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Re: ある老年キリスト者の(苦しい)思索 - 2
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投稿者 NAVI 日時 2004 年 11 月 13 日 02:37:33:HX//G5Ne7CBAk
 

(回答先: 福音派ロックとファルージャ総攻撃 [町山智浩アメリカ日記 2004-11-09] 投稿者 レイ 日時 2004 年 11 月 13 日 00:10:09)

求道者へ(2)       2003/3/31 井上圭典
 
 米英合同軍によるイラク攻撃に関して、日本のキリスト教会の中でも、その是非を巡って異論がある。それもはっきりと2分されているのではなく、日光をプリズムで分光させるとスペクトルが現れるように分散された状態にある。前回に続いて、まとまりのない断章を綴る。推敲して批判を受けないような文章を書こうという意図は全くない。答えの見いだせない何故を共に考えるための、老年キリスト者の発言である。共感する人もあれば、反発する人もあろう。
 
●戦争は政治家の頭の中から始まる
戦争は実際にドンパチが始まる前から起きている。政治家が戦争を決意した時から情報戦争がはじまり、「真相」を覆い隠すための「大義」の画策が始まる。と同時平行してに勝利のための戦略・戦術が練られる。
 たとえばテレビの戦争画面の「画像」は事実には違いないが、全体の事実の一コマに過ぎない。無数にある画像から報道管制というフィルターを通過し、さらに通信社の幹部の認可を経て、われわれはその画像を目にすることができる。
 そして、画像は事実の一部であり、その事実を無数につなぎ合わせても、「真相」に迫ることはできにくい。「真相」は政治家の頭の中に存在するものである。「真相」の一端は政治家の回顧録から窺うことができるが、それは粉飾されていているものである。第一リアルタイムで知ることができないのが欠点である。
 結局我々は、事実の積み重ねと、過去の諸々の真実から、現在の「真相」に迫るしかない。
 しかしながら、我々は刻一刻起こりつつある事象に対して判断を迫られる場合がある。事実を前にしてそれをどのようにとらえ、予測するのか。その判断の基準にあるのは、それぞれの持っている倫理でり、直感であり、好悪であり、信頼する識者の論であり、マスコミであり、友人・家族であり、インターネット情報であり、歴史観であり、法的な社会規範であり、場合によっては憲法解釈、国連憲章の自分なりの解釈である。世論調査などで即答を迫られる場合は、以上のような基準の総合的判断を、意識的にか無意識的にか行い回答するのであろう。
 時の経過とともに事実が積み重ねられてゆくと、世論も変動する。対象社会が生み出す事実が変動すれば世論も変動する。これはまともな変動、当然の変動である。世論は事実の関数なのであるから。問題なのは、対象社会を政治家が人為的に変動操作することである。事前に世論を操作して変動させ、世論を錦の御旗として堂々と政策を推進する場合である。
 
