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(回答先: パレスチナ情勢「死んだわけではないけども…(11月5日)」(ベイルート通信) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 11 月 05 日 17:27:06)
ベイルート通信 未発表原稿
http://www.geocities.jp/beirutreport/
第一章
「カリスマ的指導者」アラファト
第二章
アラファトがつくった「パレスチナ人」
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第三章
独裁者にしてポピュリスト:アラファト支配の問題点
ここまでは、アラファトの歴史的功績…「パレスチナ人」というアイデンティティをつくった…を見て来た。
しかし、30年を越すアラファトのPLO支配は、同時に様々な問題を生み出して来た。それが過去、幾度もPLOとパレスチナ民族を袋小路に追いつめた。そして今も、おそらく未来も、追いつめ続けるだろう。
アラファトは、短期的な駆け引きには長けている。
例えば、2000年9月に、アル・アクサ・インティファーダが始まってからアラファトはパレスチナ側の武装攻撃を容認した。イスラエルが過剰報復に出ることを見込んで、そうするのだ。
そして国際社会にイスラエルを非難させ、あわよくば「平和維持軍」の派遣、という方向に持っていく。軍事力で圧倒的に優るイスラエル相手に、手持ちのカードが無いアラファトとしては、巧みな戦術と言えるかも知れない。
しかし、米国の反対などの理由で、アラファトの試みは大抵、双方の民間人にひどい犠牲を出すだけで行き詰まってしまう。
行き詰まったあと、いったいどうやって交渉に戻るのか?どうやってパレスチナ独立国家樹立という目標を達成するのか?
アラファトには、そんな長期的な戦略が無い。
場当たり的な、その場しのぎの駆け引きばかりだ。そして、そんな駆け引きをしているうちにも、状況はどんどん悪くなっていく。
それは、アラファトが独裁者であり、しかも大衆に迎合するばかりで重大な決断の出来ないポピュリストだからである。
独裁:行政・立法・司法三権の掌握
アラファト支配の本質は独裁である。
アラファトにはイラクのサッダーム・フセインのような、血なまぐさい暴君のイメージはつきまとわない。
アラファトは元来、どちらかと言うと陽気な性格だし、血なまぐさいことは好まない。少なくとも、自分を批判する相手を、有無を言わさず殺してしまうようなことはしない。アラファト自身の関与が取り沙汰されたPLO内の粛清事件や暗殺事件はあったが、いずれもアラファトがクロとは証明されていない。
アラファトをテロリストの親玉と見る立場からすれば、アラファトは冷酷で暗い男ということになるかもしれないが、彼は少なくともパレスチナ人の間で、更に国連を舞台とする国際社会で、陽気なイメージを演出することに成功して来た。
しかし、アラファトの支配スタイルはやはり本質的に独裁である。
独裁者は、権力を自分に集中させる。そして、法の手続きを軽視する。
つまり、個人が絶対的な法解釈者になりおおせてしまう。組織は育たず、社会全体が一個人の意思によって大きく振り回される。
アラファトのスタイルはまさにそれである。
PLOは公式には世界中の離散パレスチナ人による「亡命議会」に相当するパレスチナ民族評議会(PNC)を持っている。アラファトはこれを「民主的な議決機関」と位置付け、だからパレスチナ人社会は民主社会なのだ、と強弁するが、これは割り引いて聞かねばならない。
何故なら、PNC評議員の選任プロセス自体がまったく不透明な任命制である上、民族の運命を決める肝腎な時…例えば、オスロ合意に調印するかどうかを決めるとき…には、PNCは絶対に開催されないからである。
