★阿修羅♪ 現在地 HOME > Ψ空耳の丘Ψ39 > 227.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
正統科学、異端の科学、疑似科学ーーー物理学における理解とはーーー (神戸大学・松田 卓也氏)
http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/227.html
投稿者 乃依 日時 2005 年 3 月 17 日 02:32:31: YTmYN2QYOSlOI

http://nova.scitec.kobe-u.ac.jp/~matsuda/psudo/pseudo-science.html


正統科学、異端の科学、疑似科学
ーーー物理学における理解とはーーー

自然科学とくに物理学における理解とはどのようなものかを考えましょう。私はそれは三段階に分類できると考えています。具体的に言えば、啓蒙書的理解、公文式的理解、本質的理解です。つぎに、私の考える科学の3分類をお話しします。それは正統科学、異端の科学、疑似科学という分類です。科学を正しく理解しないために発生する疑似科学について具体例を挙げて話します。とくに相対性理論は誤っているという一連の主張について論証します。
物理学における理解の三段階


(一)啓蒙書的理解
 自然科学、とくに私が専門とする物理学を理解するとはどのようなものかを考えてみましょう。私はそれは三段階に分類できると考えています。具体的に言えば、啓蒙書的理解、公文式的理解、本質的理解です。それではその個々について説明しましょう。
 書店に行きますと、ブルーバックスに代表されるような、たくさんの科学啓蒙書があります。科学を専門としない素人、あるいは他分野の研究者にとって、そのような啓蒙書の存在はありがたいものです。私にとって特に影響があった本は、ガモフの「不思議の国のトムキンス・シリーズ」です。ガモフはロシア生まれのアメリカの物理学者、宇宙論学者です。原子核のアルファ崩壊理論でまず有名になりました。宇宙のビッグバン・モデルにおける元素生成の理論を発表した、現代宇宙論の父とも言うべき人です。
 トムキンス氏は物理学愛好の銀行員で、大学の市民講座に通っています。しかし教授が講演を始めるとすぐに眠くなり寝てしまいます。そして講演に沿った夢を見るのです。夢の中で、光速度が異常に小さい世界に紛れ込んだり、プランク定数が異常に大きい世界で虎狩りをしたりします。最後には教授の娘のアブシッサ(横軸という意味)と結婚してハッピーエンドで終わります。私は高校時代にこの本を読んで、物理学の楽しさの虜になったといってもよいでしょう。
 物理科学における啓蒙書の特徴は、数式を使わずに言葉で説明することです。大学の物理学の教科書をごらんになれば分かるように、それは数式だらけです。素人のみならず他分野の専門家でも、数式の羅列にはうんざりします。数式を見ただけで拒否反応を起こして読むのを止めることが多いでしょう。そこで啓蒙書の出版社は、できるだけ数式を省いて、言葉で説明することを著者に求めます。英国の著名な宇宙論学者ホーキングの伝記に次のような記述がありました。ホーキングが、後にミリオンセラーになった「ホーキング宇宙を語る」を執筆したときのことです。出版社はホーキングに「数式が一行入ると、読者数は半減する」という経験法則を示し、数式を用いないことを要求したそうです。実際、この本には数式は全然使われていません。
 物理学は基本的には数学の応用です。ですから数式を用いない物理学はありません。従って後に述べるように、物理学を理解するには、数式を用いることは必要です。数式なしで、言葉だけで物理学を理解させようとすると、どうしても「例え」を多用しなければなりません。物理学は自然界のモデル(おもちゃ)の研究をします。モデルの振る舞いを研究して、現実世界の解釈や予言をします。モデルがどれほど正しいかで、その理論の価値や役に立つ程度が決まります。ところが、「例え」というのは、さらにそのモデルなのです。つまり啓蒙書で語られるのは、自然界の「モデル」のさらに「モデル」なのです。
 出版社、著者の目的は、科学の成果を分かりやすく伝えることです。本当は、読者に分かったと思わせることです。それによって、読者に興味を持ってもらうことです。私が啓蒙書を書く目的の一つは、若い人たちをその分野に引きつけることです。実際、私の本を読んで興味をもって科学に進んだという後輩研究者の言葉ほど、私を喜ばせるものはありません。
 しかし、その「例え」をそのまま鵜呑みにするのは危険であることを認識しておく必要があります。つまり啓蒙書を読んで陥りやすい危険は、それだけですべてが分かったと誤解することです。これが後で言うところの「科学的疑似科学」の発生の温床になっています。実際、有名な疑似科学者K氏の本を読むと、たくさんの啓蒙書を読んでいることが推測できます。しかし正しくは理解していません。相対論とかビッグバン宇宙論が間違いであるという信念の元に読むのです。そして誤解します。その誤解した相対論なり宇宙論を攻撃しているのです。誤解だから間違っているのは当たり前のことなのです。

