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(回答先: 宗教をやっている人間はストイックで正義感の強い者が多い 投稿者 スパルタコスポノ 日時 2005 年 4 月 30 日 22:34:39)
透徹した懐疑と内省無き「正義感」は権力志向か権力盲従に堕するのみ、だと思います
スパルタコスボノさん、まいど!
私はこのところカトリックを中心にキリスト教の悪口ばかり言っていますが、従来の、つまり第2バチカン公会議以前のカトリックには、猛烈に反発する部分と同時に猛烈に引かれる一面も、また同時に存在していたのです。
それが実は「原罪意識」なのです。「原罪」というとその元々は、例のアダムとイブがりんごを食べてドッタラコッタラ、という他愛も無い話なのですが、しかしこれが、かつてのキリスト教世界にせめてもの救いを与えていた、と考えます。つまりそれが、一部の人間にとって、人間とその社会に対する懐疑と自己に対する内省を生む貴重なきっかけになったのではないか、と考えるからです。
もちろんローマ教会自体はローマ帝国の延長ですから昔から懐疑とも内省とも無縁の社会ですが、この「原罪」というヤツがきわめてあいまいでいい加減なだけに、優れた思索能力を持つ末端の人間にとっては逆に、『人間が抱える根本的な罪とは何か』を「神と対話」しながらド真剣に脂汗を流して考えざるを得なかったはずだ、と思います。アッシジの聖フランシスコなどは、結局そこからローマ教会に背を向けて「キリストの清貧にならう」という方向に突っ込んでいったのでしょう。
ただその意味では仏教の方がはるかに人間と人間社会の持つ欠陥を深く追求しているでしょう。優れた仏教徒たちは、貪瞋痴の「三毒」への言及はもとより、「天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄」の六道輪廻の世界を、単に死後の生まれ変わりとしてだけではなく、この世の有様と人間自身の姿、つまり己自身の姿としてとらえる中から、苦しい内省と懐疑を経て優れた思索を残したのだと考えます。
ただ何教でもそうでしょうが、その「苦しさ」に一つの「救い」の道を示しそれが教義と化したとたんに、それは人間と社会に対する懐疑精神を失わせ自らに対する内省を失わせる、つまり思考停止を招き、その教義を知る前よりも何倍も強烈な権力志向か権力盲従に、人間を引っ張っていくのでしょう。「神は我と共にあり」「正義は我と共にあり」と、こうなると、もう立派な『カルトの一メンバー』、ということになります。
あとはもう、南北アメリカの原住民を片っ端からブチ殺し、アフリカ人を「家畜」としてこきつかい、といったキリスト教徒のおなじみの姿になります。仏教徒がキリスト教徒ほど暴力的になれないのは、やはりその懐疑と内省の徹底度の差だと思います。
先日も私の投稿で引用した文章ですが、
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http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/387.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 4 月 10 日 15:48:50:
JMM [Japan Mail Media] 「宗教改革の終わり」 冷泉彰彦
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の中に次のような部分がありました。引用します。
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【引用開始】
保守的なプロテスタントの思想は、現在のカトリックと比べると更に保守的といって良いでしょう。天地創造説を重視して、進化論を邪悪と考えたり、他の宗教との交流に不熱心だったり、あるいは聖職者の衣装や、音楽や映像による儀式の演出など、宗教改革の際にドイツのルターやスイスのカルバンが唱えた、質素で敬虔な人間の生き方とはかけ離れたものです。
また、聖母マリアへの崇拝など、従来のプロテスタントでは考えられなかったような逸脱も見受けられるのです。簡単に言えば、カルバンの強烈な「勤労と報酬の正当化」や「カトリックの硬直した組織への反発」はそのまま継承しているのですが、宗教としてはもっと大切な「自分の言葉による内省、自省」という精神的な部分は実に脆弱なのです。まず、自分を省みて、神と対話する、そんな深みは現在のアメリカのプロテスタントにはありません。
