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神様たちの受難(大本教弾圧/戦前、戦後の新興宗教)
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/411.html
投稿者 へなちょこ 日時 2005 年 5 月 03 日 10:55:22: Ll6.QZOjNOr.w


神様たちの受難
http://www.geocities.jp/showahistory/history2/10b.html
 古来から新興宗教というのは急速に教勢を拡大する過程で社会とトラブルを起こし、何らかの罪状を着せられて官憲に取り締まられたり、マスコミなどによる大々的なバッシングを受けるのを常とする。
 
 戦前、最も執拗な弾圧を受けたのが大本教であった。大正10年2/12、不敬罪の疑いで綾部の本部などが捜索を受け、教主の出口王仁三郎は大阪の大正日日新聞社の社長室にいるところを逮捕された。この大本教幹部一斉検挙は大正7年よりの警察の内偵によるもので、王仁三郎は逮捕される際に「不敬罪じゃありますまいな」と罪状をはっきりと認識していた様子であったという。その後、大正天皇崩御により昭和2年に恩赦を受け、免訴となった。
 
 その後、次第に教勢を拡大していった大本教は、海外進出も図り隆盛を極めていた。そんな最中の昭和10年12/7夜、警察官300人が極秘に京都に召集されバスに分乗して、12/8朝4時半、綾部町の大本教本部、亀岡町の大本教天思郷を一斉捜索、教団幹部ら30数人が逮捕された。王仁三郎は講演先の松江で逮捕される。信者に配布した文書の中に不敬な語句があったというのが一斉捜索の理由であったが、実際には大本教の勢力が当局の無視できないほどに拡大し、教団の活動がやがて軍人信者らによるクーデターや反政府活動に転じるのを恐れたためと思われる。また出口宇智麿は東京で逮捕された。四谷愛住町の昭和神聖会本部、杉並区方南町の皇道大本紫雲郷別院なども捜索を受けた。さらに出口一族では五十麿、日出麿も逮捕、有力幹部の岩田久太郎、栗原白嶺らも逮捕された。押収されたものは王仁三郎のお筆先、瑞祥新聞、教団機関誌「真如の光」、映画フィルム「皇軍と少女」などであった。
 
 一斉検挙は突然であった。東京の昭和神聖会本部では信者らは一様に「びっくりした」と言うばかり。幹部信者はそれでも各地からの問い合わせに応対していたが、一般信者はただ呆然とするばかりだった。松江に滞在中の王仁三郎はこの検挙を予期していた様子で、特高課長が「京都からお迎えに来ました」と告げると、「ちょっと京都に用事があるから行って来る、教徒に心配させぬように」と夫人に落ち着き払って言い残して連行されたという。松江での教団の大祭は信者2000人が参加したが、王仁三郎の連行はまだ伝わっていなかったため平穏無事に終了した。
 
 王仁三郎は10数人の警官に囲まれ、列車で護送される。12/8朝5時17分の揖斐発京都行の2等車に乗り込んだ一行だが、王仁三郎はしきりに煙草をふかして落着かない様子を見せたが、綾部駅で信者2人から車窓ごしに着替えなどの差し入れを受けると微笑し会釈した。亀岡を通過する際には教団施設を眺めて、手ぬぐいで涙をぬぐったという。
 
 大本教は京都の綾部に天保7年に生まれた出口直によって興された。直は明治25年に神がかりとなって物質万能の世を直すとお筆先を沢山作って、艮(うしとら)の金神を祀るようになる。明治32年に直の末娘すみの婿となった王仁三郎が独自の霊学に古事記を加味した教義を作り、皇道大本と名づけた。やがて世界統一を成し遂げて綾部を首都とし、出口家が祭祀長として神勅を受けるのだと説き、知識階級、軍人、官僚らにも多くの信者を獲得したが、大正10年の雑誌「神霊界」の中に不敬な記述があると一斉検挙を受け、世間を騒がせたものの、教勢には変わりはなかった。大正14年にはパリに進出、中国大陸では紅卍会と共同戦線を張り、機関紙として人類愛善新聞を発行、北京に世界宗教連合会を設立、海外での活動が盛んな一方、国内でも千数百の支部、6000人の布教師を抱えていた。王仁三郎は自らを天皇のような至高の存在になぞらえ、白馬にまたがって教団の土地を巡視してまわり、周囲には近侍として多くの女性を置くなどしていた。また直のお筆先を王仁三郎が書いていた事も、警察には自ら認めるなどしていた。
 