●戦果報道から考える
 自爆テロは日本の特攻攻撃と同じではとの意見に、ある好戦的な評論家か激怒した。特攻は戦時中のことで崇高な精神から出たもの、テロとは次元が違うと。この場合の次元とは、戦争倫理とか正戦理念とかの違いのことを言っているのだろうか。日本の陸海軍の特攻攻撃には数千人が参加し、天皇の賞賛を得ている。現在、イラクは米英合同軍の侵入と戦っている。戦時中となった。それでも自爆テロという言葉が使われている。フセイン大統領はジハードを実行せよと呼びかけている。「自爆テロ」もその実行形態の一つである。先の評論家はどのように評価するのであろうか。
 米英合同軍は、市民だか民兵だか区別がつかないという。市民の格好をした民兵を自衛のために殺戮できるという。区別のつかないものを、区別することを現場の戦闘員に要求する。頭が狂ってしまうであろう。
 南京大虐殺は多数の非戦闘員を銃撃したが、非戦闘員の服装をした民兵・正規兵(便衣兵)が混ざり込んでいたという弁護論がある。村落に民兵が逃げ込んだら、それを見つけ出すことが不可能だから村全体を焼き討ちにする戦術を中国戦線では行われていた。
 体制が崩壊、あるいは崩壊に近い状態でも、山河、村落、住民の生活は存続する。そのような環境に武力攻撃を仕掛けられたたら、抵抗は当然である。体制を守るためではなく、村の命、生活防衛のための抵抗である。
攻撃する側の大義はすでに失われいる。それは自衛権を奪い去る行為となる。地上戦は村落共同体が「人質」とされ、双方からの挟撃の対象となる。どちらも「人質」を守るため、奪い返すためとと称して、多数の犠牲者が出るだけに終わる。降参しようとすると後方から撃たれ、降参しないからと前方から撃たれる。
 太平洋戦争(最近では大東亜戦争という戦時中の呼称が大分盛り返してきた。)が始まった当時、軍国歌謡で「東亜侵略百年の野望をここに覆す」「ああ、一億の胸鳴る」というのが流行った。怨念というマグマの大爆発を誘発し、戦争エネルギーに転換しようとしたものである。西欧諸国の植民地戦争への「義憤」は日本国民の中に確かにあった。「東洋平和」のための戦争論はそれなりの説得力はもっていた。実態は違っていたが。今回の紛争の奥に潜むものへの考察は欠かせない。肉体を殺しても精神は奪えず、それは人から人へと受け継がれてゆくものである。それを政治家が善用するか、悪用するかはともかく。
 
●群れの一人一人に働く求心力と遠心力
------ヘレニズム文化の分析・理解法
 人類の戦争の歴史は、それぞれの地域の支配者の心のなかに宿った「支配衝動」の衝突の歴史であるように思われる。人類は「群れ」として、一つの集団を形成しないと存続できない。赤ん坊を一人野原に置いておけば数日して死んでしまう。乳離れした後でも生きてゆけない。しかも、人は成長の段階で社会的な訓練・教育を受けなければ集団生活を営むことができない。しかも、集団には指導者が必要である。家族の長が必要であり、村落の長が必要であり、国の長が必要である。
 ギリシャの学者の言葉であるが、人間は指導者が必要である。しかもその指導者も人間であるが故に、指導者が必要である。最高の指導者とても例外でない。最高の指導者に指導者がいるなら、それは最高の指導者とはいえない。人類の悲劇性はここにあると。
 人類は「群れ」として一丸となって、マンモスに立ち向かうことができた。「群れ」ることは人類にとって「存続」の絶対の必要条件であった。しかしながら、人間の心には群れへの求心力とともに群れから独り立ちしたいとの遠心力も働いている。求心力は「平安、安全保障、秩序」をもたらすとともに、人間の心をしばる諸々の規範力としても働く。遠心力は「自由」への希求である。束縛から自由でありたいとの根元的な願望でもある。 求心力が強い国は、独裁国家であり、遠心力が強いと規律・秩序が弱く、最後にはアナーキーとなる。求心力と遠心力とが均衡した国家が理想の国家となるが、それを成り立たせるのが理想的な指導者である。
 人類の歴史を客観的に眺めてこのような議論を積み重ねてきた、その発端はギリシャの哲学者者達である。その流れは西欧の歴史観・人間観を強くリードしてきた。具体的な事例を抽出して概念を措定し、概念相互を論理の操作でつなぎ合わせ、元にもどって具体的な事例を説明したり、理解したり、あるべき姿への指針とするという操作を繰り返してきた。この間に概念もそれを説明する言葉も、論理操作も記号化されて一般の人には近づけなくなってきた。このような流れ、根元に神を措定せず、人間の理性をもとに、またそれを道案内に作り上げた文化を、ヘレニズム文化と総称しているようである。
 
