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パレスチナ情勢「死んだわけではないけども…(11月5日)」(ベイルート通信)
http://www.asyura2.com/0411/war62/msg/451.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 11 月 05 日 17:27:06:0iYhrg5rK5QpI
 

ベイルート通信
http://www.geocities.jp/beirutreport/
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パレスチナ情勢
http://www.geocities.jp/beirutreport/

死んだわけではないけども…(11月5日)

 4日、EUサミットに出席するためブリュッセルに到着したばかりのルクセンブルグのユンケル首相は、アラファトの容態について何か聞いているか、と記者団に問われて、
「15分前に死亡したと聞いている」
と発言、たちまちアラファト死亡説が世界を駆け巡った。危篤説や脳死説が既に流れていたから、この発言も
「そうか、とうとう」
と、一部ではすんなり受け止められた。ガザではアラファトの回復を願う人が、西エルサレムでは逆に「テロリストの首魁」の最期を喜ぶ人々が街頭に繰り出した。

 その後、ペルシー病院の軍医が、アラファトの病状はより複雑になったが、死んではいないと語り、死亡説を明確に打ち消した。
 現在、現地(ベイルート、パレスチナ)時間の5日午前3時。
 ラマダーン恒例のムサッハル(未明の礼拝と食事をうながすため、太鼓を叩いて町をまわる「起こし屋」)に起こされてニュースを見たが、新しい情報はなかった。

 筆者(編集人)がこの記事を書いている場所は、西ベイルートの中心部、ハムラ地区のコモドール・ホテルの隣だ。
 コモドール・ホテルと言えば、パレスチナ報道に関わってきた人々にとっては懐かしい場所の筈だ。
 PLOとアラファトが西ベイルートに立てこもり、この町がイスラエル軍の砲弾の嵐にさらされた1982年の夏。このホテルは唯一電話回線、発電機、ファックスなどのプレスルーム機材を備えたホテルとして、世界の報道陣の拠点になった。だから当時のルポなどを読んでいると必ず名前が出てくる。記者たちはここから情報を仕入れ、せっせと本国に送信した。
 包囲中、アラファトは幾度も曝殺されかけたので、決して二日連続で同じ場所で眠ることはなかったという。シャロン(当時国防相)だけでなく、コモドール・ホテルに居た記者たちも、毎日アラファトは一体どこに居るのだろう、本当に生きているのだろうか、次はどこに現れるのだろうか、とやきもきさせられたことに違いない。

 アラファトは、ベイルートの前にもアンマンで同じようにヨルダン軍によって包囲され、神出鬼没して生き延びた。アラファトは生き延びたが、多くの罪のない人々が殺された。
 ベイルートの次は、1983年の秋、トリポリでシリア軍(と、形式上はファタハの反乱部隊)によって包囲された。この時も多くの市民が巻き添えになった。さらに、2002年の4月、ラーマッラーの議長府で、再びシャロンの手で包囲され、議長執務室の隣まで攻め込まれた。アラファトはそれでも
「私は捕虜になるよりも、殉教者になることを選ぶ。殉教者、殉教者!」
メディアにそう語って、支持者の喝采を得た。そして包囲が解除されると、Vサインをかざして…本人のサバイバル以外に、何ひとつ勝ち得てはいないのに…外に現れた。
 
 バリー・ルービンは最新のアラファト伝(2003年刊)を、このラーマッラー包囲戦の記述から開始し、次のようにコメントする。

「またしても、アラファトは合意を守らず危機をもたらした。またしても、アラファトは彼我の力の差を読み誤った。またしても、アラブ諸国はアラファトに声援を送るのみで救出のため微動たりともしなかった。またしても、イスラエルはアラファトを殺さなかった。またしても、米国が救出のために動いた。またしてもアラファトは無傷で切り抜けた。しかし、またしても、アラファトがこの混乱と暴力の果てにもたらしたのは、本人のサバイバルだけだった」

 民衆に空虚な夢を与え続けたこの人物は、結局破壊と混乱以外に何ももたらさないまま、今その波乱に富んだ人生を閉じようとしている。
 本人しか所在を知らない莫大な隠れ資金も、永遠に行方がわからなくなるのだろう。


アラファトの容態(11月4日)

 3日午前には、側近とアメリカ大統領選挙の結果について協議するほど元気だったアラファトだが、夕方から嘔吐を繰り返すなど、容態が急激に悪化し、集中治療室に運ばれた。
 そこまでは、ほとんどの報道が一致しているが、それ以降のことについては情報が錯綜し、さすがのアル・ジャジーラ・テレビも状況をつかみきれてはいないようだ。
 アラファトが何度も意識不明に陥っているという報道については、アラファトに同行してパリに来ているムハンマド・ダハラーンやハーリド・サラームらの側近が否定、またラーマッラーの議長府からは4日、アブドッラヒーム議長府長官が、
「議長の容態悪化が誇張されて報じられてている。議長は数時間後には集中治療室を出るはずだ」
と発表するなど、自治政府関係者はアラファト重体説を打ち消すのに躍起になっている。
 また、イスラエル紙などはアブ・マーゼンがパリに向かったと報じたが、これもアブ・マーゼンはアラブ首長国連邦のシェーク・ザーイド大統領の葬儀に参列してアブダビに滞在しており、誤報だった模様だ。ただし、チュニジアからPLO政治局長のファルーク・カッドゥーミがパリに向かったのは事実らしい。