(二)公文式的理解
 ここで私のいう公文式的理解が必要になります。公文式とは数学を計算練習を基本にして理解するやり方です。公文式的理解とは、物理学を数式を使って理解するということです。先にも述べたように、物理学は本質的には数学の応用であり、数学の理解なくしては物理学を正しく理解することはできません。どんな物理学の教科書を見ても数式だらけです。それを数式なしで完全に理解するのは不可能であることは、だれにでも了解できるでしょう。数式というのも一つの言葉です。「百聞は一見にしかず」ともうしますように、「百言は一式にしかず」という状況はあるのです。
 大学へ入って物理学を学ぶと、数式との格闘になります。その数式を見て理解し、実際に演習問題を解いてみて、始めて物理学が分かったといえます。その意味で私は、この段階を公文式的理解とよぶのです。ピカソの絵は子供が描いたような絵で、誰でもかけそうに思います。しかしそんなことはありません。ピカソは若い頃にデッサンの徹底的な練習をしています。そのような基礎の上に立って、始めてあのような絵が描けるのです。基礎を経ずに描いた抽象画と、基礎を十分に積んだそれとは全く異なります。それはどんな分野でも同じ事なのです。ピアノなら猛烈な練習、スポーツでも激しい基礎練習が必要です。それと同様に、物理学においても数式という基礎練習なしに、本質を理解できるというのは、練習なしにピアノが弾けると思うのと同じ事です。

(三)本質的理解
 しかしながら、数式の変形をいかに学んだとしても、それだけで正しい理解に達することができるという保証はありません。特殊相対論においてローレンツ変換を学びます。一般相対論においてテンソル計算で添え字の上げ下げを学びます。これらを徹底的に練習すれば、試験ではよい点を取れるかもしれません。しかし、それだけで本質を理解したことにはならないのです。運動する物体の長さが縮むことは、ローレンツ変換の公式から明らかです。しかし、物体が縮むということの真の意味を理解することは、式だけではダメなのです。次の段階を私は本質的理解とよんでいますが、この段階では再び言葉とか直感がものをいいます。
 数式の場合で言うならば、数式の各項の意味がどのようなものかを言葉で表現できなければなりません。複雑な計算を行う場合、結果がどうなるか、どうなるべきかをあらかじめ推測することが必要です。これは直感的とか物理的な思考とよびます。そのような水先案内なしに、数式を解いて答えを探すことは、羅針盤なしに航海に乗り出すか、地図なしで旅するようなものです。
 数式の変形にとても強い科学者がいました。彼はそれに非常な自信がありました。一方私には、そのような強力な数学力はありません。しかし私は彼の出した結果を見て、何かおかしいと直感的に感じたのです。彼はそれなら間違いを数式で示せといいました。私には、彼の結果が誤っていることは明白に分かるのです。それは私の物理的直感です。しかし、その膨大な数式の変形の中で、彼の犯した誤りを見つけることは困難でした。この場合は幸いなことに当人が間違いを発見して事なきを得ました。もし私が発見していたら、メンツがつぶれて大変だったでしょう。こういった二人がコンビを組むことは、研究の上でお互いの利益になります。
 以上の話をまとめると、物理学の理解には三段階があり、それらは「言葉」、「数式」、「直感」で表されるものです。このいずれの段階を抜かしても、正しい理解には到達しないと私は言いたいのです。とくに啓蒙書の言葉だけの説明を読んで、数式は全く知らないで、物理理論を理解したと思ったり、あるいは誤っていると結論するのは、大きな間違いであるということを強調したいと思います。

