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長崎原爆ルポ:ジョージ・ウェラー記者原稿和訳(Mainichi)
http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/905.html
投稿者 ネオファイト 日時 2005 年 6 月 17 日 21:57:12: ihQQ4EJsQUa/w

(回答先: 長崎原爆ルポ:波紋広がる 「60年の空白」に怒り(Mainichi) 投稿者 ネオファイト 日時 2005 年 6 月 17 日 21:41:42)

[ジョージ・ウェラー記者原稿1-3は、2005年6月17日 3時00分 付、4は 2005年6月17日 3時20分 付で配信]

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040167000c.html
 【9月8日長崎】原子爆弾は無差別に使用可能な兵器として分類されるかもしれないが、長崎への投下は選別された妥当なもので、これほどの巨大な威力が予想されていたにしては十分慈悲深いものだった。

 次に述べることは、廃墟を取材するために初めて訪れた記者の結論であり、詳細に調べたものだが、この戦争による荒地の検証はまだ不完全だ。

 長崎はその大きさと形から大雑把に言ってマンハッタンと似ており、南北に入り江がある。

 ニュージャージーとマンハッタン側に相当する場所には、三菱と川浪家が所有する巨大な軍需工場が立ち並んでいる。

 従業員約2万人がいた川浪造船所は、バッテリー・パークとエリス島に相当する港の入口の両側に建っている。ここは爆発の現場から約5マイル(約8キロ)の地点。原爆投下前に襲撃したB−29は造船所破壊に失敗し、ほとんど無傷のままだ。

 ハドソン川のように両岸に埠頭のある長崎港を上って行くと、奥に向かうにつれ両岸の幅が狭くなっていく。川の両岸に長く立ち並ぶ工場はすべて三菱のもので、その工場の向こうには、手に取るような近さに美しい緑の丘がある。

 川浪の工場から2マイル(3・2キロ)離れたジャージー側に当たる左側には、三菱の造船所とモーター工場があり、それぞれ2万人と8000人を雇用している。この造船所は原爆投下前の空襲で損害を受けたが、被害は大きくはない。モーター工場は被害を受けていない。ここは原爆の爆心地から3マイル(4・8キロ)で、修復可能だ。

 港が250フィート(76メートル)の幅に狭まるのは、高さ1500フィート(457メートル)だった原爆爆発地点から2マイル(3・2キロ)にある浦上川で、原爆の威力の跡をこの付近から確認することができる。この地区は長崎の中心街の北に位置し、建物はところどころ破壊されているが、ほぼ正常な状態だ。

 鉄道はプラットフォームを除いて破壊されているが、既に営業をしている。普段は破壊された浦上谷への玄関口と言えるところだ。南北に平行して、両岸に三菱の工場がある浦上川が流れ、町から鉄道と幹線道路が走る。線路沿いには住宅地と鉄やコンクリートの工場が密集し2マイル(3・2キロ)にわたって広がっている。その中に落下した原爆は両側を完全に破壊し、住民の半数を直撃した。判明している死者数は2万人で、日本の警察は推定約4000人が行方不明と語った。

 日本の役人の見積もりによると、負傷者数は死者数の約2倍になるとみられるが、死者数がこれほど多い理由には二つの要素がある。一つは三菱の空襲シェルター(防空壕)がまったく機能せず、一般市民のシェルターも遠く離れて限られていたこと。二番目は、日本の空襲警戒警報システムがまったく機能しなかったことだ。

 私は三菱社がシェルターにしていた谷の岩壁にある短くて粗雑な6つのトンネルを調べた。また、私は込み入った鉄の桁とカールした屋根のメーン工場を通り抜けて、厚さ4インチのコンクリートのシェルターを見たが、数の上ではまったく不十分だった。事務職員が働いていたサイレンが上に備え付けられた灰色のコンクリート製の建物にだけ、強固な地下シェルターがあったが、PREVIO(建築資材か)のようなものは皆無だった。

 2機のB29が現れる4時間前の朝7時、通常の空襲警報が鳴ったが、従業員やほとんどの住民は無視した。警察は原爆投下2分前にも警報が鳴ったと主張しているが、ほとんどの人は何も聞かなかったと言っている。