【中略】
そして、よりリアルタイムの報道を行っている、24時間ニュース局は、法王が埋葬されるとすぐに、ニュースの中心は、明日の「チャールズ、カミラ」の「ロイヤル・ウェディング」に移って行っているのです。報道を通じて、とにかくアメリカ人のTVクルーの軽薄さと、例えばポーランド人やイタリア人などの参列者の持っていた厳粛な雰囲気には、全く別の世界を感じさせられました。人の死、それも歴史に明らかな足跡を残した人を見送るに当たって、このアメリカ社会の見せている浅薄さは何なのでしょう。
それは思考停止といって良いでしょう。漠然と「偉い人が死んだ」、だから「お祭り騒ぎをしよう」、保守的な宗教に依存したい、個人の内省なんて面倒なことはできない、そんなレベルです。一方でカトリックが、それこそヨハネ・パウロ二世が営々として取り組んだ他宗教との和解や、過去の反省、平和主義には全く興味がない、そして人間が偉いという尊大さだけはプロテスタントの伝統を受け継いでいる、そんなところでしょう。
【後略、引用終り】
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作者の冷泉彰彦氏は、教皇の死を伝えるマスコミの異常さやブッシュらの余りに奇怪な姿に対してはどう解釈してよいのか分からずに、一応「常識的」な説明で取り繕っているようですが、この辺の部分は、日ごろからの落ち着いた観察が生かされており、確かに真実を言い当てていると思います。
『簡単に言えば、カルバンの強烈な「勤労と報酬の正当化」や「カトリックの硬直した組織への反発」はそのまま継承しているのですが、宗教としてはもっと大切な「自分の言葉による内省、自省」という精神的な部分は実に脆弱なのです。まず、自分を省みて、神と対話する、そんな深みは現在のアメリカのプロテスタントにはありません。』
という部分なのですが、実を言うと、これはほとんどそのままオプス・デイの発想に当てはまります。というよりも、第2バチカン公会議以降のカトリックにほとんど当てはまります。「思考停止」の歯止めとしての「原罪意識」がほとんど影を潜めたからです。もちろん米国のプロテスタントにこんな意識など影も形も無いでしょう。だからカルト国家にならざるを得ない。
オプス・デイは社会的エリートの集団であり、エリートとして自分のこの世での仕事に成功すればするほど、つまり自らの権力と権威を高めるほど、「自らを聖化する」ことになります。その一方で創始者エスクリバー(司教にも枢機卿にもなれなかったけれどもカネの力で公爵の位を手に入れている)に対する盲従を要求されます。彼らにとっては聖書よりもエスクリバーの著作「道」の方が神聖なのです。これはもう、押しも押されもせぬ立派なカルト集団です。
正義感が強くストイックな人が、もしどこかの時点で人間と人間社会に対する懐疑精神を失い自らに対する内省を失ったならば、後は限りない権力志向か、限りない権力盲従に突っ走るだけでしょう。そうなると初めの状態よりももっと救いようがなくなります。そんなことなら中途半端な「正義感」「ストイシズム」など初めから無い方が良かったわけです。
私が「権力志向」「権力盲従」と言う場合、例えば、自ら考え抜いた言葉ではなく権威あると一般に信じられている人物の言葉を引用して「折伏」しようとする、あるいは「これをバックにすれば相手はたじろぐ」という人間や集団を引き合いに出して自らを権威付けする(例えば「抑圧されるかわいそうな人たちの味方」として)ようなことも含みます。
私はハナから神など信じませんが、しかし宗教が持つ懐疑と内省へ人間の思考を導いていく力の大切さは認めます。しかし現在ある宗教で、そんな苦しいことを信者に要求するようなものがあるでしょうか。苦しいだけではなく、教団のあり方や構成員たちのあり方に懐疑精神をもって見られたらたまったものじゃありませんから、どこかでそれをストップさせて、それを教団の外に対する攻撃精神に転化するでしょう。そして内省は相手を折伏するための、つまり自分の欠陥ではなく相手の欠陥を攻撃するための武器に転化させられるでしょう。
そして私が「カルト」と聞くときに思い浮かべるのは、まず第一にこのような権力志向と権力盲従の思考停止状態の人間集団です。それは宗教だけとは限りません。政治集団などにもカルト的なものは多いのではないでしょうか。
いつもながら長々と愚痴っぽい話ばかりになってしまいました。すんまへん。