 ダハラーンはともかく、ハーリド・サラームやアブドッラヒーム長官、シャアス外相らは、いずれも自己の政治基盤を持たず、アラファトあって始めて権力の甘い汁を吸える存在だ。いずれも汚職や腐敗の悪評高く、アラファト亡き後には失脚したり、法的追及を受けてもおかしくない。だから、アラファトの容態をぎりぎりまで
「大丈夫だ」
といい続けるだろうし、ひょっとすると、アラファトが死んでも
「生きている」
と言うかもしれない(もっとも、報道の自由があるフランスに移送してしまったからには、メディアを完全に欺くことはもはや不可能だろうが)。
 そんなわけで、側近情報も信じられないため、ますます憶測を呼ぶ結果になっている。
 とりあえず、現地時間で午後4時に、フランスの医師団から病状説明があるらしい。


アラファト不在で対イスラエル攻撃激化?(11月2日)

 2001年10月のゼエビ観光相暗殺以来、派手な対イスラエル行動を起こしてこなかったPFLPが、アラファトがラーマッラーを去ってわずか数日後の1日、カルメル市場爆破を敢行したのは何故か?

 2日のハ・アレツ紙電子版に掲載された、パレスチナ報道のベテラン記者ダニー・ルビンシュタイン(著作にアラファトの伝記あり)の記事は、なかなか面白い。
 ルビンシュタインは東エルサレムのジャーナリストの言葉を引用して、
「1日の自爆テロは、インティファーダ武装化に反対するアブ・マーゼンの穏健指導部に対するメッセージである」
とする。さらに、占領地におけるトップ2名(アハマド・サアダートとアブドル・ラヒーム・マルワハ)がそれぞれエリコとメギドの刑務所に収容されたままの PFLPが、PFLP代表不在のままPLO執行委員会を開催、今後の政策を決めようとするPLO暫定執行部に対して異議を申し立てるため、作戦を実行(して指導部を苦しい立場に追い込んだ)した可能性を指摘する。
 
 革命運動や解放運動では、内部の主導権争いが無謀な対外行動につながることが往々にして起きる。
 もし今回もそうだったとすれば、わずか16歳(当初18歳と報道されたが、その後の母親の証言では1988年生まれだったらしい)で「天国入り」を信じて死んでいった実行犯や、テロの被害者たち、それに即座に家を取り壊され路頭に迷うことになった実行犯の家族は、みんなPLO内部の権力闘争の犠牲になったということだ。


テルアビブの市場で自爆テロ(11月1日)

1日午前11時過ぎ、テルアビブのダウンタウンにあるカルメル市場で爆発があり、少なくとも3名が死亡した。重体も含めて、負傷者は30 名を超える模様。事件後PFLPが声明を出し、実行犯はナブルス近郊のアスカル難民キャンプに住むアンマール・アル・ファール(18歳)と発表した。
 かつてPLO内でファタハに次ぐ勢力を誇ったPFLPだが、アラブ世界の共産主義離れが進む中、勢力を著しく後退させた。インティファーダ勃発後にアブ・アリ・ムスタファ議長を暗殺され、後任のアハマド・サアダートもPAの獄中にあるなど、目立った幹部はほぼ一掃され、今回のような派手な対イスラエル攻撃をするのは珍しい。
 なお、殉教精神に富むハマースやジハードの活動家と違い、世俗主義のPFLPが自爆テロ(パレスチナ側の表現で「殉教攻撃」)を実行するのも異例。

アンマンからパリへ(10月29日)

 アンマンに着いたアラファトは、午前9時20分、パリに向けて飛び立った。

 アンマンと言えば、1970年、「黒い9月」事件でアラファトはここでヨルダン軍に包囲され、絶対絶命の状態に追い込まれた。他のPLO幹部(アブ・イヤードやファルーク・カッドゥーミ)がヨルダン軍の捕虜になる中、アラファト本人はしぶとく捜索の網から逃れ続け、アラブ和平交渉団のヌメイリ団長(当時スーダン大統領)は、砲弾の雨の中、自らの命を危険にさらしてアラファトを探し回る破目になった。
 ヌメイリに伴われアラファトはカイロへ(変装してヨルダンを抜け出したという説もある)。そこでフセイン国王と嵐のような応酬があった。
 死期の迫ったナセル大統領は、紛争収拾のため説得に全身全霊を傾け、何とか両者を和解させた。サミット終了後まもなく、ナセルは不帰の客となる。

 ナセルという重しを失い、ヨルダン紛争は再度悪化した。
 71年7月。
 北部アジュルーンの森林に籠もったアラファトとパレスチナ・ゲリラにを、ヨルダン軍は再度包囲、掃討作戦を進める。
 再び生死の淵に立たされたアラファトは、当時ヨルダンの閣僚だったムニーブ・マスリとサウジ大使に伴われ、フセイン国王と交渉するためアジュルーンを脱出する。しかしジャラシュまで来たところで、アラファトの気は変わった。アンマンに戻れば国王に降伏するに等しい、それよりは新天地で、革命をやり直そう…アラファトはそのまま進路を北にとり、ダマスカス、さらにベイルートへと向かった。
 そのベイルートで、彼が来てから何が起きたか、周知のとおりである。

