高い生産性の要因を日本に特有の社会関係や日本人の意識のあり方から説明する「日本的経営」論、大量生産に固有の硬直した労使関係である「フォーディズム」の限界を越えるものとして、日本における労働セクターの多様性と柔軟性、自律性を高く評価する「ポスト・フォーディズム」論、労働組合の圧力団体化と政策決定過程への関与を重視する「ネオ・コーポラティズム」論、さらに、このような多様なアクターの政策過程への登場と、政治家の発言力の増大による官僚専決体制の変容を説く様々な「多元主義」論などの議論にとっても、避けて通れないものとなっている。
そしてこのような含意における「日本文化論」は、青木保『「日本文化論」の変容』(中央公論社、1990年7月)によれば、(1)否定的特殊性の認識(1945〜54)、(2)歴史的相対性の認識(1955〜63)、(3)肯定的特殊性の認識前期(1964〜76)、後期(1977〜83)を経て、現在は、(4)特殊から普遍へ(1984〜)の段階、すなわち「『欧米』的世界を一つの世界的基準としてみることによる『普遍性』あるいは『国際性』を日本および日本人に要求する」議論の段階にあるという。そしてこの第4の段階における代表的議論の一つとしてあげられているのが、本書にほかならない。
(3)日本に対する告発
以上に見たように、「日本論」における新たな段階を画するほどに強烈な衝撃力をともなって登場したのが、オランダ紙極東特派員で、1962年以来約30年近く日本滞在の経歴を持つカレル・ヴァン・ウオルフレンの議論であり、その主著『The Enigma of Japanese Power』の邦訳が本書である。ウオルフレンは、1986年に米外交誌『Foreign Affairs 』に「The Japan Problem 」という論文を発表して華々しく登場し、本書の刊行によって、「リビジョニスト」(日本見直し論者)の流行語を生んだ。浜口恵俊は、クライド・プレストヴィッツ、チャーマーズ・ジョンソン、ジェームス・ファローズとともに、「リビジョニスト四人組」の一人としてウオルフレンの名前を挙げている(浜口恵俊「日本研究の新たなるパラダイム」梅原猛編著『日本とは何なのか』NHKブックス、1990年9月)が、ここでの「リビジョン(見直し)」とは、青木保の言う「肯定的特殊性の認識」、つまり日本の「特殊性」を「肯定的」なものとしてとらえる認識を「見直す」ことを意味している。
本書は、現在の日本の在り方を厳しく批判し、アメリカ国内では「ジャパン・バッシングの教典」として、大きな影響力を発揮しているという。しかし、本書を、単にジャーナリストの書いた論争を呼ぶ書としてのみ評価するなら、それは本書の価値を見誤ることになろう。英語版で約600ページ、邦訳で上下併せて800ページに及ぶ大著である本書の射呈は、日本の政治・司法システムから産業界、官僚機構、教育、マスコミ、暴力団、農村、中産階級、サラリーマンの日常生活、文化、宗教、思想や意識の在り方にまで及び、その詳細をここで紹介することはとうてい不可能である。少なくとも、その包括的で歴史的な論述は、ジャーナリストによる日本見聞録の枠をはるかに越え、本格的な研究書の水準にあると言って良い。
ウオルフレンの中心的な論点は、二つのフィクションの暴露である。一つは「日本が、他国と同様の主権国家」「国政の中枢を持つ国家」だとされているフィクションであり、これに対して、ウオルフレンは、国家概念と異なる〈システム〉という権力構造を想定する。これは、「一部の省庁の高官、政治派閥、それに官僚と結びついた財界人」や「農協、警察、マスコミ、暴力団など」の準グループなどで構成され、これら「半自律的な〈システム〉の構成要素」の「すべてを統率して牛耳るいかなる中央機関も存在」せず、「究極的な政策決定権をもつ最高機関が存在しない」のであり、いわば日本の権力構造は「先端のないピラミッド」だというのである。
もう一つの論点は、「日本経済が、いわゆる“資本主義的・自由市場”経済の類型に属するというフィクション」への反論である。日本は、このような欧米型とも共産主義型とも異なる「第三の政治経済類型」、つまり、チャーマーズ・ジョンソンの言う「資本主義的発展志向型国家(CDS)」だとされる。その「力の秘密は、官僚と産業界との協力体制」にあり、「いいかえれば、これは産業政策と通商戦略がしっかり結びついた共同態勢」なのである。「その本質は保護主義」であり、「自由競争市場原理はそれ自体が望ましい目標としてではなく、産業拡大という大目的達成のためのいくつかの手段のひとつとみなされる」ことになる。
