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(回答先: 「北朝鮮崩壊で中国に吸収」 米元特使講演に韓国与党ビックリ (産経新聞) 投稿者 愚民党 日時 2005 年 1 月 17 日 05:14:35)
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趙紫陽氏死去 「天安門」どう再評価 胡政権、重い課題
党信頼回復には不可欠
【北京=伊藤正】天安門事件で失脚した中国共産党の趙紫陽元総書記の死去に関し、胡錦濤政権は、これを契機に事件の再評価要求が内外で高まり、一党独裁体制批判に発展するのを警戒、言論統制を強化する構えを見せている。社会の安定を優先しているためだが、いずれ事件の再評価は避けられないとみられている。
中国国営新華社通信は十七日、趙紫陽氏の死去を約二時間後という異例の速さで報じた。新華社は同時に「関係部門の通知により、この記事は新聞、雑誌向けで、テレビ、ラジオは使用しないこと」との「注意」文を流した。海外の報道を意識し速報したものの、国内への影響に神経をとがらせている表れだった。
天安門事件は、一九八九年四月の胡耀邦元総書記の死去を機に、学生の追悼デモが起こり、それが広範な市民による民主化要求デモに発展した結果だった。一九七六年四月の第一次天安門事件もその年一月に死去した周恩来首相追悼活動が契機になった。
天安門事件から既に十六年近くたち、事件の記憶も薄れつつある今日、趙紫陽氏の死が胡耀邦、周恩来両氏の死去時と同じような市民の追悼活動を呼ぶ可能性は小さい。しかし事件当時に比べ、社会矛盾ははるかに拡大し、各地で騒乱事件などが頻発しており、中国政府は趙氏の死が社会に充満する不満爆発の引き金になるのを警戒しているようだ。
八九年の民主化要求デモは、民主化を推進した胡耀邦氏が解任され、特権構造を維持しようとした党保守派への異議申し立てだった。それに対し趙紫陽氏が同情的態度を取ったのは、トウ小平氏を中心にした長老支配という不合理な一党体制の改革を目指していたためだった。
趙紫陽氏は自宅軟禁になった後、新華社の楊継縄記者のインタビューを三度にわたって受けたが、楊氏の近著「中国改革年代の政治闘争」によると、九六年には次のように述べている。
「トウ小平は政治は保守、経済は放任し、発展すればいいという考えだったが、政治権力を集中したままで、経済を発展を図るのはだめだ。腐敗など社会問題の根源はそこにある。綱紀粛正や教育といった古いやり方では問題は解決できない」
当時の江沢民政権が政治改革を封印し、「経済に政治をどう適応させるかの議論をタブーにした」ことへの批判だが、この指摘は胡錦濤政権にも通じる。胡政権は、一党独裁制を堅持するため、言論統制を強化、政治改革に関する研究の発表さえ禁じているからだ。
経済発展に伴う矛盾の拡大する一方、社会の多元化が進む中で、政治改革と民主化への要求が高まるのは確実だ。
胡錦濤政権が真の安定を目指すなら天安門事件を再評価、政治改革に着手せざるを得ないとの見方が中国国内でも少なくない。
◇
《趙紫陽氏の主な足跡》
1919年 中国・河南省で出生(10月17日)
38年 中国共産党入党
65年 広東省党委員会第1書記。2年後に文化大革命で失脚
71年 内モンゴル自治区党委書記として復活
73年 党中央委員に選出。広東省党委第1書記
75年 四川省へ転出して党委第1書記兼省長。積極的な農業改革で注目され、79年に党政治局委員に昇格
80年 党政治局常務委員に昇格。副首相として中央入りし、同年首相に就任
81年 党副主席就任。トウ小平氏の信任強まる
87年 胡耀邦総書記の失脚で総書記代行に就任。13回党大会で総書記となり、経済改革を進める「社会主義初級段階論」を提起
89年 天安門事件で失脚。江沢民政権下で趙氏の自宅軟禁始まる
92年 党13期9中総会で党内審査終了。名誉回復ならず
2004年
2月 肺炎で約3週間、北京で入院。4月ごろまで健康不安説強まる
年末 「持病の心臓病の悪化で北京の軍病院に再入院」
2005年
1月15日 香港の人権団体が昏睡状態に陥ったと伝える
1月17日 北京市内の病院で死去
http://www.sankei.co.jp/news/morning/18int002.htm