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(回答先: 長崎原爆ルポ:波紋広がる 「60年の空白」に怒り(Mainichi) 投稿者 ネオファイト 日時 2005 年 6 月 17 日 21:41:42)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617ddm041040133000c.html
長崎原爆ルポ:
未知の症状、闘う医師 60年前の凄惨、今に(その1)
<幻のルポ発見>
◇遺族「よみがえった記憶」
「ずっとふたをしていた記憶がよみがえりました」。被爆地・長崎に潜入したジョージ・ウェラー記者のルポに、文中に登場する医師の遺族らは当時の長崎に思いをはせた。地獄絵図の中で未知の放射線障害と闘う患者や医師と、それを世界に伝えようとした魂。被爆から60年の歳月が流れ、筆者だけでなく、取材を受けた医師たちも鬼籍に入った。しかし、核被害のすさまじさを伝えるメッセージは、時代と国家を超えて届いた。【大平誠、立石信夫】
「ウラジ・ハヤシダ」と紹介される林田浦治医師は、爆心地から約3キロ南東の長崎市新大工町の自宅兼医院で開業していた内科医。被爆後すぐ、同市興善町の新興善小学校の救護所に駆り出された。
長女の明子さん(76)は、防災服に救急袋を背負って救護所に通う父を覚えている。「薬もなく、患者さんの傷口にわくウジをピンセットで一つ一つ取る。そんなことしかできないのが『かわいそうだ』って」。テニスで日本一にもなったスポーツマンで、優しく、ぐち一つ言わない父。廃虚と化した医院に帰宅すると、医療用アルコールにカラメルを垂らした手製の酒を湯で割り、1杯だけあおるのが常だった。
二女の泰子さん(74)は当時、県立女学校の3年生。姉とともに爆心地近くの三菱兵器工場に学徒動員され、魚雷を造っていたが、2人ともたまたま8月9日は工場を休んで家にいて、無事だった。近くの伊良林小学校は遺体の焼き場となっており異臭が絶えなかった。
ルポの訳文を見て当時を思い出した泰子さんは「お父さんを亡くした友だちが『母と3日間かけて遺体を焼いた。内臓がぐちゅぐちゅして、なかなか焼けんとさね』って言うんです。14歳の少女がですよ」と涙ぐんだ。
ウェラー記者が「第2救急病院で会った」とする軍医の佐々木義孝中佐は、軍が終戦当日に長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)に開設した救護所「仮編成第216兵站(へいたん)病院」の院長。福岡陸軍病院から派遣され、詳細な状況報告を残した。
同救護所の看護師だった高原二三さん(84)は「包帯で顔がぐるぐる巻きの男性に、おにぎりをお湯で溶いてあげた。『おいしい』と泣きながら口を動かしていたその人が、翌日に亡くなっていた」。死体を大八車に乗せて焼き場に運ぶ毎日を思い出し、声を詰まらせた。2カ月にわたる救護所での日々は凄惨(せいさん)を極め、別の軍医も「医者として施しようのない姿を見るのはつらい」と嘆いたという。
ルポで放射線治療の専門家とされているのは、九州大医学部放射線科学教室の初代教授で、当時、九大付属病院長だった中島良貞医師。同教室の学生で、被爆2日後に九大救護班として現地入りした門田弘医師(81)は「中島先生は出発前から『原子爆弾だから、手の施しようがないよ』と言っていた」と原爆の怖さを当初から冷静に分析していた恩師を振り返る。
中島医師は71年に84歳で亡くなった。二男の雅良さん(85)は「当時のことは話さなかった。でも放射線のことは『これ以上浴びたら危ない』と非常に怖がっていました」と話す。
林田医師は、70年に73歳で胃がんで亡くなった。妻と医師を継いだ息子2人も亡くなり、残ったのは姉妹だけだ。救護所だった新興善小も、昨年取り壊された。「(ウェラー記者は)つぶさにご覧になったから、伝えようとされたんでしょうね。こんなに惨めでひどいもんだったとは、向こうでは誰も知らなかったでしょうから。長崎と広島が頑張らなくちゃね」。ともに7人の孫を持つ2人は、ウェラー記者のルポを手に、つぶやいた。
◆軍医の「状況報告」と整合
◇死の直前に高熱−−受傷1、2週間後、全身に影響
佐々木義孝・軍医中佐はウェラー記者が長崎入りする直前の45年9月4日付で「状況報告」をまとめていた。次々と亡くなる被爆者の臨床病理所見が記され、未知の放射線障害についても詳細な記述がある。ルポと整合する部分も多い。抜粋、要約は以下の通り。
・9月2日までの収容人員395人中、161人が死亡。医官の熱誠なる診療にもかかわらず極めて死亡率高く、現在入院中の148人もその過半は逐次不幸なる転帰をとるものと予期する。
