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(回答先: 透徹した懐疑と内省無き「正義感」は権力志向か権力盲従に堕するのみ、だと思います 投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 5 月 02 日 00:27:31)
内省と自虐の差
ちょっと付け加えたいことがあります。
もし一つの宗教なりそれに近い団体で、教祖なり指導者の「教え」に照らし合わせて自分を「反省」するのであれば、それは内省といわずに、単なる自虐だと思います。内省とはあくまで、自らの観察と経験を自らの内に取り入れて自らの認識の未熟さや過ちを認識するものであり、他人の与えた「教義」に自らを合わすことではないと考えます。
少なくともいつもそのように志向する人間であれば、他人の忠告の言葉や「貪瞋痴」などといった既成の表現、あるいは「アダムとイブがりんごを食った」という他愛も無い話ですら、内省と自省を進めるきっかけになるでしょう。そこがこのような昔からある宗教の優れた点だと思います。
しかし正義感の強いストイックな人は、へたをすると、ちょうどベッドに合わせて客の体を切り刻んだという寓話に出る宿の主人のように、他人の作った「教義」や他人に植えつけられた「信念」に合わせて自らの精神を切り刻むことになってしまいがちなのではないか、と恐れます。これこそ自虐でしょう。
ナイーブでストイックで正義感の強い人が、その結果として、権力志向や権力盲従の「カルト的」人間に変質していくことのないように祈りたいものです。そんな人間を利用しようとする勢力は大きく強くとてつもなくずるがしこいものですので。