 今回の大本教検挙の最大の理由はやはり不敬な語句を雑誌に使用したという建前の話ではなく、別働隊の昭和神聖会を昭和9年に設立、皇道維新、祭政一致などを訴えて雑誌やパンフレットを発刊、王仁三郎は自ら政治について語り、紙幣1000億円の発行や5年ほどすべての税金の廃止を発表するなど、大本教が政治への傾斜を深めていたためであると思われる。昭和10年当時の大本教の公称信者数は40万人、実勢は20万人とされた。一斉検挙は幹部信者30数人にとどまり、一般の信者は検挙はされなかった。
 
 前回の大正10年の検挙では、結局、恩赦で免訴となったものの弁護側は王仁三郎の精神鑑定を訴えており、天理研究会の大西愛治郎の不敬事件も精神鑑定によって大審院(今の最高裁)で無罪になっていた。そこで警察側は神庭会議というものが大本教内部で行われていた事を証拠に、王仁三郎が精神異常でも王仁三郎の意見に賛同する神庭会議の出席者は常人なので、王仁三郎の責任も問えるといった形で、王仁三郎の無罪判決を阻止しようと手早く準備を始めていた。
 
 苛烈な取調べに、用意周到な警察側の証拠固めもあり、遂に大本教の関連団体に結社禁止、主要建物破壊命令と、王仁三郎ら8人の起訴が昭和11年3/13午後1時に確定、大本教の消滅が決まる。解散命令は皇道大本、昭和神聖会、昭和坤生会、昭和青年会、更始会、大日本武道宣揚会、人類愛善会、明光社に下り、綾部と亀岡の大本教施設は主要な建物について土台の石まで掘り返すように命令が出た。1年前の一斉検挙から信者は減少気味で、この当局の弾圧に対して抗議の行動に出るような信者は出なかった。結局、大本教の本部は爆破され、教団施設は跡形もなく消え去り、20万とも30万ともいわれた信者は特に騒ぐ事もなく教団消滅を迎えた。王仁三郎はじめ教団幹部らは悲惨であった。岩田久太郎は獄死、栗原白嶺は首吊り自殺、出口日出麿は発狂し入院、いずれも過酷な拷問の結果である。こうした当局の処置に耐えた王仁三郎は昭和17年に保釈、戦後は教団を再建し昭和23年に死去、しかし最盛期のような勢いは戦後の大本教にはない。しかも教団が内部分裂してしまい、お互いに深刻な対立を続けるなどで現在に至っている。
 
 戦前にはひとのみち教団も昭和11年に検挙を受け、昭和12年には解散となっている。ひとのみち教団は教育勅語を教典にしていたため、戦後は「人生は芸術だ」という教義に変更、PL教団と名称も変えて再発足、高校野球のPL学園の存在でその名を知られる。また天理教の分派で、天理教批判を行っていたほんみちこと天理研究会の大西愛治郎が昭和3年に検挙されたが、新聞発表は行われなかったため、教団の信者など一部の国民しかその事実は知らなかった。その後、検挙から4ヶ月後に記事解禁を受け大西の不敬事件は一般にも知られるようになったが、精神鑑定で昭和5年に大西は無罪、しかし昭和13年に再び一斉検挙を受け、終戦まで大西はじめ教団幹部らは獄中に過ごした。戦後は無罪放免され、ほんみちを再興している。
 
 戦後は幕末に続く新興宗教の勃興期であった。世の中の政体が大きく変化する時、より不変なものである宗教にすがろうとする人が多くなるのは無理からぬ事で、戦後間もなくは特に、戦前、戦中の当局の監視の下で思うような布教活動が出来なかった事への反動もあって、爆発的に新興宗教の乱立を招く事になった。昨日までの皇国日本の正義が、突如としてアメリカ占領軍から悪であると断罪され、都会は食糧難に苦しみ、治安は一挙に乱れ、あらゆる価値観が逆転する中、人々の目にこうした新興宗教や共産党などのこれまで公然と活動できなかった団体の存在がまぶしく映ったのも必然的といえば必然的な成り行きであった。
 