 誇張された話を排除し、証言を検証していくと、原爆はすさまじいものであるという印象が増して行く。しかし、特別な兵器ではない。日本人は米国のラジオから、地面には極めて有害な放射能が残っているという説明を聞いている。ただ、肉の腐敗臭がいまだに強烈な廃墟の只中を数時間歩くと、記者も吐き気をもよおすが、やけどや衰弱の兆候はない。

 この爆弾が、これまでよりせん光が広がり強力な破壊力を持っていることを除いて、ここ長崎では誰もまだ、この爆弾が他のどの爆弾とも異なるという証拠は見つからない。

 三菱の工場の周辺には危害を与えたくなかっただろうが、一帯は廃墟となっている。記者は、長崎医療研究所病院にあるひと気のない15の建物で1時間近くを費やした。がれきでいっぱいのホールにはネズミ以外は何もいない。谷と浦上川の反対側には、「Chin Jei」と呼ばれるコンクリート製3階建てのアメリカン・ミッション・カレッジがあるが、ほとんど破壊されている。

 日本の複数の当局者は、米国の爆弾によって焼け野原となった地域は、伝統的にキリスト教カトリック信者の日本人が住んでいたと指摘した。

 しかし、こうした地域や、装甲板製造工場の隣に日本人が設置した連合軍捕虜収容所に被害を与えないことは、1016人の労働者の大部分が連合軍捕虜だった三菱の船体部品工場、また、隣接する1750人の従業員がいた砲架工場にも被害を与えないことになっただろう。浦上川の両岸にあり通常3400人が雇用され、あの日は2500人がいた3つの鉄の鋳物工場にも被害を与えないことになっただろう。さらに今は焼け野原となっている多くの下請け工場に被害を与えないことは、原爆が炸裂した場所にもっとも近く、7500人を雇用していた三菱の魚雷と弾薬の工場を手付かずに残すことを意味したであろう。

 これらすべての工場は今日、叩き潰されている。しかし、死の兵器工場の中に工作員が忍び込んだとしても、手で原爆を綿密に仕掛けることはできなかっただろう。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040168000c.html
 【9月8日長崎】三菱の兵器工場の骨組みが曲がったりぺしゃんこになっている様子は、鉄や石に対しての原爆の威力がどのようなものだったかを示している。だが、長崎郊外の二つの病院では、炸裂した原子が人間の肉体や骨に対してどのような力を持っているかは、明らかにならないままだった。爆心地から3マイル(4・8キロ)離れた、攻撃された米領事館の正面壁や、爆心地から別方向に1マイル離れたカトリック教会の壁を見てもしょうが入り菓子パンのように崩壊していた。飛び散った原子はすべてを突き抜ける勢いだった。

 運良く被害から逃れた人々は、壊れず残った長崎で最大級の2病院で小さな家族部屋に座っていた。彼らの肩や腕、顔は包帯に包まれていた。

 降服後、初めて長崎に入った米国人外部者の私に、プロパガンダを意識した案内役の役人は明らかに意味ありげに顔をのぞき込み「どう思うか」を知りたがった。この問いかけが意味するのはこうだ。「あなたは米国人が日本にこの兵器を放つことによって行った非人間的な行為を伝えるつもりがあるのか。それが私たちの書いてもらいたいことなのだ」−−と。

 やけどを負っていたり、やけどを負ってはいないが髪の毛の一部がはがれ落ちた何人かの子供たちが、母と座っていた。前日には日本人写真家が彼らの写真をたくさん撮っていった。およそ5人に1人は体中に包帯を巻いていたが、だれも痛そうには見えなかった。

 何人かの大人たちは痛みの中、布団に横たわり、低いうめき声を上げていた。ある女性は夫の世話をしながら、目を涙で曇らせていた。あわれな光景だったため、同行の役人は、そこから立ち去るべきかどうか見極めようと、私が同情を禁じえないかどうか表情を密かに探った。

 多くの担架を訪ね、2人の一般医と1人の放射線専門家と長時間の話をし、多くの情報と被害者たちの意見を得た。統計というにはまばらで、記録もほとんどないが、この主要な市営病院に今週までに原爆患者が約750人いたが、約360人が死亡したということは確かだ。