そしてそのかわりに、1988年アルジェでアラファトが「パレスチナ国家独立」を宣言する…当時PLOが実効支配する領土など一インチも無かったというのに…というようなイベントがある時には開かれる。反対者に与えられる弁論の機会は限られており、結局はアラファトの決定が採決される。つまり、PNCは民主的な討論と意思決定の場では無く、大政翼賛会のような機能しか果たしていない。
これに比べると、日本を含めた西側諸国の監視のもと1996年1月に実施された、西岸・ガザにおけるパレスチナ自治評議会(PLC)選挙ははるかにまともだった。88人の議員は、民主的な投票プロセスで選出された(もっとも、本来82人であった筈の定員が、選挙直前のアラファト「勅令」によって、突然88名に増員されたが)し、アラファトとオスロ合意を批判して、議長選挙でアラファトに挑んだサミーハ・ハリール女史は、10%近い票を集めた。
ハマスやPFLPなど、オスロ合意反対の勢力がボイコットしたため、ファタハ以外野党らしい野党が無い状態での選挙だったのは事実である。
しかし、ファタハの中にも、アラファトの支配のあり方や、オスロ合意に対して、あるいは自治政府の腐敗の問題に対して批判的な勢力も少なくないから、PLCはそれなりに民主的な議決機関として発足したのである。
そこまでは良かった。
しかし、立法機関としてのPLCが最初に取り組んだ、自治政府の憲法に相当する「基本法」に、アラファトは一向に署名しようとしなかった。従ってこの基本法は発効しなかった。2002年4月のイスラエル軍による西岸大侵攻(「防御の盾」作戦)の後、自治区内外から自治政府改革の圧力が沸点に達した時、アラファトはようやく署名した。
アラファトが署名しなかった理由をめぐりいろいろな憶測があるが、例えば後継問題などに関して、少しでもアラファト自身が自由に裁量できる余地を残しておきたい、というのが本音らしい。
1997 年、会計検査院が「公費の40%は無駄に費やされるか、不透明に流用されている」というレポートを公表したのを受けて、PLCは閣僚三名を名指しで批判し、更迭を要求した。しかし、アラファトによる内閣改造の結果、3人はそのポストにとどまり、逆に3人の罷免を求めたアブドル・ジャウワード・サーレハ農相が職を失うことになった。
1999 年11月には、上記サーレハ元農相以下、PLCの改革派と目される議員たちが、在野の学者たちと連名で、PAの腐敗を糾弾し、改革をよびかける署名を集めていたことがリークされた。アラファトに忠実なPLCの反改革派議員たちは逆に、この声明に署名した議員たちを弾劾する決議を採択し、「反乱」は敢え無く潰えてしまった。
自治区の各政治勢力に対する住民の支持率を、真に反映するのは地方自治体選挙である。なぜならハマスやPFLPなど、立法評議会選挙をボイコットした勢力も参加するからである。
しかしこの自治体選挙は、自治政府発足以来、ついぞ実施されていない。
行政府の長であるアラファトは、このように立法府たるPLCを自分のコントロール化においてきた。
さらに、司法もアラファトが完全に握っている。
自治政府の治安機関は、逮捕令状もないまま、夜中に人々を引っ立てる。治安機関が管理・運営する獄中では拷問が一般化しており、こんにちまでに判明しているだけで20人が拷問によって殺されている。1998年にファタハの活動家が海上警察(PA治安機関のひとつで、何故か海の無い西岸地区ナブルス市に拠点がある)の獄中で拷問によって殺されたことが発覚すると、怒った群衆の暴動事件に発展した。
初代の検事総長は治安機関による不法な逮捕・拘禁に反対し、令状の無いまま拘禁されている囚人の即時釈放を命令した。しかしアラファトはこの検事総長命令を承認せず、拘禁者は釈放されなかった。たび重なるアラファトの不承認にしびれを切らした検事総長は「これでは任務をまっとう出来ない」と抗議して辞任した。
結局、立法・行政・司法の三権すべてがアラファトの意のままになっているわけだ。
ライバルは潰す、後継者も育たない
それにしても、いったいどうやってアラファトは30年にも及ぶ独裁体制を築くことが出来たのか?