 アブ・イヤード、ヌメイリ、ナセル、フセイン…みんな鬼籍に入った。
 生き延びたアラファトはアンマンからベイルート、さらにチュニス、ガザ、ラーマッラーを転々とし、今朝ラーマッラーを離れ、アンマン経由でパリへ向かった。


アラファトは戻って来れるか?(10月29日)

 ムニーブ・マスリが報道陣に語ったところによれば、アラファトは29日午前6時半(日本時間午後零時半)にラッマーラーを離れる。ハ・アレツ紙電子版によればフランスがアラファト移送用の飛行機を提供するらしい。パリでもアラファト受け入れのため厳戒態勢が敷かれ始めている模様だ。

 アラファトの自治区離脱がほぼ確実になった現在、メディアの関心は
1.誰がアラファトの後を継ぐのか?
2.仮に治療が順当に進み、アラファトの健康が回復したとして、本当にイスラエルはアラファトの帰還を許すのか?
この二点に集中しつつある。

 第一の点に関しては、まさに現時点(現地時間29日深夜零時)、ラーマッラーでファタハ執行委員会が開催されている。司会はPLO執行委員兼事務局長かつファタハの最古参の執行委員たるアブ・マーゼン(マハムード・アッバース)前PA首相。やはりアラファト不在中に、当面この人物が空白を埋めるかたちになるのは間違いなさそうだ。

 問題は第二点である。ハ・アレツ紙電子版は、
「イスラエルはパレスチナ自治政府に対し、アラファトが海外で治療を受けた場合、西岸への帰還を保証すると告げた」
と書いている。またヴァイスグラス首相補佐官は、イスラエル放送に対し、アラファトの帰還を許可すると語った。
 これについて、28日夜11時のアル・ジャジーラ・ニュースで、インタビューに答えたアハマド・ティビは次のように詳細を説明した。
「議長府に居た自分(ティビ)とタイイブ・アブドッラヒーム(議長府長官、アラファト側近の一人)に対し、28日に電話したヴァイスグラスは『アラファト議長が治療のために出国することと帰還することを許可する』と明言した。続いて米国政府(注:固有名詞は出していない)からもクレア首相およびエラカート交渉担当相に対して、『議長の帰国は国際的な了解である』と述べた」
 つまり、治療を終えたアラファトを、そのまま追放するようなことはしないと言うことを、イスラエルのみならず、国際社会が保証している、と言うのだ。
 もっともこれに対しては、続いてインタビューに答えたアル・コドゥス・アル・アラビ紙のアトワーン編集長が、
「米国がオスロ合意の時にパレスチナ人に与えた保証を見るがいい。米国の保証など信用出来ない」
と、一笑に付している。それに何よりも、イスラエル政府からはまだこの件に関して、何の公式声明も出ていない。

 これまで幾度も絶体絶命の窮地に陥りながらも、間一髪で脱して来たアラファトだが、今回も病魔を克服してしぶとく生き残れるだろうか。そして、無事に回復出来たとして、本当に再びファタハの、PAの、そしてPLOの中心に返り咲けるのであろうか。
 

速報:アラファト、治療のためにパリへ?(10月28日)

午後9時のアル・ジャジーラ、アル・アラビーヤ両テレビは、アラファト議長が数時間後にヨルダンのヘリコプターでアンマンへ、更にそこからパリへ向かい、治療を受けると報じている。懸案のイスラエルがアラファト帰国を許すかどうかという問題については、アラファト顧問のアハマド・ティビ(イスラエルのクネセット議員)が、
「治療後のアラファトのラーマッラー帰還をイスラエルは約束した」
と述べている(イスラエル政府からの公式の発表は無い)。
 また、アラファト不在中の「暫定指導部」についても、自治政府の公式発表は無いが、両テレビ局ともに、これまで報じられたとおり、アブ・アラー、アブ・マーゼン、サリーム・ザアヌーンの3名がアラファトの代行をすることになろうとと報じている。
 なお、両局はパジャマ姿のアラファトが、側近たちに囲まれ微笑む映像(容態悪化報道以降では初)を放送した。

アラファト議長、意識を回復!?(10月28日)

 現地時間で28日午後5時20分、アラビーヤ・テレビはテロップで
「アラファト議長、意識を回復して日没時の礼拝を行った(!?)」
と速報した。その約半時間後には
「エジプト医師団が議長府に到着」
「アラファト夫人、ヨルダン経由でラーマッラーに到着」
「パレスチナ高官によれば、今夜議長がヨルダンに移送される可能性もある」
「パリに移送されるかも」
などと、分刻みで速報テロップを流している。

