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(回答先: 「軍事的国体論」を超える日本国憲法の先進性 投稿者 鷹眼乃見物 日時 2005 年 4 月 19 日 13:09:20)
鷹眼乃見物さん、ご無沙汰しております。
今回の投稿と、最近の2つのシリーズ(@【アーカイブの役割とは/真実の保存か、偽証の創作か?(1/3)】 http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/141.html、A【シリーズ「民主主義のガバナンス」を考える(1/4)】http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/299.html)における鷹眼乃見物さんの左翼・右翼に囚われないプレーンで地球的視座から眺望した見識にはいたく感服いたしておりました。何とかレスポンスしようと考えてはいたものの、自身の怠惰な性分が厄したのかなかなか纏まったものにできず今日に到ってしまいました。そこで、鷹眼乃見物さんの力作を短い文節で括ることは実に忍びないのですが、少しばかりコメントさせていただきたく存じます。
@に関しては、日本におけるアーカイブ事情の惨憺たる実態に日本人の歴史認識の浅薄さや脆弱さを思い知らされたような気がしました。筆者の提案にもありますが、アーカイブは明らかに文化活動であり、これからは民が担うべき課題と受けとめてきちんと進めていく必要があると痛感しました。
Aに関しては、地球や人類の行く末を睨みながら多次元的ガバナンスを信条とするEUのCorporatismの展開に米国の超国家主義的なUnilateralismを克服する可能性を展望しようとしたものであり、その基本となる現状認識は全く首肯できるものでした。米国のUnilateralismに追随したりあるいは抗うことを指向するのではなく、諸国民は連帯・連合のベクトルを保持しつつ独自の道を探ることが結局は自らを生かすことになると覚るべきだと再認識しました。
今回の投稿で鷹眼乃見物さんは日本国憲法を題材に世界における日本の役割を問われようとしたのだと受け取りました。それはまた、若しかすると日本(人)が人類の叡智の担い手となって民主主義の理想を顕現していくプロセスの端緒にもなり得るかも知れません。
しかしながら、鷹眼乃見物さんもご指摘のように日本(人)がそのような自覚に至るのは至難の業と言えるでしょう。つまり、日本(人)はフランス革命の市民のように民主主義の基材となる経験を有してはいません。戦後の民主主義は、多くの犠牲を払いながら苦労して解法の方向を掴もうとしている矢先に全くの先生(米国)の都合で問題の答えを与えられたような具合で、深い気づき(自覚)が伴うものではありません。
68年のパリ5月革命は革命の名に相応しいかどうか個人的には判断がつきかねています。けれども、少なくともドゴール体制の崩壊となるような政治問題化したのは事実でしょう。つまり、政変を招来した遠因の一つとしてフランス革命という市民的Pathosの顕在化の経験がフランス国民に承継され、それが単なる学生運動に終わらせずに政治運動へと進化させる駆動力となっていたのではないでしょうか。私は堺屋太一氏が名付けた所謂団塊の世代に属し、ある時は全共闘世代と隊列を組みながらまたある時は寄り添いながら生きて来た人間ですが、あの時代の状況認識を政治問題にまで深刻化できなかった原因を自問する習性は今でも続いています。
我々団塊の世代は己の身の不遇を嘆くのではなくて、鷹眼乃見物さんが提示されているような今日的問題の解決に向けて挑戦を開始すべきであると思いますし、私も同世代にたいし何らかの働きかけをしていきたいと考えています。また、より広汎な世代間の連携も必要でしょう。消費経済の進行していくなか、時代は限りなく浮付いた軽薄なものになっていくのは防ぎようがないのかも知れません。けれども、如何なる時代にあっても、それぞれの世代には思考停止に陥らずに絶えず思惟の対象化を己に課しながら状況認識(歴史認識)を図る人達は存在すると想いますし、鷹眼乃見物さんは確実にその一人です。それだけでも、私は心強く感じますし、先ずはより多くの人々がプレーンで地球的な視座に立って欲しいと願っています。
ところで、鷹眼乃見物さんの投稿や“レンブラントの眼”の論考に接しながら、人間のConatus(自己保存力)を如何なるモノあるいは力で受けとめるべきかといった問題に相変わらず拘っている自分を発見します。人間の歴史とは極粗っぽく言い表せばConatusと状況(環境)との関係性の変遷を綴ったものだと語ることができると想います。何故人間はConatusを有するかというと、人間行動学の観点を借りるならば、『人間の行動の目標はヒト以外の動物と変わりがなく、すなわち包括適応度の増加(同じ遺伝子型を共有する個体の繁殖)を追求することであり』、Conatusはその基本的駆動力と言えるでしょう。
さらに、私は人間あるいは生物の本性は寄生にあるのではないかと考えています。また、Symbiosis(共生)の関係にあるように見えても、また必ずしも双務的ではないが、概括的には生物の生態には互いに寄生し合っているというParasitism(寄生)の一面があり、そもそも環境にたいして独立自存自体が成立し難いのではないのでしょうか。そして、何故Parasitism(寄生)に傾くかと云うと、包括適応度の増加という戦略目標の観点からもそれに有効性且つ合理性(経済性)があるからです。おそらく、このことを逸早く自覚し、それに準じて、また最大限に活用しているのが支配層達(世界的な融資本家)とその下僕達(政治家や官僚)でしょう。それは日本も決して例外ではなく、寄生されている一般国民が知らないだけでかかる構造は日本国内にも既に出来上がってしまっているかも知れません。
話しがやや横道に逸れたようです。今後とも鷹眼乃見物さんの健筆に期待しています。
また、会いましょう。
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