・入院、外来患者の70%内外はガラスや木片などによる一般外傷だが、高度な化膿(かのう)でない多数例が、受傷1、2週間後に原爆の輻射(ふくしゃ)線(放射線)によると思われる全身的影響が発現し、急速に死に至る。
・熱傷は収容患者の63%に認められる。当初は比較的良好に治癒するが、受傷2週間後に至ると患者の多数(28%)は、全身症状が漸次悪化し体温40度内外に上昇、呼吸困難を伴い、3〜5日後に心臓衰弱により死亡する。熱傷以外に原爆の特殊輻射線による臓器の障害、変性等によるものと思われる。
・脱毛は、被爆1〜2週間後に大多数に発生。原因も分からず高熱を発生する者も少なくなく、その場合100%死に至っている。
・原爆の特殊作用と認められる諸症状には熱傷、下痢、脱毛、貧血などがあるが、いずれの症例も死の直前には必ず高熱が続く。これに関してはいまだ全く知見を持たないが、混合感染や敗血症性ではないと思われる。
毎日新聞 2005年6月17日 東京朝刊
<幻のルポ発見>
◇「放射能だらけだ。ナガサキに絶対に入るな」
「ナガサキは完全にやられた。放射能だらけだから、解放されても絶対に入るな」。長崎原爆投下から約1カ月後の1945年9月、福岡県大牟田市内の当時の連合国軍捕虜収容所「第17分所」にいた元米兵のハロルド・カーバースさん(87)=米ミネソタ州セントポール在住=は、米国人記者のそんな忠告を、今も鮮明に覚えている。その人物は、原爆投下直後の長崎に外国人記者として初めて入った後、連合国軍捕虜について取材するため収容所を訪ねてきたジョージ・ウェラー記者だった。【セントポールで和田浩明】
当時、この収容所には米、英、オランダ人などの約1700人が収容され、三井・三池炭鉱で強制労働させられていた。長崎原爆当日の45年8月9日、カーバースさんが採鉱作業を終えて外に出ると、「キノコ雲を見た」と言う仲間の話で持ちきりだった。長崎までは直線で約60キロの距離だ。
数日後、収容所から日本人看守の姿が消え、カーバースさんは終戦を知る。上官の指示でそのまま収容所内にとどまっていた9月中旬、ウェラー記者が来たのだった。
カーバースさんは41年9月、米陸軍戦車大隊の衛生兵として、米国の植民地下にあったフィリピンの首都マニラ近郊に派兵された。42年春、在比米軍の降伏に伴い捕虜となり、45年1月、大牟田に移送された。以来、一日12時間の炭鉱労働と乏しい食事の配給により、支給の軍服はだぶだぶで、ウェラー記者は「3年半ぶりに見た健康な米国人」だった。
ウェラー記者は45年12月、ミネソタの地元紙ミネアポリス・スター・ジャーナルに「日本の地獄船」と題する連載記事を書いた。その中でカーバースさんを、大勢が死亡したフィリピンから日本への捕虜移送で「日本にたどり着いた一人」と紹介している。
「マッカーサー(連合国軍最高司令官)が救出してくれるまで動かないほうがいい」。身の振り方を相談したカーバースさんらに、記者はそう助言した。そして「長崎はひどくやられている」と言い、「radioactivity(放射能)だらけだから、解放されても入ってはいけない」と忠告した。ウェラー記者は長崎の取材で、放射能汚染の怖さを認識したとみられる。放射能の知識がなかったカーバースさんは「radio(無線)だらけとは、どういうことだろう」といぶかったという。
ウェラー記者が去って数日後、帰還するため米軍艦船が待つ長崎港に列車で向かった。車窓から、配管が見えるほど破壊された建物群や、樹木が根こそぎになった廃虚が見えた。窓のすき間から吹き込む遺体のにおいらしい激しい悪臭が鼻をついた。
カーバースさんは故郷のセントポールに帰り着き、郵便局に36年間勤務して83年に引退した。「あんな経験は誰にもしてほしくない」。カーバースさんが今そう語るのは、捕虜体験のことだった。「原爆については?」と向けると、「ひどいとは思うが」と言って、言葉をつないだ。
「原爆投下は戦争の終結を早めた。その結果、私たち米兵だけでなく、日本人の被害を少なく抑えることが可能になった」。米国では一般的な原爆投下の正当化論だった。
毎日新聞 2005年6月17日 東京朝刊
<あの日を今に問う>
連合国軍総司令部(GHQ)の検閲によって闇に埋もれていた故ジョージ・ウェラー記者の幻のルポが60年ぶりによみがえった。原稿は、荒涼とした長崎の原子野と、苦しみの中で命を落としていく被爆者たちの姿を生々しく伝えている。当時、この原稿が発表されていれば、米国の世論も世界の原爆への認識も一変し、核をめぐる現在の状況は異なっていたかもしれない。ウェラー記者のルポと写真を紹介するとともに、当時の検閲状況などを振り返り、原稿が今に問いかけるものを検証する。
