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黒船祭りと日米和親条約
伊豆下田では黒船の来航と日本の開国を記念して黒船祭りが毎年開催されており、下田最大のイベントとなっている。ペリー提督や幕府の武士に扮した一行が行進する黒船道中には、日米の音楽隊も参加する。アメリカの軍艦や海上自衛隊の護衛艦見学、日米和親条約調印式の再現劇、花火大会なども開催されるそうな。1853年のペリー来航後、鎖国・日本で最初に開港されたのがここ下田という。長崎からクレームがつきそうだが。
ペリー来航150周年記念の「よこすか開国祭」は8月1日に開幕し、横須賀市平成町のうみかぜ公園で行われた開会式には、ペリー生誕の米国東部ニューポート市の関係者や、那覇市長、呉市長、佐世保市長、舞鶴市長も駆け付け、祭りムードで賑わったそうな。
7月18日にロードアイランド州ニューポート市で開催された「黒船祭り」の開会式典は、ニューポート市トゥーロ公園に建つペリー提督の銅像の前で取り行われたそうである。台座には、日米和親条約締結の様子がレリーフに描かれているという。米国側からはロードアイランド州知事やニューポート市長、ニューポート海軍基地司令官などが出席し、日本側からは加藤良三日本国駐米大使、西林在ボストン総領事、石井下田市長、井出日本国海上自衛隊“せとぎり”艦長などが出席して盛大に行われたそうな。下田市は1958年以来ニューポート市と姉妹都市の間柄。それでも日本の護衛艦の参加は初めてだそうな。
150年前に戻ろう。1853年に四隻の黒船で江戸湾浦賀沖に来航したペリーの砲艦外交によって翌年締結させられたのが名は体を表さない「日米和親条約」である。これが不平等条約であったことは多くの史家によって語られているが、これが悪しき先例となって、江戸幕府末期の日本が次々と類似の不平等条約を西欧諸国から押し付けられ、その中にはスイスも含まれるという事実となるとそれを語る史家は少なくなる。
更に、米国との不平等条約は1911年まで50年近く続き、開国後の明治政府を大いに苦しめたことが書かれた書物は大変少ない。1905年に日露戦争終結の労を取ってポーツマス条約を成立させた米国が、その後6年にわたって対日不平等条約を継続していた事実と米国の鉄道実業家が日露和解の見返りとしてか満州鉄道の経営権を得ようとした事、小村寿太郎の反対でそれが実現しなかったとなると、米国の反応は日本人移民排斥などの運動に繋がっていった事などを関連づけて解説した書物は見たことがない。
一方、英国は他国に先駆けて1894年に日英通商航海条約という不平等条約を改正した。その事もあって、1902年には日英同盟が成立した。日英同盟が日露戦争での日本の勝利に決定的役割を果たした。
日英同盟の頃、同様な日米同盟は可能だったろうか? 多分、それはなかったであろう。米国の基本的戦略といわれるオレンジ計画が最終的に決定したのは1924年であった。その時でも米国は英国をも仮想敵国として想定していたのである。英米の関係が鉄壁であった時期は歴史上、短期間でしかない。米国の世界覇権を憂うるのはアラブ諸国だけではない。
そして今、平和日本はペリーの来航を毎年お祭りでお祝いしているのである。
小生は25年間を海外で過ごしたが、日本人ほど心の広い人種を知らない。日本の開国がペリーの動機はともあれ、振り返った見て日本に喜ばしいことであった事に異論はない。しかし、こうしたお祭りを喧伝するのに、「日米和親条約は不平等条約であったが、結果的に日本の開国に寄与したペリーの来航を感謝と共にお祝いしたい」位のセリフをつけないと諸外国に馬鹿にされるのではないかと心配するのは、海外生活が長すぎて、狭量な精神になってしまった小生の為せるところであろうか。
赤堀 篤良