科学の三分類
(一)正統科学
 正統科学とは、要するに普通の科学のことです。われわれ科学者が普通に営んでいる科学です。後に述べる疑似科学と区別するために、正統科学を私なりに定義してみましょう。私は現代の正統科学とは、科学的な方法論、科学的な作法、マナーに則って行われるものであると定義します。どういうことでしょうか。それはひとつには発表の方法にあると思います。
 科学者は研究して、一定の成果を得られるとそれを論文に書きます。そして「レフェリー」のある、いわゆる「権威ある学術雑誌」に投稿します。レフェリーは普通は、その分野の権威者や、その問題をよく知っている人から、雑誌の編集者によって選ばれます。匿名のレフェリーは、その論文が、間違っていないか、新しい知見があるか、発表する価値があるか、といった観点から評価します。そして、その論文が、そのまま発表できる、小修正すれば発表できる、発表するためには大きな修正を必要とする、他の雑誌に投稿すべき、発表の価値がない、などの結論を下します。レフェリーの数は一名ないし二名です。二名の場合、両者の意見が一致すればよいのですが、そうでない場合、編集者の要請で第三のレフェリーが任命されることもあります。
 このようなレフェリーの意見は論文の著者に返送されます。そのまま出版とか、小修正の場合は大した問題はないのですが、大修正とか出版の価値なしと認められた場合は、著者とレフェリーの論争になります。編集者が適切な判断を下す場合と、決定に全然タッチしない場合があります。著者はレフェリーの意見に納得できないときは、レフェリーの交代を要求したり、あるいは論文を取り下げて他の雑誌に投稿することもできます。
 このようにして、ともかくも世に出た論文は、世界の科学者に読まれます(ただし英語で論文が書かれている場合。)物理学の論文は普通は英文で書きます。このような論文をオリジナル論文と読んでいます。科学者の業績は、普通はオリジナル論文の数で計られます。世界の科学者に読まれますと言いましたが、これは必ずしも正しくありません。なぜなら、現代の世の中では科学論文の数は膨大で、自分の研究に忙しい科学者は、他人の論文をじっくり読んでいる暇がないのです。ですから正確なことを言えば、価値のある、面白い論文は読まれますが、あまり大したことのない論文はほとんど読まれないと言うのが実状でしょう。そこで科学者は自分の成果をアッピールするために、国内の学会や国際会議で口頭発表したり、ポスター発表したりもします。
 このようにして世に出た科学の成果は、もし間違っていれば批判されるか、無視されます。世の中の論文はレフェリーの判定を通っているのですから、必ず正しいかというとそんなことはありません。レフェリーも人の子、間違うことはざらです。ですから、論文の正しさとか価値は、雑誌に出たから保証されるものではなく、後世の評価に待つということでしょう。もしその研究が、意義のあるものであれば、他の研究者はその研究を改善したり、批判したりします。そのときに、その論文を引用します。通常、科学論文の価値は、この引用の多さで計られます。ですから科学者の評価は、論文数だけでなく、引用頻度の回数でも計られるのです。そのような検討の中で、正しい科学理論は世界の科学者の支持を集め、間違っているものは指摘され、無価値なものは無視されます。つまり科学の正しさとは、いってみれば科学者の多数決で決まっているのです。
 このようなレフェリー制度をピアーレビューといいます。同僚評価と訳されています。現代科学の方法論、マナーとは、まさにこの同僚評価制度にあるのです。同僚評価制度を通らないで、科学的主張をすると、科学者の間で正統な認知を得られません。疑似科学はこのシステムに乗っていないのです。相対論は間違っていると主張するG教授と論争したことがあります。G教授は自分の説を、日本の出版社から一種の啓蒙書として出版しました。それも何冊もです。啓蒙書ではその内容に対するチェックはありません。何でも著者の好きなことが書けるのです。また表だった批判はありません。あっても、それは科学雑誌に出るのではなく、やはり啓蒙書の類で出ます。実は、かくいう私も、G教授の説を、啓蒙科学雑誌「パリティ」で「相対論の正しい間違え方」と題して、事細かに批判しています。しかしこれは正統な科学のとる道ではありません。第三者がその論争に介在する正規の道筋がないために、言いっぱなしになるのです。さらにG教授の説は、英文で書かれていないために、世界の相対論の専門家の検証とか批判を経ることがないのです。これでは当人がいくら自分の説を正しいと言い張っても、検証の道を閉ざしているのです。
 ですからG教授の科学は、いわば裏科学、ヤミ科学と言うべきものです。私はこういった科学を「科学的疑似科学」と定義しているのです。「科学的」といったのは、UFO、超能力、超常現象などの疑似科学と区別するためです。ちなみにG教授は自分の専門では、れっきとした科学者で、英語の専門的な論文を、レフェリーのある雑誌に出しています。しかし、相対論は間違っているとする説だけは、絶対に英語論文として、レフェリーのある権威ある雑誌には出さないのです。私が何度強く要求してもです。
 相対性理論は20世紀の物理学において、量子論と並んで革命的な理論であり、現代物理学の柱なのです。後でも述べますように、その実験的検証はたくさんあり、その精度も驚くほど高いのです。また実用的応用もたくさんあります。ですから、その相対論が間違っていると言うことになると、20世紀の物理学が根底的に崩壊するのです。もちろんアインシュタインも人の子、相対論を支持するあまたの科学者も人の子です。ですから相対論とて万全ではないかもしれません。間違っていることが絶対にないと断言はできません。それならそれで、間違っているという主張が正しいなら、これは画期的な科学的成果であり、ノーベル賞は確実です。G教授は自分の理論に自信があるようですし、英語の論文も書けるようなのに、どうして英語の科学論文で自分の意見を世界の科学者に問わないのでしょう。どうして、日本のアマチュアの読者だけにうったえるのでしょう。
 さて次に同僚評価によって出版を拒否された論文が必ずしも無価値ではないという話をしましょう。