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◇1945年9月、長崎にて−−ジョージ・ウェラー
◆彼らはやけども骨折もなかったが、黒い唇を閉ざし手足には赤い斑点が…。
ウェラー記者の書いたルポの日本語訳は次の通り(抜粋)。
◇
【9月8日長崎】誇張された話を排除し証言を検証していくと、原爆はすさまじいものであるという印象が増していく。日本人は米国のラジオから、地面に極めて有害な放射能が残っているとの説明を聞いている。ただ、肉の腐敗臭がいまだに強烈な廃虚のただ中を数時間歩くと、記者も吐き気をもよおすが、やけどや衰弱の兆候はない。
この爆弾がこれまでよりせん光が広がり、強力な破壊力を持っていることを除いて、ここ長崎では、原爆が他の爆弾と違うという証拠は見つからない。
三菱の兵器工場の骨組みが曲がったりぺしゃんこになっている様子は、鉄や石に対する原爆の威力がどのようなものだったかを示している。だが、長崎郊外の二つの病院では、炸裂(さくれつ)した原子が人間の肉体や骨に対してどのような力を持っているかは、明らかにならないままだった。
たまたま被害から逃れた人々は、壊れずに残った二つの病院で座っていた。彼らの肩や腕、顔は包帯に包まれていた。
やけどを負っていたり、やけどを負ってはいないが髪の毛の一部がはがれ落ちた何人かの子供たちが、母と座っていた。大人たちの何人かは痛みの中、布団に横たわり、低いうめき声を上げていた。ある女性は夫の世話をしながら、目を涙で曇らせていた。
2人の一般医、1人の放射線専門家と長時間話し、多くの情報と被害者たちの意見を得た。統計というにはまばら過ぎるが、この市営病院に今週までいた原爆患者約750人のうち約360人が死亡したのは確かだ。
死亡原因の約7割は通常のやけどだった。日本人たちが言うには、爆心地から0・5〜1マイル(0・8〜1・6キロ)以内では外にいた誰もがやけどで死亡した。だが、これは事実ではないと思われる。工場にいた連合国の捕虜のほとんどはやけどを負わずに逃げ出しており、約4分の1がやけどを負ったに過ぎないからだ。いずれにしても明白なのは、8月9日の午前11時2分に、多くは思いがけない火にとらわれ、その火は半時間燃え続けたということだ。
不幸なくじを引いたために治っていない人々には、原爆の威力の不思議なオーラが表れている。彼らは、現在は連合軍収容所の司令官であるオランダ人軍医のヤコブ・ビンク大尉が「疾病X(エックス)」と呼ぶものの犠牲となっているのだ。
ビンク氏は病院で布団の上の女性を示した。女性は、病院の医師、コガ・ヒコデロウ氏とハヤシダ・ウラジ氏によると、まだ運び込まれたばかりだという。被爆地帯から命からがら逃げたが生活のため舞い戻っていた。小さなかかとのやけど以外は、ここ3週間は何ともなかったが、今は破傷風患者のように黒い唇を閉ざしたままうめき、明確な言葉を話すことはできない状態だった。足や腕には小さな赤い斑点が所々にあった。
彼女のそばにいる15歳の少し太った少女にも同じできものがあり、赤く小さく、先端が血で固まっていた。さらに少し先には、1〜8歳の4人の子と一緒に横たわっている寡婦がいたが、下の子2人は部分的に髪の毛がなくなっていた。彼らは誰もやけどは負っていなかったし、骨折もしていなかったが、原爆の犠牲者と思われた。
ハヤシダ医師は頭を振り、三菱工場の周りの土地が汚染されているという米国のラジオ報道のような、何かがあるに違いないと語った。だが、続く言葉は、その考えの支えを奪い去るものだった。寡婦の家族は爆発以降、破壊された地域にはいなかったし、同じ症状はその地域に戻った人々にも同様にみられたからだ。(左面に続く)
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◇取材制限、検閲も 放射能の脅威、否定に躍起−−当時の米軍
米国は旧日本軍による真珠湾攻撃から間もない1941年12月19日、当時のルーズベルト大統領が検閲局を設置、新聞やラジオ、電報や郵便などの検閲を開始した。
原爆に関する情報は、高度な国家機密として特に厳重に管理された。原爆開発・製造のマンハッタン計画の責任者だったレスリー・グローブズ少将は、ニューメキシコ州で45年7月に行われた史上初の核実験「トリニテティー」の際、周辺住民への事前警告や退避を求める科学者らの進言を拒否。実験直後には「(原爆の)すべてを秘密にしなければならない」と語った(ロバート・J・リフトン、グレッグ・ミッチェル著「アメリカの中のヒロシマ」)とされる。
日本の無条件降伏を受け、トルーマン大統領は戦時検閲の終了を発表。しかし、GHQのマッカーサー最高司令官は、米戦艦ミズーリ号上での日本の降伏文書調印式(9月2日)などの取材に来ていた連合国記者の広島、長崎入りを制限した。