このような主張は、無責任の体系や思想的中核の欠如等の点で丸山真男、官僚制の支配という点で辻清明などの議論と共通しており、「実はこうした日本認識は、1960年代頃までは、日米の政治学者・歴史学者に共有されていた考え方」(加藤哲郎『社会主義の危機と民主主義の再生』教育史料出版会、1990年7月)だったのである。その後の「肯定的特殊性の認識」を経て、結局時代は一巡したということになるのかもしれないが、このような日本認識が、「もはや対話は不可能だ、というかたちで主張され」、「『日本たたき』や『日本封じこめ』のセンセーショナルなバイブルとされているところに、20年前とは異なる、政治的性格がある」(同前)。同時に20年前と同様の問題を今日においてなお再び指摘されざるをえない所に、日本の現状が持っている奥深い問題性が孕まれているようにも思われるのである。
(4)「欧米中心主義」への反論
以上の様な視角からするウオルフレンの「日本批判」に対しては、その邦訳書の出版以前から(ただし、『月刊Asahi』1990年3・4月号には、本書の抄訳が掲載されているが)、早々と反論が試みられている。たとえば、「欧米的パラダイムの絶対視」は根拠がなく、「日本の近代化の過程もまた、人類社会の別種の普遍的動態」であり、「欧米社会もまた、ある意味では一つの特殊形態である」とする「『文化相対主義』の立場」からの反論がある(浜口、前掲稿、参照)。また、「ウオルフレンの指摘も批判も当たっている部分があることは認めなくてはならな」ず、「そこには『日本問題』を考えるきわめて真剣な態度が示されている」ことを評価する青木も、「『西欧ではちがう』という前提を基に、『西洋からの日本批判』の一方通行しか感じられない」として、ウオルフレンの「欧米中心主義」的色彩を批判している(青木、前掲書)。
ウオルフレンが試みる比較は、日本対欧米だけでなく中国や韓国なども対象とされている点で、たとえば同様の議論を展開した『日本の思想』(岩波新書、1961年)における丸山真男とは異なっている。しかし、確かにウオルフレンの議論は、日本の現状が持っている様々な問題を指摘するに急であり、しかもその引証基準としてしばしば西欧の社会や歴史が言及されていることも否定できず、このような批判を呼び起こす余地を持っている。だが、日本的権力構造としての〈システム〉の在り方が欧米との比較において批判されているからと言って、それだけで批判を無視あるいは拒否して良いのだろうか。
(5)普遍的価値と日本の現状
ここで提起されている問題は、自由、平等、民主主義、人権などの普遍的価値にてらして、日本の〈システム〉の在り方をどのように評価するかということであろう。このような普遍的価値は、ヨーロッパ起源であるとはいえ、その世界史的普遍的意義を否定することはできない。もし、欧米基準での批判への拒否がこれらの価値の普遍性の拒否を意味し、欧米的価値に対して日本的価値を対置し、欧米的な自由、平等、民主主義、人権とは異なる日本的な「自由、平等、民主主義、人権」の評価を打ち出すならば、それは「文化相対主義」というよりも「価値相対主義」への逸脱に外ならず、結局はヨーロッパ近代市民社会における自由、平等、民主主義、人権という価値の普遍性の否定に行き着くことになろう。
「〈西欧生まれの人権や自由を押しつけようとするのは文化帝国主義ではないか〉という反発」に答えて、樋口陽一は「人間の尊さを『個人の尊厳』にまでつきつめ、人権の理念とその確保のしくみを執拗に論理化しようとしてきた近代立憲主義のこれまでの経験は、その生まれてきた本籍地を離れた普遍性を、みずから主張することができるし、また主張すべきなのではないだろうか」と述べている(樋口陽一『自由と国家』岩波新書、1989年11月)。「文化の相対性という考えをみとめながらも、人権価値の普遍性を主張することがけっして『文化帝国主義』ではない、という基本的考え方を、どうやって基礎づけるかという思想的ないとなみの責任を、日本の知識人は日本社会に負っているのであり、日本社会はまた、世界に対して負っている」とする樋口の問題指摘は、まさに「文化相対主義」から「価値相対主義」への転落を警告し、普遍的価値の日本社会への定着を提起していたのだといえよう。
「なぜ日本の知識人はひたすら権力に追従するのか」(『中央公論』89年1月号)を問い、「〈システム〉が真の近代立憲国家になり、日本の国民が市民に変わるという素晴らしいシナリオを達成するには、正真正銘の革命にも等しい権力の再編成が必要」だとして、「日本人の生活の政治的諸側面について、より真剣で正直な分析」(日本語版への結びのことば)を呼びかけるウオルフレンもまた、同様の問題を投げかけているように思われるのである。確かに、本書は若干の事実誤認や同意しえない評価を含んでおり、また外国の読者に対して「歪んだ」日本像を植え付け、「人種的偏見」を生み出す恐れもないわけではない。しかし、日本の読者にとっては、日本の過去と現在を考える上で本書は必読の書であり、「大国病」に感染して上気した日本人の頭を冷やし、冷静に足元を見直すための解毒剤として、絶好の本であることは疑いない。
(カレル・ヴァン・ウオルフレン『日本/権力構造の謎』上・下、早川書房、1990年9月刊、上420頁、下394頁、各2400円)
http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/nazo.htm