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(回答先: かくて、戦争は続行されるーー絶対許せない蛮行発言を繰り返す各メディアとゆで蛙 投稿者 長壁満子 日時 2004 年 11 月 01 日 14:47:45)
>ここでも、私がイラク人のおびただしい無残な殺戮に憤りの発信をすると、ドコからともなく、トンチンカンなアラシレスがつきまとう。現実を直視できない典型的なゆで蛙は健在である。人災的な天災と、明確な意図であるイラク人民の殺害の区別もできない愚民相手のレスはしないつもりだが、いったい、この阿修羅板をどういう意図で参加しているのか理解に苦しむ。公安サイドと考えるには、余りに、その原稿が低劣かつ稚拙である。
ならば言おう。長い文章がお好みなら。
長壁は言った。
>私は「命の公正」、一人一人の命の重さは、いかなる政治的理由であれ、同等であると確信しています。
そう扱われないからこそ、憤りを感じ、糾弾しているのですが。
この言葉と
>1人でも少ない犠牲で、1人でも多く敵を殺し、どうか、今までの双方の死者数が平等になるまで、頑張ってください。否、イラク人の犠牲は1人たりとも、生まないようにしていただきたい。一万どころか五万以上の民がなくなっているんですって。
というこの言葉とはどこが矛盾しないのか。
命の公正さと言うものを考える時、それは明らかにどの国の国民であろうとなかろうと、まず同じであるというところから出発しなければいけないはずである。9.11以降からイラクへのアメリカの侵略までの期間、では長壁は何をいってきたか。そこで失われてた命の重みに言及してきたのだろうか。その命の重みを現在も同等のものとして認識しているのだろうか。9.11のテロ行為とイラクへの侵略行為によって奪われた命のその重みは同じであろう。
しかし、長壁の口から出る言葉は上記の通りである。
>1人でも少ない犠牲で、1人でも多く敵を殺し、というこの「敵」には長壁理論によれば日本人も入っているはずである。だが、これらの「敵」の「命」はいつのまにか、香田さんの一件来「一人ひとり」の「命」になり、あたかも「全ての」人間の「命」の重みを前提に論じてきたかのような、変わり身の早いダブルスタンダードを使い分ける。このいい加減さは底が知れない。
その心の深層にはアメリカばかりを(それに追随するものを含め)加害者と見て、一方を被害者としか見ない。このような膠着した論理はまさに怨念しか生み出さない。怨念というキーワードからしか世界を見る事ができないのが長壁である。だから、「1人でも少ない犠牲で、1人でも多く敵を殺し、どうか、今までの双方の死者数が平等になるまで、頑張ってください」という無神経な言葉を感情のままに平気で垂れ流す事ができるのである。
かつてのマルクス主義者達は自分達の基準に適合しない政治理念を持つ個人を否定し、個々人を政治的理念で色分けするという風潮でもって、あらゆる運動形態を破壊した。長壁が平気で「愚民」などと平気で色分けするのは、まさにこうした風潮の延長線上である。本人は世界平和を旗印に、御満悦に言葉を無神経に垂れ流しているが、色分けされた「愚民」に届くはずがない。こうした長壁の姿勢は滑稽さを通り越し、哀れでしかない。運動を呼び掛けながら実は運動の破壊者であるという自覚を持つべき最悪のプロパガンダが長壁自身である。運動を呼び掛けながら、相手を愚民扱いする。そして呼び掛ける論理の根底が怨念に凝り固まった復讐の念によるものであるならば、運動自体に混乱と無意味で無駄な時間をもたらすだけである。
かつて日本は朝鮮国に侵略した。豊臣秀吉の時代である。その後徳川家康は、朝鮮通信使を日本に派遣してもらい、国交の回復を図った。以後200年に渡り、両国の友好は続いたのである。朝鮮通信使によってもたらされた文化は数知れない。日本は朝鮮国に尊敬の念を持って接したのである。また、朝鮮国は惜しみなく自国の文化をつたえた。ここでは怨念という概念はない。このように国と国、人と人は心を通わせる事ができるのであり、また、我が国にはそうしたモデルケースが存在した。が、長壁にとってはこのような歴史も無意味な事であろう。あるのは怨念に凝り固まった復讐の念から発せられる言葉の垂れ流しである。
9.11以降現在にわたる悲惨な状況を回避する概念はテロも「悪」であり、イラク侵略も「悪」であるということに尽きる。そのことが「一人一人の命の重さは、いかなる政治的理由であれ、同等である」という言葉に帰結されるのである。「愚民」はその事を知っている。知らないのは長壁だけである。
次の言葉はもっと深刻である。長いスペースは設けないが。
>私は、自衛隊の派兵に反対しても反対しても強行する日本政府に、こうなったら、地震等天災で抑止してもらうしかないのではと思ったことがあります。人間の理性の微塵も感じられない今の世界状況に対して、もはや、「神の領域」での解決しかありえないのではと思ったのです。よその国に殺戮加担に行く気力など、地震でめちゃくちゃに吹っ飛ばしてもらった方がいいのではないかと思います。
この言葉は中越地震の後に出されたものである。刻々と伝えられる被害状況の中で、どれだけの被災者が不安で絶望的な時間を過ごしてきたか。ある人は目の前で家族をなくしたかも知れない。またある人は倒壊した家を、これからの自分の人生の不安と共に見つめていたのかも知れない。そんな中、「よその国に殺戮加担に行く気力など、地震でめちゃくちゃに吹っ飛ばしてもらった方がいいのではないかと思います。」と、平気で言う。この人の痛みを解らぬ無神経さと想像力の無さはどれだけの人間の心を引き裂くか。これもまた、「反戦」に耳を傾けない愚民に対する怨念の賜物である。たちが悪いのは長壁自身の怨念から発せられたものであるからだ。
>私は、今回の戦争のまやかしと、延長線上にある日本政府の災害対策のお粗末さ、同時にいかに政府には国民を救う視点が無いかということを、声を大にして訴えているつもりである。
などと言うのは詭弁にしか過ぎない。「今回の戦争のまやかしと、延長線上にある日本政府の災害対策のお粗末さ」のさらなる延長戦上には最高十万人の被災者と37人の死者がいる。「よその国に殺戮加担」している愚民であろう。その愚民に向かって上記の言葉を見せ、賛同と同意を得たという報告と共に反論を待ちたい。
(本文中、愚民は「茹で蛙」とほとんど等しい意味として扱う)
なお、HDの投稿が禁じられているのならともかく、そうでないならば、「己の名さえ恥ずかしくて出せない輩」などというのは無意味である。