(二)異端の科学
 同僚評価が万全かというとそんなことはありません。レフェリーも人の子、間違いもします。たちが悪いレフェリーもいて、競争相手の論文の出版を拒否したり、遅らせたり、なかには内容を盗む人もいます。たとえレフェリーが善人の有能な人であったとしても間違いは起きます。それは論文の内容が画期的な場合にとくに起きます。
 トーマス・クーンの「パラダイム説」というのが流行りました。ここでいうパラダイムとは、科学者集団の暗黙の合意みたいなものです。もっと具体的には、その時代の定説です。有名な例としては天動説と地動説があります。ギリシャ時代にはアリストテレスの天動説が定説で、アリスタルコスの地動説は拒否されました。コペルニクス以後は事情が逆転しました。これがパラダイムの変化というものです。
 科学者はさまざまなパラダイムのもとで研究をしています。ですから投稿された論文がパラダイム、定説に反する場合には、拒否反応が起きてリジェクトされやすくなります。実際、ノーベル賞を取ったような画期的な論文が拒否された例はいくらでもあります。有名な例としては、フランスの天才数学者ガロアの画期的な論文が、当時の数学界の大御所のコーシー、フーリエなどに無視された例があります。レフェリーが間抜けなトンマでなくても、こういったことは起きるのです。実際、重要な新発見の論文を拒否して、後で正しいと分かって反省した有名な科学者の言葉があります。このような論文は短く書いて出せと。そうすればレフェリーも自分の信条と一致しなくても、見逃してやることはあります。
 科学における大きな進歩とは、かならず既存のパラダイムや定説を否定するところから起きます。したがって、偉いとはいえ凡人のレフェリーには当然のこととして、偉大な学者でもその革命性を理解できないことがあります。それは革命を巻き起こした当人すらそうなのです。たとえば光速度が一定であることを発見して、エーテルの存在を否定する羽目になったマイケルソンは、それでも終生、エーテルを追い求めました。光量子仮説を提案して量子論に重要な寄与をしたアインシュタインも、量子論は何かおかしいと終生、それを心底から信じることはできませんでした。
 それは時間が解決する問題です。画期的な説や発見は、だんだんと科学者の認知を得ていきます。ですから、定説に合わないからと言って、それだけで論文を拒否することは危険なことです。私は定説には合わないが、科学的訓練を受けた科学者が、科学的マナーで発表した研究を、異端の科学と読んでいます。異端の科学の論文は、非常に正しいか、非常に間違っているかのどちらかです。それに比べて、正統科学と私がよぶものに属する膨大な論文には、定説に乗って少しだけ新しいことを提案したか、定説を確認したかだけの論文が多いのです。
 私の専門とする宇宙物理学で異端の科学の例を挙げましょう。第一にノーベル賞物理学者のアルベンのプラズマ宇宙論があります。アルベンはプラズマ物理学、宇宙物理学の大家です。彼のとなえた宇宙論は、ビッグバン宇宙論と対立するもので、宇宙は等量の物質と反物質からなっているとするものです。私は修士論文の時に、アルベンの説に感動して博士課程も含めて3年間、徹底的にアルベンの宇宙論を研究し、否定的な結論を得ました。世界の宇宙論学者も、多くはアルベンの説を支持していません。宇宙論の観測によれば、観測される宇宙に大量の反物質がある証拠はありません。しかしビッグバンはなかったとする啓蒙書で、その著者はアルベンのプラズマ宇宙論を支持して、ビッグバン宇宙論を批判しています。どちらが正しいかどうかは、哲学ではなく観測が決めます。
 次の例はホイルの定常宇宙論です。ホイルは英国の著名な宇宙論学者で、これもビッグバン宇宙論と対立する定常宇宙論を提案し、1960年代に一大論争を巻き起こしました。しかし、その後の観測によって、定常宇宙論は否定されていきました。
 次の例はアメリカのアープによる、クエーサーの局所説です。アープは観測天文学の大家です。クエーサーとは星のように小さく見えるが、非常に大きな明るさで輝いている天体です。定説ではクエーサーは、数十億年といった非常に遠方の、つまり宇宙論的距離にある天体だとされています。それはクエーサーが示す赤方変位が非常に大きく、ハッブルの法則から距離を求めると、それらは宇宙論的距離にあることになります。それにたいしてアープはたくさんの天体写真を集め、そのなかにクエーサーと近傍の銀河につながり(例えば間をつなぐ橋)がある例を集めました。そしてクエーサーは、近傍にある銀河から放出された天体であるとする説を提案しました。アープは、その主張の仕方があまりに意固地であったためか、気の毒なことにアメリカの天文学界から干されてしまいました。彼は現在はドイツで研究をしています。
 これらの例は定説に反する説ですが、唱えた人たちは、きちんとした科学的訓練を受けた立派な科学者で、しかもその説は、レフェリーのある論文に掲載されて、世界中の科学者の検証を受けています。上記の例は現在でも多くの支持を集めていないので、多分間違いでしょう。しかし私が強調したいことは、これらは異端の科学とよぶべきで、疑似科学ではありません。