 昨夜の容態急変以来、アラビア語メディアはいずれもこの調子で、アラファトの容態をトップニュースで大きく伝えている。洩れて来る情報が少ないため、憶測が憶測を呼ぶ状態で、様々な噂が飛び交っている。イスラエルのメディアはアラファトが意識不明に陥った、重態であると報じ、アラビア語メディアもそれに引きずられている。
 飛び交っている噂の中には、
「アラファトはアブ・マーゼン、アブ・アラー、サリーム・ザアヌーン(パレスチナ民族評議会PNC=PLOの立法議決機関だが、オスロ合意とパレスチナ立法評議会PNC設立後、ほとんど機能していない)の3人に暫定指導部の組織を託した」
「アラファトは意識不明の状態である」
「アラファトは昨夜来、幾度か意識不明に陥った」
等等。
 一方、PA関係者は、一様にアラファト議長の体調が思わしくないこと、休養が必要なことは認めつつも、議長の意識不明や暫定指導部設立と言った情報を躍起になって否定している。クレア首相(アブ・アラー)は28日に報道陣に向かい、
「メディア関係者に求める。議長の容態を把握しているのは第一に医師団であり、次いで議長府である。いい加減な憶測ではなく、議長府の発表に沿って報道してもらいたい」
と述べている。
 またムニーブ・マスリ(パレスチナ人ビジネスマン、長年にわたるアラファトとの交友関係で有名)は
「今朝議長と朝食をとった。議長は自分の体調は大丈夫だ、不要に心配しないで欲しいと語っていた」
と述べるなど、重態・危篤説を全面的に否定している。
 
 アラファトの体調不良は一週間以上前から伝えられていた。また昨夜、議長府にPA首脳が参集したこと、さらに2000年9月のインティファーダ勃発以来、一度も夫のもとを訪れていなかったソハ夫人が、一粒種の娘を連れてラーマッラーに来たのも事実である。だからアラファトの容態がかなり深刻なのは間違いないだろうが、どの程度深刻なのか。相も変わらずこの人物の動向は闇に包まれ、周囲を、さらに全世界をやきもきさせている。

 それにしても傑作なのはイスラエルの対応だ。つい先日まではアラファト自身も暗殺の対象だと公言していたシャロン首相が、今日になって
「イスラエルは人道的な立場から、議長の健康回復に必要なあらゆる支援を提供する用意がある(ギッシン報道官が首相を引用して発言)」
と言い出した。実際に、アラブ諸国の医師団やアラファト夫人の入国をすんなり認めるなど、あらゆる便宜を図っている。
「アラファトはイスラエルによって殺されたも同然だ」
という非難を避けるのに精一杯といった印象だ。
 もっとも、アラファトとその周辺は、治療のために自治区を離れたが最後、イスラエルは二度と帰国を認めず、再度亡命を強いられるのではとの疑念を強く抱いている。

 午後6時のアラビーヤ・テレビは
「議長の容態は回復、議長は午後と日没の礼拝を済ませた他、病床から起き上がってテレビを見たり側近と談笑している」
と報じている。


アラファト議長の容態悪化(10月27日)

 アル・ジャジーラ・テレビは現地時間夜11時のニュースで、AP通信の報道としてアラファト議長の容態が悪化し、アブ・アラーPA首相やアブ・マーゼン前首相らパレスチナ自治政府の首脳が議長府に集まったと報じた。一方、議長報道官のナビール・アブ・ルデイネは
「議長の容態は安定しており、パレスチナ人とチュニジア人の医師団が診察にあたっている」
と発表した。アル・ジャジーラ・テレビのワリード・オマリ特派員は
「議長の生命の危険は無いという点で、情報は一致している」
と報じている。

 アラファト議長はここ一週間ほど体調を崩し、25日には議長府に事実上幽閉された2001年末以来、初めてイスラエルの許可を得て議長府を離れ、数百メートル先のラーマッラー病院で診察を受け、胆石という診断を受けている。


速報:ガザ分離計画がクネセット通過(10月26日)

 25日からシャロン首相の占領地一方的分離計画を審議していたイスラエルのクネセットは、26日夜採決を行い、分離計画を賛成67議員、反対45議員で可決した。棄権はアラブ議員6名を含む7名、欠席1名。リクード党内で分離計画に反対の立場をとって来たネタニヤフ蔵相、リブナト教育相、シャローム外相らも賛成票を投じた。シャロン首相はランダウ国務相など、反対票を投じた党内の造反議員に対しては、罷免などの懲罰措置をとると見られる(午後11時半、実際にランダウは罷免された)。

 分離計画案はクネセットを通過したものの、与党民族宗教党(NRP)は、閣内残留の条件としてシャロン首相が拒絶する国民投票実施を求めている。この他、ネタニヤフ蔵相ら4閣僚も国民投票実施を要求、要求が認められない場合は辞任をちらつかせている。また実際にイスラエル軍がガザから撤退、入植地を撤去するには再度政府審議が必要であり、分離計画実施にはまだ困難が予測される。

 なお、25、6日にわたってイスラエル軍が侵攻したガザ南部のハーン・ユーニスではパレスチナ側死亡者の数は17名に達した。


「カッサーム・ロケットの父」暗殺(10月22日)

