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(回答先: : 投稿者 転載ですけど 日時 2004 年 11 月 28 日 01:00:21)
> :
>http://www.asyura2.com/0411/war63/msg/1029.html
>投稿者 転載ですけど 日時 2004 年 11 月 28 日 01:00:21:TnAxpoe4/Pakk
>→ワヤクチャさん。
>お久しぶりです。
「お久しぶりです」ですか?
あなたは「餃子異性改革」さんなんしょうか?
それとも、「香田さんの『すみません』の意味が誰か分かりますか?」
とおっしゃった方でしょうか?
>その後、運動としての香田理論は、発掘・復元・構築・展開されたでしょうか。
いや、できておりません。
香田さんは、「真実が知りたい。」という事の為に危険を顧みずに行った勇気ある人
だと思います。
この意味で私は脱帽します。
日本の中で沸き起こった「香田さんバッシング」を私は批判したいと思っております。
「国策の足を引っ張った。」という批判などに対して批判したいと思います。
この点については後ほど書きたいと思います。
>貴方は誠実で、該博で、論理的・持続的な方ですが、集団主義的側面が変わる可能性は>生涯において低いように思えます。
私が誰か分かるのですか?
集団主義的側面とは?
自覚は無いのですが。
>たぶん、変えるというのは貴方の過去、キャリアを否定することなのだと思います。
それは私は恐れません。
むしろ自分の過去を自己批判したいとさえ思います。
>したがって今回、申し訳ありませんが貴方との議論は、お断り致します。
了解しました。
残念ですが。
議論したく無い人に何を言っても同じですので。
しかし、それは、私を捨てる事を意味するという事だけは分かっておいて欲しいです。
対話の拒絶は存在の否定だからです。
>私見として、多数化を志される方は、少なくとも多数化するまで対話を必要とするのでしょうが、個別化のほうは、対話の切断というものを、方法として温存できると思っております。
そして、誰にも相手にされなくなる。
「解らなければ。いいや。」となるわけですね。
相手が解らないのは自分の論理が間違っているからかも知れないとはつゆほども
考え無い。
幸せな方ですね。
>逆に言えば、多くの多数化運動のうち、特に対話を強調する運動の場合、いざ多数化し>てしまうと対話が形骸化するのではないかという一貫性のリスクを憂慮いたします。
形骸化したら、内部からさらなる批判が出てくるだけです。
これは無限の過程です。
これぞ理論戦線における「永久革命論」と思っております。
>もしも対話が、ひとえに多数化のための対話であるなら、不利な状況を打開するため>>に、多数化領域(参画を説得する対象フィールド)や多数領域(少数党や多数化領域へ>の緩和施策を説得する対象フィールド)に向けて対話しようとしているということにな>るのでしょう。
多数化が目的としてまず初めにあるのではありません。
真理だと思われる認識があり、
その認識が世間ではまだあまり知られていないという状況があり、
宣伝を通じて、その認識を広めるという過程があるだけです。
>恐らくは、多数化できないから、そういった政策的対話が固定的に可能なだけなのだと>思います。
固定的というのはまずいですね。
>そもそも多数化運動や全員化運動には、それぞれ字義通り(過半数・満場)への、具体>的には政権(主導権・覇権)奪取という、絶対に実現しなければならない形式目標があ>るはずですから、極端な言い方をすれば「長き運動=永き不完全状態」ということにな>りましょうし、その圧力が活力に転じる逆境型の運動でもあるでしょう。
しかし、多数派になれない原因の分析も必要です。
例えば自衛隊を撤退させるのに自衛隊の身の安全を訴えるという事が
多数派戦略の上で必要です。
>そういう絶望的逆境に打ち克って、希望を育むような逆境型素質のある人材、増数要員>が多数化領域の多数を占めているとは到底思えず、たとえば庶民的であることで人を呼>ぶには、元々インスタントな性向の、勝ち馬に乗りがちなパーソナリティを意識する必>要があるかもしれません。
そういう事はあるかも知れませんねえ。
>この場合には「運動=ストレス」ともなりえましょうから、本質が被虐的であるという>印象は拭い去れない事実でもあるのでしょう。
そうなんですかなねえ。
解りません。
>個別化運動の場合、個別において個別化を実践する運動という含意を認めるならば、改>善・協働への増員運動である場合にも、個別化運動は「運動過程=位相」でしょうか>>ら、集客活動において限りなく不完全状態を引き伸ばしてゆくような忸怩たるべき外観>は免れそうです。
よく解りません。
>それでも多数化運動に在っては、停滞それ自体が反多数化のアドたるにも関わらず、不>明・不名誉を敵方の卑劣へと帰着させ、転嫁することで多数化に好ましからざる内外の>思い、すなわち困惑や疑念を払拭することは、あるいは致命的に無反省でありながら>>も、結果をこそ問う多数化運動の局面の戦略としては適うのでしょう。
ちょっと、意味が解りません。
>たしかに現状の悲惨に際し、自生的な結集力に促されてであれ、ときには即効性な成果>をあげうる多数化の動きに対し、個別化運動側からの共存・依存・期待までを否めるも>のではないかもしれませんが、そうした成果も、時代相をマクロスパンで捉えることが>許されるなら、個別化の総量を抑制していることに変わりはないと思います。もとより>個別化の減少というものは数の横暴を自在たらしめる雰囲気と一つである、との立場を>採っているつもりですので。
解りません。
>むろん価値観の裏を返せば、そうした楽しみなり、熟練「対話=多数化」技能者の職>>域、居場所といったもの、いうなれば充たされうる心身(自己同一性)の置き場なりに>は欠けるということかもしれませんね。
解りません。
>(なお、このレスは、予め用意してあったものです)
もう少し解り易く、ご説明をお願いしたいですな。
多数化と個別化という対立概念は妥当でしょうか?
あなたはひょっとして「あっしらさん」ですか?
「普遍的だから尊重する」という事と
「個別的だから尊重する」という事は
共に「同じ人間なんだから」という条件の上に展開されている論理である
という話の続きなんでしょうか?
済みません。
元スレッドを見ずに書き出してしまったもので。
見ますわ。