(三)疑似科学
 さて以上のように正統科学、異端の科学を定義してみると、それ以外が疑似科学と言うことになります。もっとも疑似科学といっても様々あります。有名なところはUFOの宇宙船説、超能力、超常現象、ミステリー・サークルなどがあります。これらには熱心な信者がいます。これらは疑似「科学」というよりは、むしろ一種の宗教、社会的現象です。
 このなかでもっとも強い信者がいるUFO、つまり未確認飛行物体が宇宙人の乗り物であるとする説について、一言言及しておきましょう。ほとんどの科学者、とくに天文学者はUFOが宇宙人の乗り物であるとする説に賛成していません。しかし、ということは天文学者たちは宇宙文明とか宇宙生命の存在を否定しているかというと、逆です。天文学者の国際組織である国際天文連合には、「宇宙生命分科会」があり、宇宙の生命や、知的生命、文明、それとの交信などの研究をしています。実際、宇宙知性との交信、いわゆるCETIの試みは60年代から連綿と続けられ、現在も続いています。いかに原始的な生命であれ、それが宇宙で発見されたとすると、人類史上に輝く大発見となるでしょう。いわんやそれが知的生命となると、科学上の影響にとどまらず、社会的、哲学的に大きな影響を人類社会に及ぼすはずです。その意味で、宇宙生命を探す試みは、天文学者にとって魅力あるものになっています。しかしそれでも、UFOが宇宙人の乗り物であるとは、天文学者は思っていません。
 ここで議論したいのは、実はそのような類の疑似科学ではなく、私が「科学的」と名付ける疑似科学です。その一つの代表に、アインシュタインの相対性理論は間違っているという主張があります。