●一切の事象の背後に神の手-----ヘブライ文化の分析・理解法
 しかし、これとは全く対極的な流れが旧約聖書・新約聖書に立つヘブライ文化である。これは神が地球、地球環境、動植物、人類を創り、人間にこれらの支配を委ねたが、隠れた最高の支配者は神であるとの文化である。神は万物の根元であり、また万物を支配される方である。人間の目に見えるものを作るだけでなく、見えないもの、たとえば心、を支配される方の実在信仰を基礎にした文化である。日本長老教会はプロテスタント教派の中のカルヴィニズムの流れを汲んでいて、この隠れた最高の支配を神の主権と称している。この世に起きているすべての事象の背後に神の手が働いているとの信仰である。
ライプニッツの「予定調和」、アダム・スミスの「神の見えざる手」などもヘレニズム文化思考法の底にヘブライ文化思考法が見られる。
 
●西欧の文化-----ヘレニズム文化とヘブライ文化との混淆
 しかしながら、西欧の文化はヘレニズム文化とヘブライ文化とが、あざなえる縄のようになって一本のようになって、それを切り離すことができない。相矛盾する文化、特に人間中心と神中心の文化が緊密に結び合わされて、ある時代には融合し、ある時代には結合がゆるむという歴史を経てきている。カルヴィニズムとてその例外ではない。カルヴィニズムの唱道者はジャン・カルヴァンであるが、カトリック教会の役員の子として生まれ、法律を勉強する。当初ユマニスト(ルネサンス時代の人文主義)として立ったが、やがてプロテスタントに回心し、宗教改革の神学を組織化した人物である。
 
●自然科学と社会科学
 科学技術分野で生きてきたものとして、以下のように考えている。いずれの研究の基礎には厳しい倫理の規制がなければならない。
 物を数える場合、手の指10本からの10進法、手足の指20本からの20進法が発達したが、経済・交易活動が発達すると、12進法が発達した。12は2,3,4,6で割れるので、割り算が苦手の中世人には便利な表現法であった。負数が考え出され引き算の世界は広がり、更に虚数が導入され、ベクトル算法、行列算法、などなど、自然現象を表現し、解決するために次々と数学的手段を進化させてきた。ニュートンの力学法則と万有引力の発見は、自然界の現象を力学という武器で説明し、予測できる道を開いた。これに触発されて社会現象をニュートン的な手法で解明することを学者は試みた。社会現象を単純な原理があって、それが複合したものとして社会現象を説明し、予測することを試みた。
 科学の研究・実験でも無数の犠牲者が出、その犠牲の上に科学が発達する。犠牲を恐れては発達は不可能な面がある。
 社会科学のうち、政治理論などは、実験した場合大変な犠牲者がでる。経済理論などの適用で人民は苦しまなくてもよい貧困を経験する。ある体制がある国家理論を実際に当てはめ、経済政策をある経済理論で推し進め、それがうまく適合しなくなると、その矛盾・しわ寄せを人民に押しつける。その犠牲は科学に実験の被害者の比ではない。
 アメリカの科学技術の研究開発の手法は、フロンティア精神があって、どんどん未開の分野を開拓してきた。その成果が人類に便利さをもたらした。コンピュータを世界のネットワークに結びつける通信技術、カードによる買い物などが卑近な例。その裏に危険性・犯罪性が常に潜んでいるが。
 アメリカの新保守主義は、政治思想の分野を開拓者精神で、アメリカにとって不都合だということで、古いヨーロッパ生まれの政治思想を脱ぎ捨て、新しい政治思想をうち立て、それを先端技術の助けをかりて、イラクに戦争を仕掛け、「思想の実験場」化としている。
科学技術畑の人間として、自然科学の実験ではないぞ、いい加減いしろと言いたい。 
 政治思想には厳しい政治倫理が裏打ちされていなければならない。科学も、核・遺伝子操作・情報などが厳しい倫理の裏打ちがなければならない。
 