GHQの規制を振り切って同月3日、外国人記者として初めて広島入りしたのは、オーストラリアのウィルフレッド・バーチェット記者。「投下時はけがのなかった人々が、30日後の今も原爆病で死亡している」と、放射能の人体への影響を示唆する記事を執筆。検閲を通さなかったため、英国のデーリー・エクスプレス紙が掲載できた。
一方、米軍が組織した「プレスツアー」(派遣記者団)で、米紙ニューヨーク・タイムズのW・H・ローレンス記者らも3日に広島入りした。同記者は5日に掲載された記事で「毎日100人が死んでいる」と報じ、放射線障害の症状を指摘する日本人医師の言葉を紹介している。だが「B29と原子爆弾の発明を通じ、米国の工学的・科学的天才が達成した成果の最終的な証明がここにある」とも書き、米軍への配慮もにじませた。
同記者は9日に長崎にも入った。だが、10日付の記事では、捕虜だったオランダ人軍医の発言を引用して「残留放射能が住民に影響を与えているかは疑わしい」と報道、日本側による「プロパガンダ」の可能性を強く指摘した。また、同紙の科学記者は「放射能が広島や長崎で住民の命を奪うとの日本側の宣伝は誤りだ」との記事を書いている。
ウェラー記者が外国人記者として初めて長崎に入ったのは9月6日。原爆被害に関する対立する意見が出始めたころだった。ウェラー記者のルポが公開されていれば、バーチェット記者の記事と合わせて原爆に関する国際世論に大きな影響を与えた可能性が高い。
そして、その後も米軍は放射能の影響に関する報道を抑えようと躍起になる。米戦略爆撃調査団(USSBS)のダニエル・マクガバン元中尉(95)は、原爆投下直後の広島、長崎を映像で記録した。それは、政府により「トップシークレット」とされ、公開を禁じられた。
マクガバン氏は今「米政府は原爆が人間の生活にどんなに破壊的な影響を及ぼすのかを国民と世界中の人に知らせたくなかったのだ」と話す。
◇投下正当化で批判断つ
しかし、米政府の監視にもかかわらず、その後も原爆の人的被害に関する報道は続いた。米誌「ニューヨーカー」に掲載されたジョン・ハーシー氏の「ヒロシマ」(46年8月)は等身大の人間としての被爆者の苦しみを克明に描き、全米で大きな反響を呼んだ。
こうした状況を懸念した米政府は、スティムソン元陸軍長官名で米誌「ハーパーズ・マガジン」に論文を発表、「原爆投下によって戦争終結が早まり、連合国側でも日本側でも多数の人命が救われることになった」との公式見解を改めて示した。「原爆投下決断の内幕」などの著作のある米メリーランド大のガー・アルペロビッツ教授は、この論文が批判を沈黙させ、原爆正当化に大きな役割を果たしたと分析する。
「歴史の検閲 日本、ドイツ、米国の市民と記憶」の編者のニューヨーク州立大のマーク・セルデン教授は「当時も、今も、米国の力を象徴するきのこ雲の物語ばかりが語られ、広島の壊滅や、死者の物語が語られることは少ない」と言う。【和田浩明、國枝すみれ】
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◇今こそ核廃絶考える材料に−−広島市立大広島平和研究所長・浅井基文さん
「幻の長崎原爆ルポ」が持つ意味を、現在の核状況も踏まえた視点から、浅井基文・広島市立大広島平和研究所長(国際関係論)に聞いた。【牧野宏美】
−−原稿が伝えるものは。
◆米国は当初、原爆の熱と爆風によってほとんどの人間は一瞬に死んでしまう、と主張していた。しかし、実態は違った。ルポは、その放射能による大量殺りくという地獄のような状況を克明に記している。
ウェラー記者の視点の変化も興味深い。原稿は「長崎への投下は妥当だった」と米国政府の宣伝を真に受けた記述で始まるが、その後、放射能による被害の実態を見て気持ちが揺れていく様子がうかがえる。
−−当時掲載されていたら。
◆原爆開発者、一般の人々にも大変なショックを与え、米国世論も国際的な核に対する意識も変わっていただろう。被爆者の早期治療を求める声も高まっていたはずだ。これが封印された結果、原爆傷害調査委員会(ABCC)の「観察するが治療はせず」の姿勢に示される通り、米国は原爆投下による人体的な反応のみに関心を持ってきた。
−−核拡散防止条約(NPT)再検討会議の後退など、60年後の現在の核状況にとっての意味は。
◆米国の核に対する考え方は、開発当初から変わっていない。特にブッシュ政権は小型核兵器の開発など、本気で「使える核兵器」の導入を考えている。今は、2010年のNPT再検討会議に向けて、核廃絶への取り組みを再構築すべき時期であり、その意味でも、この原稿の発見が広く世界に考える材料を与えるきっかけになることを望む。