 21日夜、ガザ市内北部トゥッファーハ地区のヤファ通りを走行中の車両に対し、イスラエル軍機がミサイルを発射、乗車していたアドナン・アル・ゴールとイマード・アッバースが即死、通行人6名が負傷した。
 アル・ゴールはハマースの軍事組織「イッザッディーン・アル・カッサーム旅団」でムハンマド・デーフに次ぐナンバー2にあたる人物。カッサーム・ロケット砲製造と、同砲を用いた対イスラエル攻撃を指導し「カッサーム・ロケットの父」とあだ名されていたらしい。過去15年間にわたり、毒入りコーヒーを飲ませるなど、イスラエルは幾度かアル・ゴールの暗殺を試みたがいずれも失敗に終わった。なお、アル・ゴールの息子2人はイスラエルに暗殺されている。
 この日、ガザ市東部に位置するナハル・オズのイスラエル軍拠点に攻撃をしかけたゲリラ2名(イスラム聖戦とアル・アクサ殉教者旅団のメンバー)がイスラエル軍兵士により射殺される事件も起きている。

 一方、エジプトとの国境地帯では、ガザとエジプト領を結ぶトンネルの捜索にあたっていたイスラエル軍将校一名が爆弾によって殺害された。イスラエル軍は、エジプト側でイスラエル軍の動きを監視していた誰かが起爆させた可能性もあると見ている。
 また、「悔悟の日々」作戦終了後としては初めて、スデロットにカッサーム・ロケットが着弾した。死傷者は出ていない。

 UNRWA(国連難民救済事業機関)は、「悔悟の日々」作戦がもたらしたパレスチナ側の被害状況を以下のように報告した。
 破壊された家屋94軒、143世帯。675名がホームレスとなった。被害総額推計300万ドル、被害者の90%は難民である…。


アル・アクサ殉教者旅団がジェニンのPA 施設占拠(10月19日)

 ハ・アレツ紙電子版によれば、19日午後、ジェニンでアル・アクサ殉教者旅団の民兵らが武装して自治政府財務省や立法評議会(PLC)の建物を占拠した。占拠グループを率いるのは、この地区における同旅団のリーダー、ザカリア・ズベイディで、PAに対し給与の支払いと、インティファーダ犠牲者の遺族への年金支払いを要求していると言う。
 自治区では前日にもガザでダハラーン前治安問題担当議長顧問の支持者とムーサ・アラファート総合治安機関ガザ地区長官の支持者の間で銃撃戦が起きたばかり。

 インティファーダの最前線でイスラエルと対決するズベイディの世代は、アラファトの世代から見れば、いわば孫の世代にあたる。
 ファタハではファタハ中央委員会に代表されるアラファト世代(便宜上、第一世代と呼ぶ)と、ダハラーンやマルワーン・バルグーティなどを中心とした第一次インティファーダ世代(アラファト世代から見れば息子の世代と言うべきか。第二世代と呼ぶ)の対立ばかり注目されがちだが、現場では更にその次の世代、すなわちズベイディらアル・アクサ殉教者旅団世代(第三世代)が育っており、独自のグループを構成しつつある点も見逃してはならない。
 PAの腐敗・汚職に対しては厳しい立場をとり、長老たちが独占する政治決定への参加を求める点では、第二世代と第三世代は共通している。しかし第二世代と第三世代の関係は決して良好ではない。むしろズベイディのように、アラファト個人には絶対の忠誠を誓うのも第三世代の特徴だ。
 これは、アラファトがあらゆる国際非難やイスラエルからの批判、さらにアブ・マーゼンなど、中央委員会内部からの批判にもめげず、現場の武装闘争に武器や資金を供与し続けてきたことが大きいだろう。インティファーダの武装化に反対する声が内外で強まる中、アル・アクサ旅団やハマースなど武闘派にとって、金と治安機関を一手に握るアラファトは、いまだに頭の上がらない存在ということだ。
 
 アラファトがあらゆるリスクを冒してまで第三世代を支援するのは何故か?
 7月からの一連の内部紛争で明らかになったのは、結局、アラファトはPA改革派や第二世代との対抗上、第三世代を味方につけておこうとしているらしい点だ。アラファトやPAが内部批判にさらされ、改革圧力が強まると、この第三世代が街頭に繰り出し、アラファト支持を叫び、改革派を裏切り者呼ばわりする。
 何のことはない、アラファトは文化大革命で毛沢東がやったのと同じこと(大躍進政策の失敗で権威を失墜させた毛沢東は、劉少奇ら改革派との権力闘争に勝ち抜くため、二十歳そこそこの紅衛兵を動員して改革派を反動分子扱いし迫害した)をやっているわけだ。
 古今東西、独裁者の考えつくことは似たり寄ったりということか。


国民投票を求める声が強まる(10月18日)

