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愛に、こんなに沢山の種類があると最近まで知りませんでした。
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○ 西洋における愛
---- エロス
---- フィリア
---- アガペー
---- キリスト教の「愛」
○ 東洋における愛
---- 仏教の慈悲
---- 儒教の仁
○ 現代における愛
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以下、百科事典から引用です
愛 あい 愛は人間の生の基本的な原理であり、それだけに、愛の思想にはさまざまな時代や文化の人間観と価値観が反映している。以下では、西洋、東洋、現代における愛の思想を概観する。
西洋における愛
ギリシア語では、愛は「エロス」「フィリア」「アガペー」という3つの言葉で表現されるが、これらの言葉には、愛についての西洋の考え方が凝縮されている。
エロス
「エロス」は、情愛にもとづく情熱的な愛である。プラトンによれば「エロス」とは、はかない有限な存在である人間が、自分には欠けている完全な高い美しさと完全さをもとめ、いわば神的なものと合一しようとする欲求である。しかし、なにかと合一しようとする愛は、ほかの者を無視し、嫌悪し、排斥しようとする愛でもある。ここに、愛の狂気が生まれる。
フィリア
「フィリア」は、静かな愛であり、理性的な人間の間に成立する友情としての愛である。アリストテレスによれば、人は自分と同じ考え方をもち、自分とともにかなしみ、よろこぶ者を愛するものである。しかし、この愛も志を同じくする集団どうしの対立の原因となりかねない。
アガペー
「アガペー」は、キリスト教的な愛である。キリスト教的愛は、「エロス」でも「フィリア」でもありえない。人間は神から無限にへだたっているので、神との合一をのぞむことも、神に友愛の感情をもつこともできない。新約の神は、愛のゆえに人間を創造し、全人類を代表して贖罪をはたすためにイエス・キリストをつかわしたのであるから、神のこの愛にこたえる人間の愛も、利益や価値を「もとめる」愛ではなく、むしろ「あたえる」愛、自己犠牲的な愛でなければならない。
「アガペー」は、敵をもふくめたすべての人間をわけへだてなく愛する「隣人愛」である。キリスト教においてはじめて、愛は民族や文化をこえた普遍的な原理になる。しかし他方、「アガペー」は、既成の因習や拘束を打破し、より自由で力強いものになろうとする人間の生の力をなえさせ、人間を隷属状態におくものとして批判されてもきた。ニーチェのキリスト教批判はその代表例である。
→ キリスト教の「愛」
東洋における愛
東洋における愛の二大教義といえば、仏教の「慈悲」と儒教の「仁」である。
仏教の慈悲
仏教によれば、いずれの愛も最後までゆきつけば、「渇愛(トリュシュナー)」、つまり、渇きにも似た盲目的な愛となり、この「渇愛」が人間の苦悩の原因となる。
しかし、他人の苦悩をあわれむことから「悲(カルナー)」が生じる。「悲」の原義は「呻(うめ)き」である。呻きを知る者だけが、他人の苦悩に共感し、同情し、その苦しみをやわらげてやることができる。「慈(マイトリー)」は、「友」からつくられた言葉で、他者に対して楽をあたえるという意味がある。
「慈悲」とは、苦悩する者をあわれみ、いつくしむ愛の究極の形態といえる。しかし、「慈悲」はたんなる人間的な感情ではなく、宗教的なものにまで昇華された愛である。「慈悲」は、愛憎の対立をこえた、もとめることのない愛であり、生きとし生けるものの一切にまでおよぶものである。
→ 仏教
儒教の仁
「仁」とは、一般に「人を愛する徳」とされるが、孔子は親子兄弟の血縁にもとづく愛を基礎において、そのおよぶ愛の範囲を拡張してゆけば、やがては人類愛にまで到達できると考える。墨子は、家族愛や愛国心はかならずしも人類愛にはつながらないとして、孔子の思想を批判し、「兼愛(無差別の愛)」を主張したが、漢代以後の官僚国家においては理想論としてしりぞけられ、近代にいたるまで儒教の「仁愛」が人倫秩序の根幹となった。
→ 儒教の「仁」
現代における愛
啓蒙(けいもう)と近代化をへた今日、愛を、宗教的慈しみの感情や人倫的関係の基礎ではなく、個人の内面のドラマとしてとらえようとする試みがおこり、愛は心理学や精神病理学の対象とされるようになった。
フロイトのリビドー説は、無意識の層にある愛のかくれた動機として性衝動を考え、性の抑圧がさまざまな精神障害の原因だとした。しかし彼は、精神分析によって性の抑圧を解放する道をしめしたが、性を生物学的、生理的現象としかみなかった。
これに対して、ミンコフスキーやビンスワンガーらの実存分析やブーバーの哲学は、愛を人間学的に了解し、愛を「われ」と「なんじ」の関係性においてとらえようとし、ヤスパースは愛を「具体的なものをとおして絶対者にむかう運動」と規定することで、愛に超越の契機をとりもどそうとした。