その秘訣は古今東西共通の格言とおり、「分断して統治せよ」、そのままである。つまり人事と金の配分を調整し、部下たちを常に競合させるのである。
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(コラム 2)
有名な例では、1980年代に、PLOのナンバー2と誰もが認めていたアブ・ジハード(ハリール・アル・ワズィール)から、「祖国の声」放送の運営権を奪って、ハーリド・サラームに与えた一件がある。
アブ・ジハードはファタハ創設のころからのアラファトの親友の一人で、長らく軍事部門の責任者としてファタハの中核メンバーになっていた。
1982 年にPLOがイスラエルによりベイルートを追い出されたことで、アラファトの権威は相対的に低下した。PFLPのような強硬派は、アラファトは最後までベイルートで抵抗すべきだった、アラファトがレバノンのパレスチナ人を見捨てたため、サブラ、シャティーラの虐殺事件が起きた、とアラファトを責めた。翌年には身内のファタハの中からアブ・ムーサ派が反乱を起こし、アラファトはトリポリにあったレバノンの拠点を失ってしまいチュニスに本拠を移した。
アラファトの地位が低下する反面、アブ・ジハードの存在が一層重要になる。パレスチナ解放闘争の主要舞台が海外から西岸・ガザの被占領地に移ったからである。
アブ・ジハードこそは、西岸・ガザのファタハ活動家と頻繁に連絡をとり、資金を流して地下運動の組織化を推進した人物だった。「1987年インティファーダの父」と呼ばれるゆえんである。
アブ・ジハードは、「敵と戦うにはまず敵のことを知るべき」として、自らへブライ語を習得し、イスラエルからヘブライ語新聞を取り寄せ、イスラエル国内の政情を細かく分析するような、緻密な戦略家タイプのリーダー。レバノンを失い、「政治生命は終わった」とさえ噂されたアラファトが、長年のこの友人に、パレスチナの唯一の指導者という地位をとって変られるのでは、と疑心暗鬼になったとしても不思議ではない。
アラファトは離散パレスチナ人社会に影響力を持つラジオ局、「祖国の声」放送の運営権をアブ・ジハードから取り上げ、ハーリド・サラームに与えた。イラク出身のクルド人で、パレスチナ解放運動に関わってからもDFLPという傍流に在籍したサラームは、アラファトの地位を脅かす心配はまずない。アラファトはこのころからサラームを金庫番として重用している。
アブ・ジハード自身はインティファーダが勃発して4ヶ月目に入った1988年4月、チュニスでモサドの手にかかり暗殺され、アラファトの最有力後継者が消えてしまった。
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自治政府の議長、つまり主権国家の元首に準ずるような存在となってからも、アラファトはゲリラの親玉だった当時と同じ、この手法をそのまま持ち込んでいる。
例えば、和平交渉の各ステージで、ナビール・シャアス計画・国際協力長官(PA外務大臣に相当)、サーエブ・エラカート地方自治長官、ヤセル・アブドル・ラッボ文化長官など担当者を交代させる。
だから、一人の交渉者が突出して功績を独占するようなことは有り得ない。
もっと顕著な例は、悪名高い治安機関である。
自治区には、「国家治安部隊」と呼ばれる通常の警察組織とは別に、「治安予防部隊(PSF)」「軍事情報部」「総合諜報部」「海上警察」などのさまざま な名称の治安・警察組織がある。
議長警護部隊「フォース17」も加えた、PA政府組織としての治安組織の構成員総数は約4万人。人口60人あたりにつき一人警察官か治安要員が居るということになり、世界でも有数の警察国家といっていい。
更に付け加えるなら、2000年9月に「アル・アクサ・インティファーダ」が勃発してからはファタハの下部組織である「タンジーム」が武装化を進め、さらにそこから「アル・アクサ殉教者旅団」や「帰還のための旅団」などの武装組織が生まれた。この、アラファト公認の「民兵組織」も含めるなら、現在自治区の武装要員の数は5万人に達するだろう。
当初9千人まで、とオスロ合意で規定された警官と治安要員の数がなぜここまで膨張したのか?