 17日、西岸・ガザ入植者評議会の代表団は西エルサレムの首相官邸にシャロン首相を訪問し、2時間にわたって会談した。
 首相が推進するガザ撤退案に反対し、撤退案の是非を国民投票にかけることを求める入植者側と、首相の会談は平行線をたどったらしく、代表団側参加者は会談後に
「首相と行った会談の中でも最悪のものだった。首相はこの国を衝突に向けて引っ張っている(ファールシュタイン評議員)」
「首相は、国民投票実施に絶対反対すると語った。今後、内戦が起こらないように入植者はあるゆる手段を尽くして分離案に抵抗していく(モル・ヨセフ評議会報道官)」
など、口々に首相を批判した。
 1977年の初入閣以来、どんなポストについても入植地建設や土地収用に豪腕を振るい、入植者からは守護神のように頼られてきたシャロンが、その入植者に
「意固地な首相」
とけなされるのだから、因果な話である。

 2005年夏から秋までのガザ撤退を目標にするシャロン首相は、撤退を遅らせるなどの理由で国民投票に反対している。しかし身内のリクード党内部でも、ネタニヤフ蔵相、リブナト教育相など、国民投票を求める声は強い。またシヌイのラピード党首やカッツアーブ大統領らも国民投票を支持しているとされる。
 シャロン首相は今月25日のクネセットでガザ撤退案を採決する構え。イスラエル軍放送の票読みでは賛成64(リクード21、シヌイ14、労働党21、メレツ6、アラブ議員2)議員に対し、反対は46(リクード17、シャス10、民族統一7、ミフダール6、その他6)、棄権10で可決される。
 ただし、労働党は撤退案の修正を、またシャスは国民投票にかけることを、クネセットでの賛成投票の条件にしており、今のままでクネセットの採決にかけた場合、撤退案が可決されるという保障なない。


ガザ北部侵攻作戦完了宣言(10月16日)

 イスラエル軍は、15日夜にガザ北部侵攻作戦(コードネーム「悔悟の日々」作戦)の完了を宣言、ジャバリヤ難民キャンプなどの人口密集地域から戦車や装甲車両からなる陸上部隊を撤退させ、ベート・ハヌーン周辺の高台に配置展開した。
 16日のアル・アラビーヤ・テレビ・ニュースは15日に自宅で食事中に流れ弾で頭部を打ちぬかれ即死したジャバリヤ・キャンプの老婆の遺体映像を放送し、「悔悟の日々」作戦によるパレスチナ側の死亡者数を137名と報じた。サフィール紙記事によれば、犠牲者の4分の1は子供。

 ガザのような人口密集地域では、パレスチナ側民間人が巻き添えを食うだけではなく、市街戦になればイスラエル軍側の犠牲も増大する危険があることから、モファズ国防相や軍の首脳は「悔悟の日々」作戦発動に消極的であった上、作戦開始後は早期の作戦終了・地上部隊撤退を要求していた。
 これに対してシャロン首相は、
「カッサーム・ロケット攻撃が止むまで作戦を続ける」
と公言してきた。
 結局、二週間を超える作戦行動を通じて、イスラエル軍はカッサーム・ロケット攻撃を根絶することは出来なかった。内外の批判の増大によってシャロン首相は結局、作戦を打ち切らざるを得なくなった。16日付サフィール紙のムーサ・ヒルミ記者はこう書く。
「今回の作戦でイスラエル軍は、カッサーム・ロケットを用いる一部細胞メンバー抹殺に成功したが、その8割方は航空機(戦闘機およびヘリコプター)によるもので、地上部隊の作戦によるものではなかった。結局シャロンは目的を達成出来ずに部隊を再展開せざるを得なくなった。インティファ−ダ勃発以後、イスラエル軍はガザに計12回、地上部隊を侵攻させているが、今回も作戦規模と破壊の規模こそ大きいものの、基本的には従来の作戦と同じ範疇にとどまるものであった」。
 しかし「悔悟の日々」作戦がもたらしたガザのインフラ破壊は深刻で、今後ガザの市民生活には重大な影響を及ぼすことは必至である。
 
(中略)

ムーサ・アラファート暗殺未遂(10月12日)

 12日夜、ガザ市内でムーサ・アラファト・ガザ総合治安機関長官(軍事情報局長官を兼任、アラファトPLO議長の親戚)が乗った車両が道路を走行中、路傍に駐車してあった車両が爆発した。アラファト長官は無事であったが、同長官を狙った暗殺計画と見られる。
 事件後、アラファト長官は報道陣に対し、
「パレスチナには国内第五列がおり、このような事件が起きることは予想出来た」
と発言、パレスチナ人による暗殺計画であった可能性を示唆した。
 ムーサ・アラファトは汚職の悪評が高く、政敵も多い。7月のPA治安関連機関の再編に際して、ガザの総合治安機関長官職を兼任することになったときは、ファタハ内部からも激しい抗議行動が起きた(下記7月17日記事参照)。


ハマース政治局局長暗殺計画(10月11日)

 11日夜(現地時間)のアル・ジャジーラ・テレビのニュースは、シリアの警察が同日、ダマスカスに在住するハマースのトップ(政治局局長)ハーリド・マシュアル暗殺を計画していたグループを摘発、3名を逮捕したと報じた。警察発表によれば、3名は取り調べに対し、モサドにリクルートされたことを自白した。また数名がマシュアルの邸宅と日常の動きを監視していたという。
 ダマスカスでは26日、やはりハマース活動家のイッザッディーン・シェーク・ハリールが、何者かが乗用車に仕掛けた爆弾で暗殺される事件が起きたばかり(下記9月26日付記事参照)。犯行声明は出ていないが、イスラエルが海外在住のハマース活動家粛清警告を実行に移したとする見方が強い。