相対論は間違っているとする疑似科学的主張

 この種の主張は今に始まったことではないし、日本に限った話でもありません。定説とか権威に反抗してみたいという気持ちは、気概のある人間なら持つのも当然でしょう。最近、日本で特徴的なことは、これらの主張をまとめた本が多数、それもかなり名の知られた出版社から出版されていることでしょう。そして書店の科学、物理学の書棚に展示されていることです。素人にとっては面白そうだし、しかも著者の一部は大学教授であったりして、権威もありそうです。これらの本をいわゆるトンデモ本、つまり著者の意図とは異なって楽しめる本、として認識して楽しむ分にはかまわないでしょう。しかし、物理学を始めようとする若者が、これらの誤った主張を真に受けてしまうことには問題があります。疑似科学批判の急先鋒に立っていた池内阪大教授(当時)のもとには、次のような手紙が来たといいます。「相対論は間違っているとので、そのようなことを税金でまかなわれている国立大学の教授が研究することはいかがなものか。」むしろ逆で、G教授の研究が税金でまかなわれていることの方が問題だと思うのですが。
 もちろん大学教授には研究の自由があるし、出版の自由もあります。問題は、その研究が本当に科学の名に値するかと言うことです。内容が必ずしも問題ではありません。正統科学の論文が正しいとは限らないし、価値あるものとも限りません。しかし、私が何度も強調しているように、正統科学とは科学的な手続きに乗っ取って行われた科学、つまり検証を可能にする科学です。表の科学です。疑似科学にはこの手続きが抜けているのです。裏科学、ヤミ科学です。もし相対論が間違っていると信ずるなら、ぜひ正規の手続きに乗った表の科学にして欲しいものです。
 それでは、相対論は間違いという人々は、具体的になにを主張しているのでしょうか。それは著者によって様々です。ここでいちいち例をあげるのも大変です。実は私は木下篤哉さんと共著で、丸善出版の「パリティ」という物理学の啓蒙雑誌において「相対論の正しい間違え方」と題して連載をしています。(1995年9月、11月、1996年5月、1999年5,6,7,8,9,10,11月号、ただし原稿執筆時点において)そのなかで、これらの説の間違いを具体的に指摘し、それをもとにして相対性理論の理解を深めるという趣旨で執筆しています。ですから具体例が知りたい方は、それを参照してください。
 とはいえ、それだけでは愛想がないので、少し疑似科学者の主張の例を挙げましょう。

「一般相対論は正しいが、特殊相対論は間違っている。」   
 この主張のなんとナンセンスなことでしょうか。一般相対論は特殊相対論の拡張です。一般相対論で重力の影響を無視した場合に、特殊相対論に帰着します。ですから、一般相対論が正しければ、特殊相対論が正しいのは自明なのです。一般相対論は、連星パルサーの重力波放出の観測と理論式の比較から、理論の精度が百兆分の一まで正しいとされています。これほど精度が高い物理理論はほかにありません。