 しかし信仰の自由の保障された戦後とて、教義そのものを検挙理由にする事はさすがになくなったものの、様々な理由で教主が逮捕されたり、教団がマスコミからバッシングを受ける例はあった。戦後最初に検挙を受けた新興宗教が璽光尊である。璽光尊は東京から金沢へ昭和21年に本拠を移したが、信者にかつての双葉山や囲碁の呉清源などの有名人がいた事からマスコミが好奇の目を向けるようになり、璽光尊の降霊術で双葉山が明治天皇の物まねをしたなど盛んに報じたが、天変地異などを訴える璽光尊は社会不安を巻き起こすと当局は判断、遂に昭和22年に一斉検挙となる。その際に双葉山が警官を投げ飛ばすなどしてまた話題になった。結局、璽光尊こと長岡妙子は精神鑑定で無罪となり、双葉山ら信者も離れてゆき、教団そのものも全く勢力を失った。
 
 よく戦後の新興宗教乱立の引き合いに出される踊る宗教は昭和23年に世間の話題となった。街中に信者が集まって踊るという行為から人目を集めたものだが、これは北村サヨ率いる天照皇大神宮教という宗教で、現在も存続している。この踊る宗教が戦後の新興宗教乱立に関する記述に頻繁に登場するのは、その奇異な外観が人々の印象に強く残ったという事もあるし、視覚的にわかりやすいという事もあるだろう。そしてこの踊る宗教は特に社会不安を引き起こしたり、教主が事件を起こして逮捕されたなどという事もなく、かつ現在も政治的に強大な力を持つ宗教でもないので、比較的、取り上げやすいという事もあるだろう。あれだけ爆発的に教勢を拡大して国民誰もが知っている創価学会が教科書などにほとんど触れられず、踊る宗教の紹介は必ずといっていいほどなされているのは、この手の歴史関係の本を編集する人間の政治的な配慮や偏見などもあるかもしれない。逆にそうした配慮や偏見が不要な外国人の編集する外国語による日本の昭和史関連の本には踊る宗教は登場しないが、創価学会は必ず登場する。
 
 璽光尊に続いてマスコミのバッシングを受けたのがおひかりさまこと日本観音教である。これは現在の真光系教団のルーツで、手かざしの霊波で病気を治すとして昭和23年の時点で信者20万人を集めていた。教主の岡田茂吉へのインタビューを、当時の新聞記者は当意即妙な受け答えで人気のラジオ番組をもじって「『話の泉』ばり」としている。岡田は自ら中退したものの高村光太郎と高校時代は同級生で、大本教に入信したが、自分の方が大本教よりも人の病気を快癒させる力があるので昭和10年に脱退、最初は指圧をしていたが、次第に手かざしの霊波療法へと変わってゆき、戦後に爆発的に信者が増加したのだった。この日本観音教が当局から脱税を理由に内偵されたのは、璽光尊が消えた後の日本国内で昭和23年当時、信者が最も多く、信者増加率も最も高いとされる宗教が日本観音教だったからである。事実、法務庁では日本観音教は宗教団体なら問題はないが、政治団体ではないのかと疑いを持っているなどと、突然の脱税疑惑で内偵を進める事となった本当の理由らしきものを新聞にぼろっと語ってしまっている。その後、昭和23年暮れには大規模な査察が日本観音教に入り、脱税額は1200万円であるとした。昭和24年3/5、なおも未納の1000万円分について、岡田教主の家などが差し押さえられる。その後、日本観音教は世界メシヤ教と改名するが、昭和25年5/29、岡田教主は贈賄の疑いをかけられ逮捕、教団施設は一斉捜索されたが、農地の不正取得にからみ内偵を受けたもので、脱税の口止めとして静岡銀行の行員に支払った金が贈賄に問われたのだった。昭和29年、岡田は高裁で無罪判決を受けているが、教団がこの一連の検挙で大きな打撃を受けたのは言うまでもない。
 