●日本のキリスト教、特に政治運動
 日本のキリスト教は、日本人の民族性・文化・伝統を必然的に背負いつつ、西欧文化が築いたキリスト教を受容してきたものである。木にに竹を接いだような点がある。とくに人間観・歴史観はキリスト教のものを選択している。しかし、それが身に付いているかどうか。いや、身に付けなければならないのだろうか。
 織田・豊臣時代にはキリシタン大名も出たほどにキリスト教が一時、開港地を中心にして広がっていった。しかし豊臣秀吉の禁教令以来、激しい弾圧で信徒は激減し、一部の信徒は地下に潜るほかなかった。徳川時代も禁教令は継承された。
 島原の乱、一向一揆(これらの用語は政治の側からの反体制という意味合いがあるが)などは、宗教が政治の家僕である限り、政治は宗教を飼い慣らして保護するが、その枠をはみ出し、宗教が政治を批判・反抗するようになると政治は宗教を徹底的に弾圧するようになる。日本の場合政治がすべての上位にあってすべてに君臨する。宗教指導者が政治家気取りとなって権勢を振い時の権力と衝突するのは、宗教の政治的利用で戒められねばならない、弾圧を法難と言い張るのだろうが。、
 明治維新の政策は、統一国家成立のための求心力として「尊皇攘夷」精神・心情を採用し、統一がなった時点で近代国家を成立させるために「開国」は必要条件となった。近代国家の制度文物を移植するため高給で外国人を雇い入れた。お雇外国人の「外圧」の中にキリシタン、邪宗門の解禁、日曜日休日などがあった。禁制の高札の取り下げ理由は、十分周知されているからいつまでも掲げていることもあるまいというのであった。「攘夷」は「開国」となったが、政策の変更はあったが「尊皇」は維持され天皇を国家の機軸にした。「王制復古」「神武創業」の昔に帰るというのであった。政治思想としては後期水戸学(国学)を基にした。「和魂洋才」のスローガンが西欧文化受容に際してのフィルターの役目をした。
 明治期のキリスト教は宣教師によって養成された元武士階級出身者が指導者となって広がっていった。この特殊な出発が日本独特のキリスト教を形成してきた。
 伊藤博文が憲法の先頭に天皇を置いたのは、西欧ではキリスト教が国家の機軸となっている、日本では機軸になるものは天皇であるとしたからである。この時点でキリスト教は少なくとも国家の機軸とはなりえず、その周辺にある存在となっていった。周辺から中心に近づこうと試みた指導者がいたが、信仰を貫きつつ近づくと挫折させられ、信仰を捨てると中心近くには入り込めるという状態が続き、戦後の現在もその様子は変わらない。国家の機軸が天皇である限り、国家を動かす政治家がキリスト教信者では都合はわるいことは当然。キリスト者政治家は、キリスト者であるつつ政治家であることが、日本では二律背反の苦悩を背負ているのである。キリスト教主義で政治を動かそうということは、国家の機軸を天皇においている明治体制を根本から変革してキリスト教を機軸に置き換えるという大難事業に取り組むことから始めることを意味する。モーセのような指導者でも、奴隷状態におとしめられていたイスラエル民族を解放するためにはエジプトを脱出しなければならなかった。日本の居続けつつ日本をキリスト教国家にすることは不可能事に近い。ところが、外国人宣教師はその変革を難事とは思ってない節がある。現在、日本のキリスト者が行っている政治的な運動の大半は、キリスト者が多数派となれば、必要ないものとなるとの楽観論である。まず多数派工作を、すなわち福音宣教を、というのである。これははき違えてた考えで、キリスト者が多数派となっても、政策が正しければ多数でそれを曲げてはならない。危険をはらむ考えである。 
 
