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を生かして、この怪物と蜜月になることを選んでいる。戦況は刻一刻と人類全体に配給されたが、しかし、全体として生まれた視覚の不均衡は明らかだった。配信される映像はアメリカ軍の提供ばかりで、イラク側で何が起こっているのか、劣化ウラン弾をはじめとした、アメリカの攻撃が人々の生活に何をもたらしたかについては、僕たちはほどんど知ることができないままに経過してしまっている。
こうしたアメリカ政府の、あるいはネオコンと呼ばれる新保守主義者たちの統制を過大評価して、「テレビメディアは世界世論を支配する手先である」との陰謀論が活字メディアから指摘されるようになっている。たしかに、注意深くテレビを観ていると、そうした製作者の「配慮」のようなものが見え隠れしている(気がする)。しかし、それでもテレビの支配者などはいないだろう。僕たちがいるだけである。日本のNHKやイギリスのBBC、フランスのORTFのような国家とつながりを持つ放送局は別として、視聴者を獲得し、広告主や出資者に提供するという経済構造から商業放送が免れられるものではない。
実際、アメリカ政府のメディア統制もこの構造の枠組みで行われている。ディーバー方式(レーガン大統領次席補佐官の名前に由来)と呼ばれる「パッケージされた情報」と「洪水のような情報」という政府からメディアへの情報提供方式は、視聴者を釘付けにする魅力的で潤沢な映像を、そのまま使えるような構成で常に配給するというものだ。これによって、各放送局は自前の取材をしなくなり、結果としてアメリカ政府に都合のよい映像だけが視聴者に届けられることになる。しかし、逆を言えば、視聴者がそれに満足していることを意味している。もし、視聴者が不満を言えば、放送局は独自の映像を探して砂漠へ出て行っただろう。やはり、報道姿勢を決定する最大のファクターは視聴者たちの欲求だったのだ。
なぜ、テレビは多様性の方角へ向かわないのだろうか。多チャンネル時代を迎ながら、どのチャンネルも同じ映像、同じコメントを繰り返し流しているのだろうか。それについて、僕は2つの理由があると感じている。
まず、視聴者が単純に刺激を求めているということだ。『マトリックス』が、あの哲学的問答というよりは、むしろ、薬莢を撒き散らしながらの壮絶な戦闘シーンを売りにして人気を集めたように、(現場にいないものにとって)戦争とは最大の娯楽である。戦争報道は僕たちのスペクタ