私は特殊相対論の応用例として、高エネルギー加速器をあげます。そこでは電子や陽子が光の速さに近い速度で、円状のパイプの中を走っています。このように粒子が高速度の場合、特殊相対論的効果が顕著になり、それを考慮しないでは加速器の設計も運転もできません。そのことを私が言うとK氏は
「加速器はドーナツ状をしており、粒子は円運動という加速運動をしている。加速度運動に対しては、特殊相対論は適用できないので、この例をもって特殊相対論の証拠とすることはできない。」
 この主張も、アインシュタイン最初の論文で加速度運動を扱っていることを知れば、ナンセンスであることが一目瞭然です。先の論法で言えば、特殊相対論はニュートン力学の拡張です。特殊相対論で粒子速度が遅い極限がニュートン力学です。もしK氏のいうように、特殊相対論で加速度運動が扱えないなら、ニュートン力学でも扱えないはずです。そんなことは誰も言わないでしょう。

「光速度が一定であるとしたマイケルソン・モーレーの実験は間違いである。光速度は地球上から見れば、方向によって速度が異なるはずである。」
 この主張は、論理とか哲学の問題ではなく、実験で確かめられることです。19世紀に主流であったエーテル説に立ってみましょう。光はエーテルという媒体を伝わるとされています。もし太陽がエーテルに対して静止しているとすると、地球はエーテルの中を秒速三十キロメートルの速さで進みます。ですから光の速さを地球で測定すると、方向によって一万分の一の差が出るはずでした。ところがマイケルソンとモーレーの実験では、この差が見つかりませんでした。上記の主張は、この実験はそれ自体が間違いか、解釈に間違いがあり、光速度は方向によって異なるとするものです。
 マイケルソン・モーレーの実験は十九世紀になされたものですが、この種の実験は現在ではもっと精度良くなされています。ですから実験に間違いがあるはずはありません。光速度が一定である事実は、現在では物差しを決める上で決定的に重要なのです。パリにメートル原器というものがあり、昔は物差しの基準はこれでした。しかし現在では、光速度と原子時計で一メートルが定義されているのです。その精度は一万分の一どころの騒ぎではなく、十兆から百兆分の一の精度をもっています。つまり光速度が一定と言うことを仮定して、現代の度量衡は組み立てられているのです。光速度が一万分の一の大きさでふらついたのでは話になりません。もし光速度が一定でないとしたら、度量衡がガタガタになり、物理学だけにとどまらず、現代科学、技術すべてに影響が及ぶのです。それでも、光速度が一定でないと、大学教授が信ずるならば、それは啓蒙書ではなく、ぜひ英語の科学論文にして、全世界の科学者、技術者に警鐘を鳴らして欲しいものです。
 現代生活にだんだん、はいりこんできたカーナビというものがあります。これは米軍が打ち上げた24個のGPS衛星からの電波を元に、車の位置を決めるものです。GPS衛星には原子時計が搭載されていて、衛星を発した電波をカーナビが受け取ると、電波を発した時刻と受け取った時刻の差に光速度をかけて、衛星までの距離を出します。原理的には三つの衛星までの距離が分かると、カーナビの位置が決定されます。ですからここでは光速度が一定と言うことが重要な役割を果たしています。もし光速度が一万分の一もふらつくと、車の位置は二キロメートルもふらついて、カーナビは役に立ちません。GPSに積まれている原子時計は、高空を高速で運動しています。特殊相対論的効果のために、高速で運動する時計は遅れます。また高空にある時計は、一般相対論的効果により進みます。この二つの効果を合わせると、衛星上の原子時計は百億分の四だけ進みます。その効果はちゃんと取り入れてあるのです。疑似科学者がなんと言おうと、米軍は相対論の効果を知っていて、その補正をきちんとしているのです。このように相対論は、現代科学・技術を通して、日常生活にまで入り込んでいます。ですから疑似科学者たちが言うような、初歩的な意味で相対論が間違っていると言うことはありません。
 普遍の真理と思われたニュートン力学が、適用限界が明らかになり、量子論や相対論に取って代わられたように、相対論といえど絶対ではなく、適用限界があるでしょう。しかし、それを明らかにするには、単なる思いつきや哲学的信条ではなく、まずは徹底的に基礎訓練をした科学者が、得られた研究結果を世界の学者に公表することが必要です。このような科学者間の切磋琢磨の中からこそ、真理は生まれてくるでしょう。

戻る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > Ψ空耳の丘Ψ39掲示板



フォローアップ:


 

 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。