●預言者の伝統
 旧約聖書には預言者が存在していた。預言者とは神のことばを預かっている人のことである。王室のお抱え預言者もいれば、在野の預言者もいる。王はその政策決定に預言者の意見、すなわち神の意志を参照している。在野の預言者は王の政策を批判した。王の上に神がいたのである。王の内面に芽生えた政策は、常に預言者によってチェックを受けていた。すなわち、神の承認を得ていた。最高の指導者は王であるが、究極の指導者は神であった。神の言葉は巻物に記されていたし、口伝のものもあった。政治が王の恣意によるものではなかった。参照されるべき基準があった。政策に継続性、安定性があったということである。
 古代ローマは一地方都市国家が急成長し、共和制政治を採用し、次いで君主制そして帝国になった。その帝政の時期にキリスト教が公認宗教となった。この頃教会には預言者と呼ばれる者は存在しなかったが、教父と呼ばれる学者がいた。この人達はイエス・キリストの使徒の教えを正しく伝えているとされ、たとえば、キリスト教徒が軍隊に入り、戦ってよいかどうかの最終決定者となっていた。
 
●旧約聖書にみる神による人間の罪の審き
----洪水・言葉の乱れ・都市の滅亡・戦争・捕囚----
 旧約聖書には壮絶な戦争が数多く記されているが、イスラエル民族のカナン侵入では、カナン人が皆殺しに近い被害を受けている。その後の戦争ではイスラエル人とペリシテ人(現在のパレスチナ)との絶え間ない戦争、イスラエル民族が大量捕虜となる戦争などが記されている。聖書は人間の罪を主題にしていることからして、罪の処理の方法、罪の結果の状況などが書かれている。戦争も罪との関係で記されていると見られている。聖書は戦争を肯定していると単純に見てはならない。
 一つの見方は、ノアの洪水の事件からの歴史から考える。人間を創った神は、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな悪いことだけに傾くのを」見て「人を地の上から消し去ろうと」決心し、地上に大洪水を起こし、箱船に乗ったノアと家族と動物達を除き、全部滅ぼしてしまった。
 このノアの子孫が、バベルの塔を築き神に対抗しようとしたとき、神は人々の言葉を乱し、一致団結して神に逆らうことが出来なくした。
 神は、ソドムとゴモラの町が罪に満ちていたのでそれを滅ぼすことを、アブラハムに告げた。アブラハムはその町に一人でも罪のない人がいたら、神の正義に悖るのではないかと、神に抗議している。
 その後に、カナン侵入の記事、人と人との戦争の記事が出てくる。これはカナン人の罪の増大に関係する。ノアの洪水、バベルの塔、ソドムとゴモラの滅亡、カナンの皆殺しも、人間の罪の処罰とみる。
 もう一つの見方として、シャロームという言葉にその鍵を求める。シャロームとは、決してカオス(混沌・無秩序)の侵入を許さない領域、また、その中で命が、それを衰えさせたり滅ぼそうとするあらゆる脅威から自由になって発展することができる領域を指している。このシャロームの領域に侵入してそこをカオスの状態にさせる力をミルハーマーと呼ばれている。このミルハーマーの中に戦争という概念が含まれている。また、ミルハーマーの侵入を押し返す力も一種の秩序再建のための争いである。ある人がシャロームの状態にあるとは、単に健康な状態にあるというだけでなく心身ともに充実しきった状態のことで、人との出会い、別離の時の挨拶ともなっている。共同体がシャロームの状態、国家がシャロームの状態も同様な意味をもっている。
 非情な神、峻厳な神というより、人間の罪深さ、神への反逆という立場から聖書を読みたい。
 米英が善、イラクが悪というつもりも、イラクが善、米英が悪よいうつもりもない。神は、悪を持って悪を滅ぼし、その生き残った方の悪をまた滅ぼすというような手法をとられる。絶対の正義というものは、罪あり堕落した人間世界にはあり得ないから、悪を用いざるを得ないという神がわの事情があるのであろうか。
 人間の罪の救済者メシアの到来を予告し、旧約聖書は終わる。
●新約聖書も人間の罪の指摘を止めないが、救い主の到来、救いへの道も示される。そして人とこの世界の終末を語り告げる。
 長老教会の教理では、人間は全的堕落の状態にある。全的とは知・情・意のすべてにわたることをいう。やることなすことすべて完全だということはあり得ないとうのである。人間がエデンの園に置かれた状態(堕落前の状態)に回復する道は、救い主イエス・キリストへの信仰であると教えている。救いの完成は終末時の復活のときである。
 人間は自由意思が与えられ、自己の責任においてすべてを決断し、実行する。神は人間に産めよ増えよ地に満ちよ、そして神が創った一切を支配するようにと委ねられた。神はすべてを創りそれをすべて善とされた。それを善とし続けるよう委託されたものである。いたずらに戦争して地上を荒廃させることは委託に応えることにならない。
 