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■ことば
◇原爆傷害調査委員会(ABCC)
原爆の放射線が人体に及ぼす長期的な影響調査などを目的にトルーマン米大統領の指示で設立され、米国原子力委員会の予算で、47年から広島・長崎で調査を開始した。「被爆者をモルモット扱いしている」「データを核利用推進に使っている」などの批判が強かった。75年、日米が運営費を負担する公益法人「放射線影響研究所」に改組された。
毎日新聞 2005年6月17日 東京朝刊
<あの日を今に問う>
◇1945年9月、長崎にて−−ジョージ・ウェラー
◆1日10人が死ぬ。休息させるほか手を打てない。「第2の死因」は医師たちを当惑させている。
(右面から続く)
医師たちによると、後になって症状が表れた患者らは爆発から1カ月たった今も、1日約10人の割合で死亡しているという。3人の医師はこの疾病にとまどい、休息させる以外に何の治療も与えていないと静かに話した。
【9月9日長崎】福岡からきょう病院に到着した放射線治療の専門家、ナカシマ・ヨシサダ医師は「患者たちは原爆がもたらしたガンマ線か中性子線に苦しんでいる」と述べた。
「症状はみな共通している」と同医師はいう。「白血球が減り、舌が収縮し、嘔吐(おうと)や下痢があり、皮下出血している。これらの症状は、レントゲンを浴びすぎた時に起きるものだ。また、被爆した子供たちの毛が抜け落ちている。レントゲンが髪が抜ける作用をもたらすことを考えれば理解できる」
第二救急病院では、ササキ・ヨシタカ中佐が「343人の患者のうち200人が死んだ。あと50人は亡くなるだろう」と話した。原爆投下後1週間でひどいやけどを負った患者は亡くなった。しかしこの病院は、被爆の1〜2週間後に患者を受け入れている。従って、本当に悲惨な患者や死者は病院の外にいるのだ。
ナカシマ医師は検視の結果、患者の死因を二つに大別した。最初の死因が全体の6割を占める。
最初の死因の外面的な特徴は、髪が抜け落ち、全身に斑点ができ、唇がただれ、出血のない下痢が生じ、のどの喉頭蓋(こうとうがい)と咽頭(いんとう)後が腫れる。普通500万ある赤血球は2分の1から3分の1に減り、白血球は7000〜8000から300〜500へとほとんど消滅。熱も40度まで上がり、下がらない。
最初の死因において、検視が示す内部症状は、血の詰まった腸だ。ナカシマ医師は死の数時間前にこうした症状が出ると考えている。胃にも血が満ち、骨髄にもクモ膜にも血が散在している。
ナカシマ医師は「最初の死因では、原爆の放射線は、エックス線を浴びすぎて生じたやけどのように死をもたらす可能性がある」と考える。
しかし、第2の死因は同医師を当惑させている。患者たちは軽いやけどの症状を示すが、2週間のうちによくなる。彼らが普通のやけど患者と違うのは、高熱があることだ。皮膚の3分の1がやけどに覆われていても、熱がなければ回復する。しかし2週間以内に熱が出れば、やけどは突如治らなくなり、症状は悪化する。まるで敗血症のような症状を呈する。
しかし患者たちは、エックス線照射によるやけどの患者と違って、さほど苦しまない。そして彼らは4〜5日後に悪化し、亡くなる。彼らの血管はやけどで死んだ患者ほど細くなく、死後に調べると臓器も正常だ。しかし彼らは死ぬのだ。原爆が原因で。ただ、誰も正確な理由が分からない。
9月11日に25人の米国人が長崎の被爆地を調べにやってくる。日本人は彼らが有効な治療策を持ってくると期待している。=英文の全文はMDN(http://mdn.mainichi.co.jp/)、訳文はMSN毎日インタラクティブ(http://www.mainichi-msn.co.jp/)に掲載しています
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アンソニー・ウェラー氏は父ウェラー記者の原稿と写真を毎日新聞を通じて初めて公表することに同意し、日本での版権などをタトル・モリ エイジェンシー(東京都千代田区神田神保町)に委託しました。
“A NAGASAKI REPORT”by George Weller Copyright(C)2005 by Anthony Weller.All rights reserved.Published with permission of Anthony Weller,Gloucester,Massachusetts through Dunow&Carlson Literary Agency,New York via Tuttle‐Mori Agency,Inc.,Tokyo.
