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(回答先: 香田証生さんの悲報に接して。 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 10 月 31 日 13:11:19)
「自分探し」と言い、この時期にふらふらとイラクへいったという点だけが大きくアピールされた。
ちなみに、世代を通して、世間一般の声は、(この被害者男性にたいして、)
「あらまぁ、今回のは(自分探し)もう、どうなっても仕方ないね」という声に納まっている。
論点は政府の「前回とは違う」というキーワードに始まり、
青春、若さ、という言葉をすぐに連想させる「自分探し」というキーワードは、
すぐに「勝手な行動」として結び付けられる。
必ず、「呆れ果てた」と結論に終着するようになっており、それ以上何を?と言い捨てるしかなくなる。
きっとこの「なるべくしてなった」と思わせる結果に、前回と同様、リスク論に業を煮やした、独自の考えを持たない(国民含め)連中はみな、ほっと胸をなで下ろし、納得の弁を堂々と採るのではないか。
このままでいくと当然、政府の対応を責めるものや、メディアの論評には疑問を呈する間は殆ど現われないでしょうか。
-巧みにそそのかした人間はいないのか?-
-自分探しとは、そもそも何か?-
-何故それが戦場にあると感じていたのか?-
-イラクに対する同情、またはこうした略奪者による戦争と言うものに憤りを少しでも持っていたのか-
だというのならばだ。
間接的にも大量兵器など皆無のイラクへの、"侵略奪戦争"を支持した政府、その取り巻きメディア、
その連中には間接的にも責任がでてくるんじゃないか。
「"自分探し"に若者をイラクへ行かせる」事への責任は、この国の政府がでっちあげの大義名分で、
「戦争支持」した事から生まれている。
その事から生まれている事への世界の不和状態、不調和、若者はじめ、全世界の弱者に対する精神の対応を、今こそ責任追求出来るだろう、その対応に対しての責任が有るだろう?
もし今後、そうした疑問の声がネット上または雑誌類で取り上げられた時、
その後に被害者である彼の、その行動に現れる"人間性"などがメディアを通じて、
"他人の手"によって明らかにされ(創られ語られ)るかに注目してみたい。
もう既に、天にきらめきを放ち点在する疑問符は、線で結ばれその姿を現わすのを待ち焦がれているようだが。