●戦争という「野獣」を「家畜」化するための歴史、法的な束縛、倫理的な束縛の試み
 旧約聖書の戦争から、戦争一般のの話に戻るが、人類は「戦争という野獣」と格闘し、これを飼い慣らすための努力をしてきた。まず、法律の支配下に置こうとした。グロティウスの「戦争と平和の法」がその代表である。開戦と交戦のルールを作ってきたのである。最近盛んにウェストファリア条約が持ち出される。これは「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と呼ばれるように、主権国家の分立がここに始まり、国家間の戦争はルールに則れば可能となった。この正義の戦争論はやがて無差別戦争論(開戦のルールによる正戦論は破綻し、戦争に区別はつけられないとした)に学説は移った。この頃、ヨーロッパ諸国のアフリカ、アジア植民地争奪が続いた。相手はキリスト教統一社会が分裂して生まれた主権国家ではないから、戦争ルールは適用されなかった。”喜望峰の東では、良心は無用”などと公言されアジア植民地争奪戦は続いた。しかし、第一次、第二次大戦を通じ近代国家間の戦争では交戦ルール生き続け、その精神は国際連盟、国際連合などに引き継がれている。
 この国際連合の在り方では無法者国家は縛れないという理屈を立て、単独先制攻撃を合法化するようにとの論がブッシュ・ドクトリンと呼ばれているものである。この理論の提供元がアメリカ新保守主義である。
 さらに、兵器の殺傷能力の向上に伴って、倫理の上からも交戦ルールに網をかけようと国際世論は高まった。核兵器は戦闘員も非戦闘員も差別なく大量殺戮の兵器でるから、人道上使用してはならない。バランス・オブ・パワーの戦略兵器として睨みをきかすだけに止め置かれている。 精密誘導ミサイルは戦闘員、戦闘施設だけを破壊するから、「人道的兵器」だとされる。弾道ミサイルは、ならず者国家は持ってはならぬとされている。ならず者すなわち無法者であるから国際法規を無視して、弾頭に核・生物・化学をつけて戦争行為をするおそれがあるからだという。
 最近のアメリカ軍兵器は、核・生物・化学でなければよいとばかり、異常に殺傷力の強いものになりつつある。これらも国際間の話し合いで倫理の網をかぶせ規制すべきであろう。テロが無法の野蛮なら、このような兵器は「合法」(?)な野蛮である。開発当事者が選び抜かれた科学者であり、指示者が合法的な権威者であろうとも。
 
●カインとアベル----恨みを持つ人間
アダムとエバとの間にカインとアベルが生まれた。兄カインは土を耕すもの、弟アベルは羊を飼うものであった。神のカインとアベルに対する取り扱いに差別があるとみたカインはアベルを野に誘い出し殺してしまった。何で打ち殺したかは記してないが、何か耕作器具を使ったのかもしれない。
 包丁は調理のため、鋤・鍬は耕作のため、自動車・列車・民間航空機は輸送のためにあるが、ならず者はこれらを殺人兵器として転用するというのである。
 文明の利器は人類に大きな益をもたらしたが、目的外使用の禁止が暗黙の了解事項である。文明人には通用する注意事項は、野蛮人には通用しないという。確かにそうであるが、文明人の間から野蛮人が生まれるのではなく、文明人が知らず知らずに文明人を野蛮人に育て上げてしまうのではないか。
 「気狂いに刃物」の被害は狭い範囲の事件だが、独裁国家が人民を動員して大量破壊兵器を振り回せば、その被害は計り知れない。その予防にはどうするか。これは難問であるが、武力征伐だけが唯一の選択ではない。国際間で時間をかけて説得する選択もある。
 同時にならずもの国家を生み出す土壌を消滅させる努力が国際間であらねばならない。9・11事件の起きる以前の50年も前からCIAの間では「ブローバック」ということばが内輪で使われていたという。これだけ全世界に謀略を繰り返していたら、いずれその揺り戻しがくるだろう。それを「ブローバック」という隠語で使っていた。それが徐々にジャーナリズム、政治家の中に広まったという。強者の抱く底知れない恐怖がそれをさせたのであろう。チャルマーズ・ジョンソン(米国国際学者)は9・11事件のようなものを数年前から予告し、著書・論文で警告してきた。
 