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◇ウェラー記者、軍の目盗み潜入−−記事差し止め「GHQ、権利なし」
故ジョージ・ウェラー記者は1945年9月6日、外国人記者の立ち入りが禁止されていた長崎に一番乗りした。発見された原稿や後年に書かれたエッセー、息子へのインタビューを通じて浮かび上がってきたのは、原爆の真実に肉薄しようとする記者の姿だった。【ロサンゼルス國枝すみれ】
戦艦ミズーリ号での日本の降伏文書調印(45年9月2日)を取材したウェラー記者は、なんとしても原爆被災地に潜入しようと決意。このときGHQは西日本全域で外国人記者の立ち入りを禁止しており、唯一、取材が許された場所は鹿児島県の特攻隊基地だった。ウェラー記者は米軍の目を盗んでモーターボートで基地を抜け出し、列車を乗り継いで6日、長崎に入った。
ウェラー記者は、記者証を隠し、大佐を名乗った。危険を承知で、がれきとなった長崎の町を歩き回った。後に「(被爆は)血小板が減少し、出血が止まらずに死に至る緩慢な死だ。このことをどうしても伝えたかった」と話している。
無許可で長崎に潜入したウェラー記者だが、GHQに原稿を提出。90年にラジオインタビューに応え、「戦争は終わっている。マッカーサーに記事を止める権利はない。こんな重要な原稿を止めることができるのか。私はマッカーサーに責任を突きつけた」と話した。
原稿は結局、戻らなかった。ウェラー記者は84年に書いた短い手記で、「原爆投下から何年もたつのに、なぜ世界は焼死した犠牲者しか知らないのか。マッカーサーは、放射線の人への影響という重要な教訓を、検閲によって歴史から消し去ろうとした」と書いている。
息子のアンソニー・ウェラーさん(47)によれば、ウェラー記者は戦場特派員として太平洋戦争を4年間取材し、「検閲はプロパガンダのひとつの形態」と嫌悪。「戦争で最初に犠牲になるのは真実」との言葉をよく口にしていた。
ウェラー記者は常に「この戦争とは何か、どこに行くのか、米国は戦争で何を得るのか」と質問した。こうした質問に答えなかったマッカーサーを、ウェラー記者は「英雄になりたかっただけの男」と表現した。ウェラー記者は原稿没収の理由を「原爆が戦争の勝因とみなされることに対するマッカーサーのしっと」と推測していた。
また、湾岸危機・戦争(90〜91年)の際には、記者たちが政府や軍の規制に挑戦する気持ちを失ったとみて、「パチパチと写真だけを撮る記者になり下がった」と怒った。アンソニーさんは「父が生きていたら、メディアが米軍の応援団の役割を果たしたイラク戦争報道には批判的だったに違いない」と語っている。
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◇原爆報道、プレスコードで激減 GHQ、日本での言論統制−−文学作品、医学論文も
45年9月初め、GHQは日本での言論を統制する民間検閲支隊(CCD)司令部を設置、降伏文書調印翌日の3日にはメディアへの検閲を始めた。目的は、日本人の連合国軍に対する反感を抑え、占領政策を安全に展開すること。原爆に関しては特に厳重な検閲が行われた。
「米国には、軍事機密としての核を独占することと、核兵器の非人道性を隠すことの両方の意図があった。単なる占領政策でなく米国政府自体の意思が働いていた」。当時の原爆情報統制を研究する広島市立大広島平和研究所助手の高橋博子研究員は語る。
敗戦直後、国内各紙は、広島・長崎での放射能被害を報じ、原爆批判を行った。しかし9月6日、マンハッタン計画副責任者のファーレル准将が、東京での会見で「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬において放射線のために苦しんでいるものはいない」と、放射能による健康被害を否定。さらに検閲基準を定めた「日本新聞紙法」「日本出版法」(総称・プレスコード)が発布されると、原爆報道は激減する。
プレスコードは10項目からなり、被爆実態の報道は「占領軍へのおん念を招く」などの理由で差し止められた。広島原爆資料館の高野和彦副館長は「こうした検閲が被爆者援護の訴えや核廃絶の声を抑えつけることにつながった」と話す。
CCDは、新聞、雑誌のほか同人誌、ポスターも検閲。対象は報道にとどまらず、文学作品にも及んだ。
広島で被爆した詩人、栗原貞子さん(今年3月死去)の46年の詩集「黒い卵」は、多くの削除指示を受け、私家版として発行された。75年に米国の検閲資料の中から元のゲラが見つかり、完全版が出版されたのは83年のことだった。
医学研究も例外ではなかった。広島医学専門学校(現広島大医学部)の玉川忠太教授は、被爆犠牲者の解剖で得た肝臓などの病理標本を自宅に保管していた。「進駐軍がそれを全部持っていってしまった、と玉川先生が怒っていたのを覚えている」と振り返るのは横路謙次郎・広島大名誉教授。当時は医学生として玉川教授の手伝いをしていた。日本人医師による被害調査に関する医学論文は、原爆症に関する部分が削除され、米国に持ち去られた研究論文や標本などは73年まで返還されなかった。
長崎原爆でひん死の重傷を負いながら、数多くの被爆者の治療にあたった医師の永井隆氏が書いてベストセラーになった「長崎の鐘」。この本も、プレスコードにかかり、出版されたのは49年1月。脱稿から2年5カ月後だった。