 死亡原因の約7割は通常のやけどだった。日本人たちが言うには、爆心地から0・5〜1マイル(0・8〜1・6キロ)以内で外にいた誰もがやけどで死亡した。だが、これは事実ではないと思われる。工場にいた連合国の捕虜のほとんどはやけどを負わずに逃げ出しており、わずか約4分の1がやけどを負ったに過ぎないからだ。いずれにしても明白なのは、8月9日の午前11時2分に、多くは思いがけない火にとらわれ、その火は半時間燃え続けたということだ。

 だが、重いやけどを負った患者が死亡した今、軽症患者のほとんどは急速に治癒している。不幸なくじを引いたがために治っていない人々には、原爆の威力の不思議なオーラが現れている。彼らは、現在は長崎港の入り口にある第14収容所の連合国司令官であるオランダ人軍医のヤコブ・ビンク大尉が「疾病」と呼ぶものの犠牲になっているのだ。ヴィンク氏自身は、三菱工場の装甲板部門に隣接する連合軍捕虜の食堂にいて天井が崩れ落ちたものの、多くの連合国側捕虜や日本人市民が患った、この不思議な「疾病X(エックス)」からは免れていた。

 ビンク氏は病院で黄色い布団の上にいる女性を示した。女性は、病院の医師であるコガ・ヒコデロウ氏とハヤシダ・ウラジ氏によると、まだ運び込まれたばかりだという。被爆地帯から命からがら逃げたが生活のため舞い戻っていた。小さなかかとのやけど以外は、ここ3週間は何ともなかったが、今は破傷風患者のように黒い唇を閉ざしたままうめき、明確な言葉を話すことはできない状態だった。彼女の足や腕には小さな赤い斑点が所々にあった。

 彼女のそばにいる15歳の少し太った女児にも同じできものがあり、できものは赤く小さく先端は血で固まっていた。さらに少し先には、1〜8歳の子4人と一緒に横たわっている寡婦がおり、下の2人の子は部分的に髪の毛がなくなっていた。彼らは誰もやけどは負っていなかったし、骨折もしていなかったが、原爆の犠牲者と思われた。

 ハヤシダ博士はものうげに頭を振り、三菱工場の周りの土地が汚染されているという米国のラジオ報道のような、何かがあるに違いないと語った。だが、続く言葉は、その考えの支えを奪い去るものだった。寡婦の家族は爆発以降、破壊された地域にはいなかったし、同じ症状は、その地域に戻った人々にも同様にみられたからだ。

 日本人医師たちによると、後になって症状が現れた患者らは爆発から1カ月たった今も、1日約10人の割合で死亡しているという。この3人の医師たちは、この疾病にはとまどうばかりで、休息させる以外に何の治療も与えていないと静かに話した。米国からのラジオのうわさは、この症状に対する同様な考えを嗅ぎ取ったものだった。患者たちは、治療のためにできものをなめてもらっていが、それほど心配している様子はなかった。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040169000c.html
【9月8日長崎】モザイク状に分解された歴史の断片が、解放された連合軍兵士たちによって明らかにされている。彼らは解放後も日本の最南端の島、九州の収容所に残され、救済されないままでいる。ウォルター・クルーガー将軍の陸軍部隊の到着を待っている間、収容兵士たちは厳しく支配してきた日本軍将校から、卑屈な敬礼を受けている。他の地区の収容者と情報交換する中で、この戦争中に何があったのかがヤミの中から浮かび上がってきた。

 原爆が投下されるまで三菱軍需工場の中にあった第14収容所は、長崎港の西側入り口へと移った。ここでは機関士のエドワード・マシュー、エベレット・ワシントンや、アメリカの駆逐艦「ポープ」に会うことができる。どのようにしてポープが巡洋艦「ヒューストン」を率い、8隻の巡洋艦と無数の駆逐艦を擁する日本軍相手にスンダ海峡の戦いに臨んだか…。

 「我々は朝7時に初めて日本軍を認識し、敵は午前8時半に攻撃を開始した。我々は午後2時まで持ちこたえたが、日本の偵察機が船尾付近に爆弾を落とし、我々の船が沈んでいくのを観察、日本の駆逐艦も見ていた。快晴の日だった。日本軍は我々兵士が海中にいるのを3日間放置した。24人乗りの救助艇と救命いかだに154人がしがみついていた。彼らが我々をすくい上げ、マカッサルに連れて行かれた時には、我々は気が狂いそうになっていた」。

