現在地 HOME > Ψ空耳の丘Ψ39 > 623.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: JMM [Japan Mail Media] 「傭兵と祖国」 冷泉彰彦 投稿者 愚民党 日時 2005 年 5 月 14 日 21:19:12)
たけ(tk)思うに、
現代の立憲国家が多国籍企業によって破壊されていく状況と、
昔の律令国家が荘園によって破壊されていった状況とは似ているのである。
どちらも、権力装置の抜け穴を通して増殖する治外法権の経済的実体なのである。
そして、それが軍事力ももちはじめる。
すると、旧権力装置の側からもそれを利用するようになり、
最終的には旧権力装置は崩壊していくのである。
----
http://ja.wikipedia.org/wiki/武士
武官と武士の違い
一般に「武芸に通じ、戦闘を職業とする軍人、あるいは兵法家のこと」とされるが、それだけでは平安時代以前の律令体制下の「武官」との違いがはっきりしない。例えば、武人として名高い征夷大将軍の坂上田村麻呂は、すぐれた武官だが、武士とはいえない。また、中国や朝鮮の「武人」たちとの違いも見えてこない。中国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。 時代的にいえば、武士と言える存在は平安時代中期の10世紀に登場する。つまり、それ以前の武に従事した者は武官ではあるが武士ではないというわけである。
では、武官と武士の違いとは何か。
簡単にいえば、武官は官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在であるのに対して、武士は10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された「下級貴族」、「下級官人」、「有力者の家人」からなる人々であって律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。
また単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。この点が歴史学において十分解明されていなかった時期には武士を国家の統制外で私的に武装する暴力団的なものと見る見方もあった。ただし、武装集団である武士社会の行動原理に、現代社会ではヤクザなどの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。
軍事(武芸)や経理(算)、法務(明法)といった朝廷の行政機構を、律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「家」にアウトソーシングしていったのが平安時代の王朝国家体制であった。そして軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。
王朝国家体制では四位、五位どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を諸大夫(しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える六位どまりの技能官人や家人を侍(さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在京の清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に君臨する受領が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る17世紀初頭の日葡辞書に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して記載されていることにもその一端が現れている。
よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うより、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。
また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの英才教育で伝えられると共に、能力を見込んだ者を弟子や郎党にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。武士と公認される家もこのようにして増加していったと考えられる。
いわば、国家から免許を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。
----
▲このページのTOPへ HOME > Ψ空耳の丘Ψ39掲示板