ただ、クリスチャンの立場で「原爆落下は神の摂理」と述べているうえ、GHQが許可した初版本は、原爆は旧日本軍が行った残虐行為の報復とする「マニラの悲劇」を特別付録とする条件だったこともあり、占領政策に利用された、との指摘もある。【井田純、立石信夫】
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◇放射線、医者に知識無く 治療不能「つらかった」−−広島で自らも被爆、元陸軍軍医・肥田舜太郎さん
発見された原稿にある被爆者の症状について、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)原爆被爆者中央相談所理事長、肥田舜太郎(しゅんたろう)さん(88)=さいたま市在住=に聞いた。肥田さんは陸軍軍医として勤務中に広島で被爆し、直後から現在に至るまで被爆者の治療・相談にあたり、核兵器廃絶運動にも取り組んでいる。【西川拓】
やけどをした人というのは直接、原爆のせん光を浴びたのだろう。下痢、嘔吐(おうと)、高熱、赤い斑点は放射線による急性症状で、広島で同じような患者をたくさん診た。白血球が極端に減るので、体のいたるところに細菌感染、炎症が起きて敗血症になり、口内が腐敗して1週間後ごろから頭髪がごっそり抜け落ちる。
記者は医学の専門家ではないため不正確な表現はあるが、原稿にある症状で私の経験と違うものはない。鼻と口、目尻から出血し、吐血や下血も始まり、何の病気かさっぱり分からなかった。当時も今も、医学は病名がつかないと治療ができない。記事の中に「(医師は)休息させることしかできなかった」とあるが、広島でも同じで、これが一番つらかった。
記者が見たのは、被爆から1カ月後だが、このころは後から被爆地に入ってきて(残留放射能で)被ばくした患者も多かったのではないか。広島でも後から救援や肉親捜しに入ってきた人が、下痢や嘔吐などの症状で倒れ、徐々に衰弱して亡くなった。
当時、医師の間で伝染病ではないかと話した。しかし、解剖してみると、チフスや赤痢とは違う。人が多量の放射線を浴びるとどうなるか、一般の医者に知識はなかった。
やけどもない人がしばらくたってから倒れ、亡くなる。しかも、それが半年たっても収まらないため、「これは大変なことだ」と思った。これは、ちりなどに付いて体内に入った放射性物質による内部被ばくだった。「ぶらぶら病」と言われ、30年以上後でも患者が出たが、今でも病名はない。
この原稿が世に出なかったのは、核兵器が一瞬に大量の人を殺すだけでなく、じわじわと人を殺し続けるのだということを米国が隠したかったからだろう。
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毎日新聞 2005年6月17日 東京朝刊
◇核への嫌悪感生んだ/兵器開発競争に一石−−専門家に聞く
故ジョージ・ウェラー記者の原稿が当時、公表されていたら、どうだったろうか。米国の検閲制度に詳しい専門家などの間では、「米国で核規制の声が強まっていたはず」との意見が強い。【和田浩明、國枝すみれ、立石信夫】
「アメリカの中のヒロシマ」の著者で心理学者のロバート・J・リフトン氏(79)は、原稿が掲載されていれば、「核兵器が人類に及ぼす危険性を広く世界の人々に認識させることに役立っただろう」と話した。
同氏によれば、検閲は原爆が人類に与えた影響を長い間覆い隠すことに「成功」し、米国では核兵器の危険性に対する「心理的なまひ状態」が広がることになったという。
その結果、今も米国では「原爆投下は戦争に勝つために必要だった」という正当化論と原爆の非人間性を問う意見が対立。95年に国立スミソニアン航空宇宙博物館が企画した原爆展は、米議会や軍人会の圧力で中止に追い込まれたほどだ。
連合国軍総司令部(GHQ)が記事掲載を許可しなかった理由について、リフトン氏は、ウェラー記者が指摘した放射能の人体への影響ではないかと推測。「米指導者たちは、放射能が核兵器の印象を決定し、市民の間に核兵器への嫌悪感を引き起こすことを恐れていた」とみる。
また、GHQによる原爆報道規制を研究するスウェーデン・ルンド大のモニカ・ブラウ氏は「投下の前後に、原爆の本当の意味が報道されていれば、原爆に対する恐怖を多くの人が抱き、少なくとも核兵器の規制を求める声は大きくなっていたと思う」と話した。
元長崎大学長でNGO「核兵器廃絶ナガサキ市民会議」共同代表の土山秀夫さん(80)は、ウェラー記者の原稿について、「原爆の放射線障害に焦点を当てた、客観的で冷静なルポ」と評価したうえで、「当時発表されていれば、米軍すらも無知だった核の脅威について米国民の関心を呼び起こし、核開発競争に一石を投じたことは間違いない」と語る。
また、検閲(プレスコード)の目的について、「被爆地以外の人が原爆の悲惨さを知れば占領政策に不都合が出ると考えたのだろう」と分析する。
土山さんは「アフガニスタンやイラクでの戦争でも米国は徹底した報道管制を敷いており、(イラクの)劣化ウラン弾の障害についても因果関係を認めようとしないなど政策に都合の悪いことを伏せる本質は変わっていない」と批判。さらに核軍縮が進まず、核拡散防止条約(NPT)が暗礁に乗り上げた状況を踏まえ、「今こそ、原点に返って被爆の実相を伝える再出発の年とすべきだ。その意味でも原稿が発見された意義は大きい」と語る。