産業らしい産業のない自治区のこと、失業対策という側面があったことは事実である。
しかしそれだけでは、なぜこれほどいろいろな組織に分割されねばならないのか、説明はつかない。結局、部下たちに様々な部隊を指揮させて、お互いに競合させることによって、特定のライバルや後継者が突出することを防いでいる、としか解釈出来ない。
実際、アル・アクサ・インティファーダが始まってからは、それぞれの治安機関に一定の役割分担があることがはっきりしてきている。
イスラエルが「テロリズムに関与している」としてもっぱら標的にするのは「国家治安部隊(自治警察)」、「フォース17」や「海上警察」である。「国家治安部隊」はインティファーダの初期、ラマッラーで起きたイスラエル人のリンチ事件の責任を問われ、イスラエル軍の手厳しい報復を受けた。「海上警察」も、 2002年1月に拿捕された武器密輸船「カリンA号」事件の実行者として、激しいイスラエル軍の攻撃に曝された。
一方で、ムハンマド・ダハラーンの率いる「ガザPSF」とジブリール・ラジューブ率いる「西岸PSF」はいずれも米国、イスラエルの治安機関との接触を保ち、もっぱらハマスやジハード、PFLPなど「過激派」弾圧の役割を担っている。両部隊がイスラエル軍と直接交戦することはほとんどない。
「アラファトは外交的な駆け引きのため、複数の治安部隊を用いて、イスラエルへの攻撃を強めたり、弱めたりしている」
とするイスラエルの非難は、事実を突いている。
危険な火遊び
アラファトのこの狡猾なやり方は、しかし一歩間違えれば彼自身の国際的信用を失墜させ、更にはパレスチナ人の運命を狂わせてしまう危ういものだ。
アラファトは1970年のヨルダンでも、1975年のレバノンでも同じ失敗を繰り返している。
どちらの国でも、部下たちがいくつもの民兵組織をつくり、ホスト国の法を犯し傍若無人に振舞うのをアラファトは放置した。無許可で武器を携行した民兵たちは、各地に検問所を設置し、通行税を徴収するなど、無法な振る舞いをして住民との摩擦が絶えなかった。
摩擦はホスト国の住民相手だけではない。
民兵同士のちょっとした喧嘩が、市街戦に発展するようなことも頻繁に起きた。更に危険なことに、ホスト国の国軍とも衝突した。
法の支配が失われ、かわって混沌が支配したのである。
ヨルダンでもレバノンでも、アラファトは内政不干渉を繰り返し宣言した。
だから、PFLPなどの過激勢力が「エルサレムへの道はアンマンから」、「エルサレムへの道はジュニエ(ベイルート北方、キリスト教徒勢力の拠点だった都市)から」、と主張して、ヨルダンやレバノン当局を挑発しても、ファタハは表向き不介入の姿勢をとっていた。
しかし、アラファトは、過激派弾圧には踏みきらなかった。パレスチナ大衆の怒りを買うのを恐れたのだ。それどころか、レバノンではイスラム教徒の将校をそそのかし、国軍の分裂さえ画策して成功した。
状況が悪化し、応酬する暴力のレベルが上がってくるに従って、アラファトはもはや「不干渉」などと見え透いた嘘をついてはいられなくなった。そのうち、アラファト自身が当事者として攻撃にさらされ、ついには軍事的に追放されてしまう憂き目にあった。
今、アラファトがラマッラーに事実上軟禁され、ハマスやジハードだけではなくアラファト直属の治安機関や警察自身がイスラエルの攻撃に曝されているのは、ヨルダンやレバノンで起きた状況とそっくりである。
アラファトの大衆迎合(ポピュリズム)
アラファトの政策決定の本質はポピュリズム、すなわち大衆迎合である。
真のリーダーとは、民族の未来のために、その民族が決して認めないような苦渋の決断をせねばならないものである。そしてそのために、自らの政治生命や、場合によっては生命そのものを失う覚悟も要る。
例えば、キャンプ・デービッド合意を結んだ後暗殺されたエジプトのサダト大統領は、真のリーダーだったし、オスロ合意を結び、パレスチナ自治拡大を推進したがために殺されたイスラエルのラビン首相も、真のリーダーだった。たとえ同胞に「裏切り者」と罵倒され、殺されようと、国の未来のためにはこうすべきだ、と信ずるところがあれば、敢えてそれを実行する勇気があった。サダトのような独裁者であっても、確固とした信念と戦略があるなら、国民に将来を示すことが出来るという好例である。
その対極にあるのが、アラファトのような、独裁的なポピュリストである。
アラファトが大衆に迎合して民族の運命を狂わせた例は枚挙にいとまがない。