 続いてターゲットになったのは霊友会である。昭和28年、赤い羽根募金の100万円をピンはねしたとの疑いが霊友会にかけられ、10/30、教主の小谷喜美が共犯として逮捕された。昭和27年10月の共同募金に際して、女性信者80万人が街頭で参加したが、集まった1000万円のうち110万円を横領したという疑惑で、昭和28年10/20には霊友会の関連団体が捜索され2人が逮捕、その自供から小谷の関与が疑われたのだった。この捜索の際には土蔵の金庫から1000万円や大判、小判が続々と発見され、教団の資金力の凄さが見せつけられた。小谷は直接、指示を出した訳ではなかったが、2人の犯行を知っていたという理由から共犯にされ、入院中の病院から連行された。警察が病室に押し入るとさすがに動揺した様子で、お付きの信者は泣き崩れたという。霊友会はこの時点で信者200万人、先にバッシングを受けた日本観音教改め世界メシヤ教の勢いが止まる中、昭和28年時点では日本では最大級の信者を擁し、信者の増加も最大規模の新興宗教で、かねてより警察にマークされていた。
 
 霊友会本部は港区板倉町にあり、毎月8のつく供養日には信者2万人が集まるなどしていた。本部周辺には屋台も立ち並ぶという。信者の大半は中年女性、教義は日蓮宗に基くもので非常に簡潔だったため、他の新興宗教に比べて入信しやすかったらしい。警察では小谷教主の身の回りの世話をしていた女中が、教主らに虐待を受けたと訴え出たのを奇貨として内偵を開始、今回の逮捕劇となった。霊友会側ではこの元女中らは分派した仏所護念会のメンバーだと主張、教団内の内紛のようなものも関係しているとも見られた。霊友会の年収は2億円と推定され、昭和25年までは教団の所得はすべて小谷自らの名義になっていたが、教団名義に切り替えの最中で、実際にはどこまでが小谷の財産か教団の財産か判然としないという。三浦半島の南下浦町に生まれ、前の夫の姓を名乗っている小谷は田舎のおかみさんといった印象で、非常に気さくでずけずけとものを言うがさっぱりした性格で、こうしたところが中年の女性信者の心を掴んだ。小谷は食事にはうるさい人であったが、生活ぶりは質素であった。東北の信者団体が残した弁当の空き箱から米をそぎ落として、それを集めたものを粥にするなどしていたともいう。この霊友会検挙では時の法相が事件もみ消しに動いたなどと騒ぎになった。その後も霊友会は昭和35年頃まで新興宗教では最大の勢力を誇っていたが、信者の多くは次々に分派して更なる新教団を旗揚げして、創価学会にその地位を譲る事になる。霊友会から戦前に分派して戦後に教勢を拡大した立正佼成会も昭和31年、読売新聞の反佼成会キャンペーンを受けて信者の増加が頭打ちになっている。読売の記事は女性教祖の前歴を水商売と書きたてるなどセンセーションなもので、社会党の猪俣浩三衆院議員も国会で攻撃に立ち、反論の場が教団雑誌でしか与えられなかった佼成会の受けた打撃は大きかった。
 
 昭和44年、今度は創価学会がマスコミのバッシングを浴びる事になる。藤原弘達の「創価学会を斬る」を絶版に追い込むために画策、作者や版元に圧力をかけたとして連日、マスコミは反創価学会キャンペーンを行い、昭和45年に創価学会側が謝罪、このバッシングによって創価学会はその教勢拡大を止めてしまう。この頃より、週刊誌はじめ創価学会バッシングは公然と行っても構わないといった暗黙の了解が出来て、これは平成に入って公明党が与党入りするまで続いた。なぜ創価学会ばかり叩かれたのかは、その後、創価学会を上回る規模の新興宗教が出てこなかった事や、公明党の存在から政治的な意味でのバッシングもあるだろう。
 
 戦前のような教義そのものを問題視した摘発や、拷問に次ぐ拷問により教団幹部の意気を阻喪させるといった宗教弾圧は戦後はなかったにせよ、教義とは関係のない脱税などの金銭絡みの部分での教主逮捕や、マスコミを使った一斉バッシングによって急速に拡大中の新興宗教の勢いを止めるという事が戦後も定期的に行われていたのは、これで明らかだろう。璽光尊、後の真光こと日本観音教、霊友会、立正佼成会、創価学会、いずれも最も勢い盛んな時期に水を差されて、その後、信者は頭打ちになって現在に至っている事がわかる。弾圧と呼ぶほど苛烈なものではないが、ある種の規制が戦後も非常に勢いの目立つ新興宗教については行われたのは事実である。

参考
朝日新聞東京版各記事など 1945〜1970
東京朝日新聞各記事など 1928〜1938

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