 報道の自由が無いシリア当局の情報なので鵜呑みには出来ない。しかし、マシュアルは1997年にもアンマンで実際にモサドの手で暗殺されかかった(モサドのエージェント2人がヨルダン当局に拘束され、当時イスラエルの獄中に居たアハマド・ヤーシーン師と交換に釈放された)ことがある他、現在もその名はイスラエルのヒット・リスト(暗殺対象)のトップに位置すると見られている。
 

速報:タバのヒルトン・ホテルの爆発(10月8日)

 現地時間で7日夜10時ごろ、紅海に面するエジプトのリゾート地、タバのヒルトン・ホテルで大規模な爆発が起き、エジプトの報道では少なくとも23名が死亡、多数が負傷した。
 タバはイスラエル領のエイラートから近く、イスラエル人の利用客が多い。夜11時半現在、イスラエル・テレビは、この爆発は二人の人物がホテルのガス・パイプの近くで自爆して、大爆発を誘発させたテロ事件であると報じているのに対し、エジプトのテレビは爆発はガス漏れが原因であると報じている。
 犠牲者の多くがイスラエル人観光客であった模様で、イスラエルはエジプトの許可を取って、ヘリコプターや救助隊を動員し、負傷者の救出やイスラエル領内の病院への移送を行っている。

 イスラエル軍は7日も、ガザ北部における軍事作戦を展開し、パレスチナ人8名を殺害しているが、もしこの爆発がパレスチナの過激派によるものであった場合、イスラエルは改めて大規模な報復攻撃を行うことになるだろう。
 タバのヒルトン・ホテルはオスロ合意以降の数々の和平交渉の舞台になった。

ガザ撤退はパレスチナ国家樹立を阻止するため(10月7日)

 シャロン首相顧問のドヴ・ワイスグラスは9日発売予定のハ・アレツ紙週間版のインタビューに応じ、発言内容の一部はハ・アレツ紙上で紹介された。 
注目されるのは、
「ガザから一方的に撤退する目的は、和平交渉を凍結させ、パレスチナ国家樹立を阻止することにある」
と明確に述べている点である。これではパレスチナ国家樹立を求める米国のロード・マップ案を真っ向から否定することになる。

 軍人宰相のシャロン首相の政治手法は、一握りの側近にしか重大事を諮問しない、ある種の密室政治だ(やはりエリート軍人だった前任者エフド・バラクも、そう批判された)。
 ワイスグラスはそのシャロンが最も信頼を寄せる懐刀的存在だ。それだけに今回の発言には大変な重みがある。ついにシャロンの本音が出たか、というところだ。
 冷静にシャロンの対パレスチナ政策や、西岸での入植活動を見ると、シャロンが和平交渉を少しでも遅延させたがっていることは明らかである。また、ガザからの撤退と引き換えに、西岸の支配を強化しようとする意図も見え見えで、既に多くの人がそれを指摘してきた。

 今回のワイスグラス発言は、これらの指摘をほぼ全面的に裏付ける内容だ。
「『和平プロセス』というのは様々な考えやコミットメントの総体だ。その中には、パレスチナ国家樹立、それがもたらすあらゆる治安上のリスク、入植地撤去、難民帰還、エルサレム分割も含まれる。それが今や全部凍結された。入植地については交渉の対象にしないこと、残りの問題についてはパレスチナ人がフィンランド人になってから(注:どの国とも軍事同盟を結ばない、平和愛好国民の意味であろう)考えるというニ点を、米国との間で実質的に合意した。」
「シャロンも率直に言うだろう。分離政策のおかげで、24万人の入植者(注:東エルサレムの入植者も含めていると思われる)のうち、19万人は撤去・移動せずに済む、と。」

 当然のことながら、ロード・マップのスポンサーたる米国はこの発言に当惑している。国務省報道官のアダム・エレリは6日、
「ワイスグラス発言はイスラエル政府から聞いている公式立場と矛盾しているとイスラエルに伝えた」
と発言した。しかしエレリは同時に、既にイスラエル首相府から
「ロード・マップと二国家案に対するイスラエル政府の支持には変更ない」
と釈明があったことも認めた。

米国は、例によって形だけの批判をして、後は聞かなかったふりを決めこむのだろうが 既にアラビア語紙にもワイスグラス発言の要旨は掲載されており、パレスチナ自治政府からも反発が起きている。
 さらに、イスラエルの左派からも轟々たる非難の嵐が巻き起こっている。労働党のペレス党首は
「中途半端な和平を望むものは、中途半端に戦争をもたらす」
と、本質をついた批判を展開している。

米国がイスラエル非難決議に対し拒否権発動(10月6日)