ヨルダンやレバノンで、過激派を制圧出来ないまま、自分自身が当事者となって内戦に巻き込まれ、挙句の果ては営々と築いた拠点をすべて失ってしまった。
1990年の湾岸危機に際しても、アラファトはサッダーム・フセインのクウェート侵攻と併合をはっきり非難する決断が出来無かった。「パレスチナ・リンケージ論」を持ち出し、一躍パレスチナの偶像となったサッダームを向こうに回して、大衆の怒りを買いたくなかったのである。
「アル・アクサ・インティファーダ」が始まってからのアラファトの迷走ぶりは、痛々しいほどだ。
2001年の暮れに起きた武器密輸船「カリンA号」事件のアラファトの対応ほど、ひどい例は無い。
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(コラム3 「カリンA号」事件
2001年の暮れ、イスラエル軍は紅海上を航行していた「カリンA」号を臨検し、エイラート港に曳航した。米国が、イスラエルとパレスチナの停戦を成立させようと、ズィニー特使を派遣しようとしていた矢先のことである。
「カリンA」号からは、重量80トンにも及ぶ多数の武器が押収された。中には、対戦車砲やロケット砲など、イスラエル軍にとって深刻な脅威となるような兵器も含まれていた。
逮捕されたカリンA号の船長も、乗組員もPA海上警察のメンバーだった。アッカーウィ船長はイスラエル軍の尋問に対し、「自治政府の高官フォアード・ショウバキの命令で、イランから武器を購入して自治区に運ぼうとした」と証言。
ショウバキはアラファト側近中の側近である。
しかも、どんな細かい決裁もアラファトが自分ですることは周知の事実だから、2千万ドル近くの巨額の武器取り引きを、アラファトの同意無しで実行出来るはずはない…イスラエルも米国も、アラファトが停戦を呼びかける裏で、大量の武器を密輸を企てていた、と厳しくアラファトを非難した。
アラファトがここで、「パレスチナ人たちは、連日イスラエルの圧倒的な軍事力による攻撃に曝されている。武器を入手して戦うのは正当防衛である」、とはっきり宣言していれば、状況はましだったかもしれない。
しかし、アラファトの反応は別だった。
PAはイランとともに、「イスラエルのでっちあげだ」、と関与を全面的に否定した。
しかし、米国は、この武器がイランから船積みされて自治区に運ばれる途上であった事実を掴んでいた。またイスラエルの諜報機関は、シュバーキ以外にこの件に関与したPA関係者が二人居ることを察知していた。
機密情報を証拠としてつきつけられ、しらばっくれていられなくなったアラファトは、とりあえず「3人を逮捕した」と発表する。しかし、その後すぐに三名のうち、実際にはショウバキしか逮捕していないことをイスラエルのメディアに書き立てられ、渋々その事実を認めた。
アラファトは当初、パウエル米国務長官宛てに、「自分もPAも一切関与していない」と書簡を送った。
しかし連日新事実が発表され、形勢が危うくなると、「武器を密輸していたのはヒズボッラーである」と主張したり、最後には米国宛てに「事実、PAは関与していた。しかし自分の関知しないところで行われたことだ」、と再度書簡を送った。
ただでさえアラファトを嫌っていたブッシュ政権の不信感を決定づけた事件である。
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公然と対イスラエル攻撃を呼びかけこそしないものの、アラファトは配下の治安部隊や民兵組織がイスラエルの標的を攻撃するのを認めて来た。それどころか、ハマスやジハードの活動家を大量釈放した。
しかしイスラエルの厳しい報復に曝されると、一転して「停戦」を呼びかける。さらには米国の圧力に曝され、ハマスやジハードを「テロ組織であり、パレスチナ人を代表していない」と表現して轟々たる非難を浴びた。入植者や軍に対する攻撃はもちろんのこと、イスラエル領内での「自爆テロ」であっても、正当防衛と考えるパレスチナ人たちは、こういった作戦の実行者を「シャヒード=殉教者」あるいは「フェダーイ=自己犠牲者」と表現するから、「テロリスト」の語は禁句なのである。
現在のアラファトは米国やイスラエルの圧力と、怒りに煮えたぎった民衆からの突き上げの板ばさみとなって、どちらの信用も失うという苦しい立場にある。パレスチナ大衆を煽動し、大衆が喜ぶ政策をとってきたポピュリスト・アラファトにとって、今の状況はまさに袋小路なのだ。