●目的と手段、それ以前の動機
 「目的達成のためには手段を選ばない」ということがいわれる。これは否定的な、許してはならない意味を持っている。しかしながら実社会ではこのようにして目的を達成して優位な地歩を占める場合がある。
 目的がよくても手段が悪い場合、目的はよくないが手段は悪くない、目的も手段もよい、目的も手段も悪い
など、目的と手段との関係は様々である。さらに目的・手段がよいか悪いかの判定が分かれるのは普通である。 国家間の戦争では国際的な取り決め、ルールをつくりそれで、目的・手段の善し悪しを判定するしかない。
 野蛮な行為を取り締まるためには、結局野蛮な手段に訴えざるを得ないと諦観する人がいる。しかし、そのような人でも、野蛮な行為をするかも知れないからと、先制的に野蛮な行為をすることは是認しないであろう。
 それをしも是認する人は、タカ派というより、野蛮派というべきだろう。
 
●キリスト者の祈り
 冒頭で米英合同軍によるイラク攻撃に対するキリスト者の意見がばらばらであると書いたが、それが事実としても、互いに自説を強く貫かない。その大きな理由は、この戦争の背後にも神の御手が働いているとの信仰がある。複雑な事件を決定的に断定することは神の領域に踏み込むことになるからである。このような場合、為政者のために熱心に祈りなさいと勧められる。それは神が為政者の心を変えさせてくださるからだとの信仰から出たものである。為政者も悩みに悩んでいる、責任の重さにうちひしがれている。想像もできない位の重荷に耐えることができるよう励ますこと。また戦場にいる両対戦国の兵士の恐怖が早く取り除かれるように。国家の命に従って戦場に立っているが、人間としての心に平安があるだろうか、それを思いやる心でもって祈るように。攻撃を受けている市民の苦難が一刻も早く除かれるように。これらの祈りは、戦争そのものへの意見の相違を越えて祈られねばならないし、事実共にそれを祈っている。各教会の祈祷会の共通の課題となっている。
 戦争は人類の悲劇である。その悲劇を今一部の人間が直接に負わされている。その痛みを早く取り除こうと世界中の市民が街頭に繰り出している。その人たちは直接・間接に痛みを知っている人たちである。
 祈りは、当然の結果として行動と発言などに導かれる。平和に向けての活動を励まし、支え、後押しするのは一人びとりの決断に属する。誰がすすめるからとか、誰が制止するからとかで左右されてはならない。
 
 
以下の資料1,2,3は 2002年10月09日(水)萬晩報通信員 園田 義明 の記事から抜粋
 
資料1.ブッシュ・ドクトリン(2002/9/20)の大要
・自由と全体主義の戦いは「自由」の側の勝利に終わり、今日の敵はテロリストの暗黒のネットワークだ。この敵は大量破壊兵器を獲得しようとしている。
・世界の力のバランスで自由諸国が優位に立つことが、米国の目標だ。
・我々は、テロリストとテロを支援する者とを区別しない。米国は国際社会と協調するが、必要なら単独行動も辞さない。
・冷戦時代は抑止戦略を強調したが、ソ連崩壊で環境は激変した。テロリストは国家を持たず、伝統的な抑止は機能しない。必要ならば先制行動も辞さない。
・これまでの開発援助は最貧国の経済成長を促進せず、失敗した。今後、本当の内政改革を行った国に対して援助を大幅に増やす。
・日本には、地域や世界規模の問題で指導的役割を期待する。中国が強く平和的で豊かであることを歓迎するが、依然、一党独裁を維持している。
・現在の米国の国防組織は、冷戦時代に構築されており、すべて改革が必要だ。米国の力を凌駕しようとする潜在的な敵国を思いとどまらせるため、我々は十分な軍事力を保持するであろう。
(読売新聞「米国家安全保障戦略」要旨より)
 