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■ことば
◇GHQによる検閲
占領政策の一環として、1945年9月から日本の新聞、雑誌などが事前検閲を受け、原爆による放射能被害など連合国側に都合の悪い内容が公表を差し止められた。また終戦直後は、原爆が投下された西日本での外国人記者の自由な取材が禁じられ、米国に送る原稿も検閲の対象となった。
毎日新聞 2005年6月17日 東京朝刊
◇「原爆ルポ」阻んだ検閲、手法を変えイラクで
被爆地・長崎の惨状を取材した故ジョージ・ウェラー記者の原稿の公表を阻んだのは、当時の連合国軍総司令部(GHQ)の検閲制度だった。米政府が不利な事実を隠し、国内外の世論をコントロールするための戦争報道の規制。それは60年後の今も、手法を変えながら生き残っている。
◇世論に神経とがらせ−−「ベトナム」「湾岸」曲折経て
「我が国の大新聞中2紙は、昨年3月以来、米軍の拘束者について計80回以上も社説を掲載したが、その多くは誤った断定を繰り返している」
ラムズフェルド米国防長官は今月1日の定例会見の冒頭、名指しを避けながらもメディアを批判した。米兵による拘束者虐待事件が起きたイラク・アブグレイブ刑務所や、虐待疑惑がくすぶるグアンタナモ米海軍基地(キューバ)の報道に対して、ブッシュ政権のいら立ちを象徴する発言だった。巨額の戦費を要し、米兵の死傷者が1万4000人を超えるイラクでの戦いを続けるには、国民の支持が不可欠だ。「人権無視の米軍」の印象を与える虐待事件の報道に神経をとがらせざるを得ない。
米政府は過去の戦争で、検閲や報道機関への要請などを通じ、世論統制を図ってきた。第二次大戦中は検閲局を設置し報道や郵便を一元的に統制。この時期の検閲に詳しいユタ州立大のマイケル・スウィーニー準教授によると、メディアはおおむね積極的に協力したという。違反すれば、スパイ防止法で訴追される可能性もあったからだ。
こうした体制は、ベトナム戦争では大幅に緩和された。同戦争を取材した米ジャーナリスト、ロバート・ホーディヤーン氏は「基本的には行きたい所に行き、兵士や将校らへの取材も自由だった。移動手段も軍が提供した」と語る。だが、この「開放政策」は裏目に出た。戦場のせい惨さを明るみに出した報道で反戦世論が全米に広がった。
このため湾岸戦争(91年)で米軍は「作戦行動に支障が出ないように」との名目で少人数の代表取材(プール取材)を採用。作戦地域での行動制限だけでなく記事の事前チェックまで求めたため、メディア側の不満が強く、「見えない戦争」とも呼ばれた。
03年のイラク戦争では、積極的な情報提供をうたい文句に、米軍部隊と寝食を共にして取材する「エンベッド」(埋め込み)方式により600人以上の従軍記者を受け入れた。しかし事実上の検閲は続き、死亡米兵の遺体が戻る米軍基地(デラウェア州)の取材禁止などの措置も取られた。
こうした情報統制について、カンボジアのポル・ポト政権(75〜79年)の混乱を描きピュリツァー賞を受賞した元ニューヨーク・タイムズ記者、シドニー・シャンバーグ氏は「国民の支持確保に成功しているとは言えない」と指摘。だが一方で、同氏は「有権者が戦争政策について妥当な判断をできる材料を、米メディアが十分に提供しているとは言えない。もっと政府と対峙(たいじ)する姿勢を示すべきだ」とメディアの姿勢をも批判した。【ワシントン和田浩明】
◇送稿も軍事回線…「宣伝役」の側面−−従軍取材の毎日新聞記者
03年のイラク戦争で「エンベッド」取材の従軍記者として、ペルシャ湾に展開した米空母キティホークに乗艦したが、検閲や情報統制は日常的に存在していた。紙面化された記事は英訳され、翌朝には広報担当者の手元にコピーが届いた。空爆に従事するパイロットへの広報担当者を同伴しない取材は禁じられ、士官用食堂での雑談内容を無断で記事に使ったとの理由で、「次回は下船させる」と警告されたメディアもあった。
こうした「事後」検閲だけでなく、空母の防衛態勢を管轄する戦闘司令室への取材では、当局がデジタルカメラの撮影画像をチェックし、場合によっては消去を命令する「事前」検閲もあった。
記者は、通信衛星回線を使った艦内のメール送受信システムを利用し、共用パソコンから記事や写真を送った。本社との情報交換にもメールを使用した。こうしたやり取りもチェックされていた可能性がある。
また、従軍記者は実名報道を義務付けられ、情報源を秘匿できないとの取材原則(総則)は乗員側にも周知されていた。当局に都合の悪い情報のリークをけん制する意図もあったと思われる。
米軍の動きを直接取材し、戦況を伝える上で極めて限られた機会なので従軍した。だが、制約が多い中、当局が提供する取材の場を利用せざるを得ない。開戦前のガスマスク装着訓練の記事は、実際には存在しなかった化学兵器の脅威を強調する効果をもたらしたはずだ。
横須賀を母港とするキティホークには複数の日本メディアが「配属」された。新聞やテレビへの登場機会を増やし、日本に家族を残す乗員の士気高揚につなげる狙いがうかがえた。戦場の現実を伝えるという本来の責務とは別に、「国際的な反戦世論の中での戦争遂行」という米国の国益に沿った「宣伝役」として使われた側面も否定できない。【井上卓弥】
毎日新聞 2005年6月17日 東京朝刊
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