 5日、国連安保理事会は、イスラエルに対し現在同国軍がガザ北部で行っている大規模なゲリラ掃討作戦を即時停止し、ガザから撤退するよう求める決議案を協議、米国の拒否権発動により否決した。
 決議を支持したのロシア、フランス、中国、アルジェリアなど11カ国。英、独、ルーマニアは棄権した。
 米国のダンフォース国連大使は、拒否権発動の理由として、決議案はガザからイスラエル領内へのミサイル攻撃が起きている事実に目をつむるものであり、片手落ちであるとの見方を挙げた。一方、棄権した英国のジョーンズ・パリー大使は、決議案が片手落ちだとする米国の立場に同調しつつも、イスラエルの軍事行動は過剰であり、民間人に多くの死傷者が出ている点を指摘した。
 なお、過去59年間に米国が拒否権を発動したのは計80回、うち29回がパレスチナ・イスラエル紛争絡み。

 9月29日に、スデロットに着弾したカッサーム・ロケットによって幼児2人が命を落とす事件以降、イスラエル軍は戦車や装甲車200両を動員、ガザ北部で、2002年春の西岸大侵攻(「防御の盾」作戦)以来、最大規模となる軍事行動を起こし、これまでパレスチナ側に民間人も含め70人近い死者が出ている。

 スデロットはガザに近い、砂漠の中の言わば開拓村のようなところで、ロシア系移民とエチオピア系移民が多く暮らす。
 イスラエル建国後、アラブ諸国から移民してきたミズラヒームたちは、レバノンやシリアとの国境地帯など、危険な最前線の開拓村に送り込まれたが、一番新しい移民集団のロシア系とエチオピア系が、今ガザとの最前線に配置されているわけだ。
 
 エチオピアと言えば、レバノンでは、レバノン人家庭に住み込みで働くエチオピア人の家政婦をよく見かける。
 彼女たちの場合、手取りの給料は月に100ドルそこそこ。雇い主から暴力や虐待を受けたという話もよく聞く。
 それでも、祖国を離れ、家族と別れて出稼ぎに来る。そうしないと生きていけないのだろうと思うと、同情を禁じえない。
 スデロットでハマースのロケット砲の犠牲になった幼児2人もエチオピア系移民だった。せっかく移り住んだ新天地で、こんな目にあったのだからよくよく不幸な話だ。
 しかしなおかつ、2名を殺されたからと言って、掃討作戦を実施して70名を殺しているのだから、どう考えてもイスラエルのこのリアクションは過剰で弁護の余地も無い。    


イスラエル軍のガザ攻撃継続(10月2日)

 2日もジャバリア難民キャンプを中心に、イスラエル軍のゲリラ掃討作戦は続き、パレスチナ側に15名の死者が出た。これで過去4日間のパレスチナ側の死亡者は65名に達した。 
 同日早朝にはハマースとファタハのゲリラ4名が合同してイスラエル領内に侵入、銃撃戦の末射殺された。
 ガザのハマース幹部、イスマイール・ハニーヤは2日、イスラエルが攻撃を止めるなら、ハマースはカッサーム・ロケットによる攻撃を停止すると発言したが、同日ハマースの武装部門カッサーム旅団のゲリラ数名はジャバリア・キャンプ内で覆面を被ったまま記者会見を開き、イスラエル領内奥深く、アシュケロン市も今後ロケット攻撃の標的にすると宣言した。
 一方、パレスチナ自治政府はガザに非常事態を宣言、アラファト議長はイスラエルが劣化ウラン弾など、国際的に使用が禁じられている武器を用いてパレスチナ人を攻撃していると非難し、国際社会の介入を要請した。

ガザの紛争拡大(9月30日)

 イスラエル軍が一方的撤退を決めたガザだが、武装ゲリラとイスラエル軍の間の紛争は拡大しつつあり、イスラエル側の損害も甚大になっている。
 ガザからのカッサーム・ロケット攻撃に業を煮やしたイスラエル軍は29日に、ベート・ラヒヤ、ジャバリア難民キャンプなどで掃討作戦を実施、ゲリラを含めパレスチナ人9名を殺害したが、この掃討作戦中にもロケット砲はイスラエル領内のスデロット市を直撃、幼児2名が犠牲になった。
 さらに同日深夜から30日午前にかけて、カッサーム旅団のゲリラがイスラエル軍の駐屯地攻撃と、路上の待ち伏せ攻撃を敢行、4名のゲリラは戦死したものの、イスラエル軍兵士5名、入植者1名も犠牲になった。
 これに対し、イスラエル軍は30日午前にジャバリア難民キャンプの奥深くに戦車等で侵攻、パレスチナ人10名を殺害、午後にはやはりジャバリア・キャンプに向けて発射された戦車の砲弾で、パレスチナ人7名が死亡した。30日夜11時半のアル・マナール・テレビはこの日のパレスチナ人死亡者数は29名に達したと報じている。
 
 イスラエル軍としては、撤退後にハマースやジハードが
「イスラエル軍を武装抵抗によって叩き出した」
と主張出来ないように撤退前に何としてでもゲリラを掃討しておきたいのであろうが、ゲリラの攻撃も、ロケット砲攻撃も一向に収まらず、イスラエル側の被害も着実に増えるばかりで、焦りが募っているようだ。

(以下略)

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