 北九州・門司港近くの戸畑にある第3収容所からは3人の収容者が来ていた。彼らは3年間の耐え難い監禁生活後に開かれた道の誘惑に駆られ、原爆投下の結果を見るため長崎にやって来た。

 メリーランド州ノースイースト出身のチャールズ・コリンズは「巡洋艦ヒューストンはスンダ海峡の東側、あるいはジャワ側でつかまった。バンタン湾の近くだった。348人が救助されたが、全員散り散りとなった」という。

 シカゴ生まれのイリノイ州プレーン出身、マイルズ・マーンケは健康そうに見えたが、本来の体重215パウンドから160パウンドまで落としていた。「俺はバターンの死の行進にいた。それがどういうことか分かるだろう」と話した。

 潜水艦射撃手のアルバート・ルップは、フィラデルフィアのベルモント・アベニュー920番に住んでいる。「我々はペナンから450マイル離れたところで2隻の日本の貨物船を追跡していた。偵察機が爆弾を投下して、操舵室に当たった。我々は海底にいたが、もう一回爆弾を落とされて浮上した。最終的に潜水艦を沈めるしかなかった。42人の乗員のうち39人は助かった」という。もう一人、潜水艦にいたのは、ウィリアム・カニングハムだ。ニューヨークはブロンクスのウェブスター・アベニュー4225番に住んでいる。彼はルップと一緒に日本南部の旅行を始めた。

 日本の将校や警備兵が姿を消してしまった収容所から放浪してきた別の4人組は、オハイオ州ジュネーブのアルバート・ジョンソン▽カンザス州バンブーレンのハーシェル・ラングストン▽テキサス州ミュールシューのモーリス・ケロッグ。全員がオイルタンカー「コネチカット」の乗員で、テキサス州ワグザハチー出身のウォルター・アランと一緒に日本を旅している。アランは北京の中国北部警備隊から来たのんきな海軍人だ。

 オイルタンカー乗員の3人は彼らを捕虜にしたドイツ軍部隊長の言葉が気に入っていた。隊長は「前回の戦争で君たちアメリカ人はドイツ人を日本に閉じこめた。今回は我々ドイツ人がアメリカ人を日本に連れて行く。そうすれば君たちにも同じ薬の味が分かるだろう」と言ったのだった。

 九州には約1万人の囚人がいる。日本全体にいるうちの約3分の1だ。日本人らしい全く無秩序なやり方で囚人たちはごっちゃにされ、記録もなかった。

 長崎湾の入り江そばにある第2収容所には、英国の巡洋艦「エクセター」の生き残り68人がいた。エクセターは日本の艦隊を排除するためジャワ海で闘い、沈没した。8インチ砲が喫水線を貫通したのだ。その時の戦闘でやはりスンダ海峡近くで沈没した英国の駆逐艦「ストロングホールド」の生き残り計9人のうち5人もいた。また、沈没した駆逐艦「エンカウンター」の乗員100人のうち14人の英国兵と、ほとんどがジャワやシンガポールから来た英国空軍62人もいた。

 1942年2月27日の夜11時、324のオランダの巡洋艦のうち、「ジャワ」と「デ・ルイター」が沈没した。駆逐艦や潜水艦によってではなく、日本軍が自慢していた巡洋艦からの魚雷攻撃の攻撃に遭ったのだ。

 ジャワ海の戦闘で、やはり夜間の魚雷攻撃にあった駆逐艦「クールトネール」のオランダ人将校もいた。

 頑強なテキサス州フレデリックスバーク出身のレイモンド・ウェスト伍長は、ジャワが陥落する前のスラバヤ郊外で、第131野戦砲兵隊がどのように日本軍に6時間にわたって75インチ砲を浴びせ続けたかを話した。死者は700人に上った。

