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→ワヤクチャさん。
お久しぶりです。
その後、運動としての香田理論は、発掘・復元・構築・展開されたでしょうか。
貴方は誠実で、該博で、論理的・持続的な方ですが、集団主義的側面が変わる可能性は生涯において低いように思えます。たぶん、変えるというのは貴方の過去、キャリアを否定することなのだと思います。したがって今回、申し訳ありませんが貴方との議論は、お断り致します。
私見として、多数化を志される方は、少なくとも多数化するまで対話を必要とするのでしょうが、個別化のほうは、対話の切断というものを、方法として温存できると思っております。
逆に言えば、多くの多数化運動のうち、特に対話を強調する運動の場合、いざ多数化してしまうと対話が形骸化するのではないかという一貫性のリスクを憂慮いたします。
もしも対話が、ひとえに多数化のための対話であるなら、不利な状況を打開するために、多数化領域(参画を説得する対象フィールド)や多数領域(少数党や多数化領域への緩和施策を説得する対象フィールド)に向けて対話しようとしているということになるのでしょう。恐らくは、多数化できないから、そういった政策的対話が固定的に可能なだけなのだと思います。
そもそも多数化運動や全員化運動には、それぞれ字義通り(過半数・満場)への、具体的には政権(主導権・覇権)奪取という、絶対に実現しなければならない形式目標があるはずですから、極端な言い方をすれば「長き運動=永き不完全状態」ということになりましょうし、その圧力が活力に転じる逆境型の運動でもあるでしょう。
そういう絶望的逆境に打ち克って、希望を育むような逆境型素質のある人材、増数要員が多数化領域の多数を占めているとは到底思えず、たとえば庶民的であることで人を呼ぶには、元々インスタントな性向の、勝ち馬に乗りがちなパーソナリティを意識する必要があるかもしれません。
この場合には「運動=ストレス」ともなりえましょうから、本質が被虐的であるという印象は拭い去れない事実でもあるのでしょう。
個別化運動の場合、個別において個別化を実践する運動という含意を認めるならば、改善・協働への増員運動である場合にも、個別化運動は「運動過程=位相」でしょうから、集客活動において限りなく不完全状態を引き伸ばしてゆくような忸怩たるべき外観は免れそうです。
それでも多数化運動に在っては、停滞それ自体が反多数化のアドたるにも関わらず、不明・不名誉を敵方の卑劣へと帰着させ、転嫁することで多数化に好ましからざる内外の思い、すなわち困惑や疑念を払拭することは、あるいは致命的に無反省でありながらも、結果をこそ問う多数化運動の局面の戦略としては適うのでしょう。
たしかに現状の悲惨に際し、自生的な結集力に促されてであれ、ときには即効性な成果をあげうる多数化の動きに対し、個別化運動側からの共存・依存・期待までを否めるものではないかもしれませんが、そうした成果も、時代相をマクロスパンで捉えることが許されるなら、個別化の総量を抑制していることに変わりはないと思います。もとより個別化の減少というものは数の横暴を自在たらしめる雰囲気と一つである、との立場を採っているつもりですので。
むろん価値観の裏を返せば、そうした楽しみなり、熟練「対話=多数化」技能者の職域、居場所といったもの、いうなれば充たされうる心身(自己同一性)の置き場なりには欠けるということかもしれませんね。
(なお、このレスは、予め用意してあったものです)