新戦略は、共産圏を目標とした冷戦時代の「封じ込め」や「抑止」戦略から転換し、テロ撲滅と大量破壊兵器の脅威には、単独での先制攻撃もためらわないとしている。
ブッシュ政権のユニラテラリズム(アメリカ単独主導主義)の集大成とも言われている。
資料2.アメリカ新保守主義者(ネオコン)の論客 ロバート・ケーガンの論文の反響
 ネオコン系シンクタンク「新しいアメリカの世紀のためのプロジェクト」1997年(PNAC=Project for the New American Century)の設立者の一人ロバート・ケーガンはの論文
『Power and Weakness』 がヨーロッパの指導者に衝撃を与えている。
 
 欧州と米国の違いが修復不能な状態に達し、米国の新世界秩序建設にとって欧州はいわば「用なし」になったと書いている。そして米欧関係を「虚構」と決めつけ、「互いに道が分かれたことを認め合おう」と呼びかける。それは、離縁状とも受け取れる内容。
「力に背を向けて、法と規律、交渉と協調を重ねればカント流の永続平和を築けるという理想論にひたっている」と欧州を批判し、米国の世界観は「万人の万人に対する闘争」というホッブス流の無秩序・無政府的世界だとする。
 ネオコン系の論客である「歴史の終わり」を書いたフランシス・フクヤマも「西欧文明における民主的正当性という問題で、米欧が異なる観点を持つことの反映である」とし、『西欧』という言葉や観念でくくられていた世界の崩壊の兆しだと指摘している。
 
なお、PNACの設立趣意書には「レーガン時代の強力な軍事力と道徳的外交を堅持し、自由、民主主義などの原則を世界に拡大する」とうたっている。
資料3 ブッシュ政権の配置 ユニラテラリズムとマルチラテラリズム
 ▼ユニラテラリズム(理想主義派)
 新保守主義者(ネオコン)=新帝国主義者 米単独でのイラク攻撃を主張
 ・ポール・"ヴェロキラプトル"・ウルフォウィッツ国防副長官(PNAC)
 ・リチャード・"プリンス・オブ・ダークネス"・パール国防政策委員会委員長(PNAC)
 ・ルイス・"スクーター"・リビー副大統領補佐官(PNAC)
 ・ジェームズ・ウールジー元CIA長官(PNAC)
 ▼ユニラテラリズム(現実主義派)
 攻撃的な現実主義者(本流) 米単独でのイラク攻撃やむなし
 ・リチャード・チェイニー副大統領(PNAC)
 ・ドナルド・ラムズフェルド国防長官(PNAC)
 ・ジョン・ボルトン国務次官(PNAC)
 ・コンドリーザ・ライス国家安全保障問題担当大統領補佐官
 ・ヘンリー・キッシンジャー元国務長官
 ▼アメリカン・マルチラテラリズム(現実主義派)
 防御的な現実主義者(本流) 国連安保理新決議によるイラク攻撃
 ・コリン・パウエル国務長官
 ・リチャード・"ショー・ザ・フラッグ"・アーミテージ国務副長官(PNAC)
 ・ブレント・スコウクロフト元国家安全保障問題担当大統領補佐官
 ・ジェームス・ベーカー元国務長官
 ・ズビグニュー・ブレジンスキー元元国家安全保障問題担当大統領補佐官
 ・ブッシュ・パパ元大統領

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