 記者の部隊についての熱心な問いに、ウェスト伍長は、450人の隊員がジャワ西部に連行され、その後この極東の地で散り散りとなった。彼らは長崎に送られ、ほとんどが第9収容所に移されたと話した。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040171000c.html
【9月9日長崎】原爆がもたらす特異な「疾病」は、医師による診断が下されないため、処方も治療もされず、ここ長崎で多くの人々の命を奪っている。目立った外傷のない男女や子供が次々、病院で死んでいく。何人かは、退院を望みながら病院の中を3〜4週間も歩き回った末に。

 医師は近代的な知識を身につけているが、日本が降伏してから初めて被爆地入りした記者に話す時は、この病は彼らの手におえないと率直に告白している。患者たちはけがはないまま、次々と息を引き取って行く。

 福岡からきょう病院に到着した放射線治療の専門家、高齢のナカシマ・ヨシサダ医師は「患者たちは原爆がもたらしたガンマ線か中性子線に苦しんでいる」と述べた。

 「症状はみな共通している」と同医師はいう。「白血球が減り、舌が収縮し、嘔吐や下痢があり、皮下出血している。これらの症状はレントゲンを浴びすぎた時に起きるものだ。また、被爆した子供たちの毛が抜け落ちている。レントゲンが数日後に髪が抜ける作用をもたらすことを考えれば理解できる」。

 ナカシマ医師は、居住地に戻った被爆者たちが地面から致死量の放射線を浴びている可能性があると主張し、政府に「被爆地を立ち入り禁止にすべき」と要請する一般の科医とは異なった見解をもっている。彼は「地面からの事後作用は無視してよいと考える。直ぐに電位計で測るべきだ」と話している。

 かつて日本の戦争捕虜で、現在は連合軍収容所の下で働いているオランダ人のヤコブ・ビンク医師は、白血球を増やす作用のある薬を試すべきだと主張した。

 第二救急病院では、ササキ・ヨシタカ中佐が「343人の患者のうち200人が死んだ。あと50人は亡くなるだろうと思う」と話した。

 原爆投下後1週間で、ひどいやけどを負った患者は亡くなった。しかしこの病院は、被爆の1〜2週間後に患者を受け入れるのだ。従って、本当に悲惨な患者や死者は、病院の外にいるのだ。

 ナカシマ医師は検視の結果、やけどのような症状を示す患者たちの死因を二つに大別した。最初の死因が全体の6割を占め残りが4割を占める。

 最初の死因の外面的な特徴は、髪が抜け落ち、はしかのように全身に湿しんができ、唇がただれ、血便のない下痢が生じ、のどの喉頭蓋と咽頭後が腫れ、血球の数が減る。普通500万ある赤血球は2分の1から3分の1に減り、白血球は7000〜8000から300〜500へとほとんど消滅する。熱も40度まで上がり、下がらない。

 最初の死因において、検視が示す内部症状は、血の詰まった腸だ。ナカシマ医師は死の数時間前に、こうした症状が出ると考えている。胃にも血が満ち、腸間膜炎が生じる。骨髄とクモ膜にも血が散在し、脳はなんら影響を受けないものの、やはり血が散在する。腸も充血するが、それほどひどくはない。

 ナカシマ医師は「最初の死因では、原爆の放射線は、エックス線を浴びすぎて生じたやけどのように死をもたらす可能性がある」と考える。

 しかし、第二の死因は同医師を当惑させている。患者たちは軽いやけどの症状を示すが、2週間のうちによくなる。彼らが普通のやけど患者と違うのは、高熱があることだ。皮膚の3分の1がやけどに覆われていても、熱がなければ回復する。しかし2週間以内に熱が出れば、やけどは突如治らなくなり、症状は悪化する。まるで敗血症のような症状を呈する。

 しかし患者たちは、エックス線照射によるやけどの患者と違って、さほど苦しまない。そして彼らは4〜5日後に悪化し、亡くなる。

 彼らの血管は、やけどで死んだ者ほど細くなく、死後に調べると臓器も正常だ。しかし彼らは死ぬのだ。原爆が原因で。ただ、誰も正確な理由がわからない。

 9月11日に、米国人25人が長崎の被爆地を調べにやって来る。日本人は彼らが「疾病X」に対する有効な治療策を持って来ると期待している。
毎日新聞 2005年6月17日 3時00分

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