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(回答先: 「危機の正体」言葉と論理に踊らされるな 藤原正彦x加藤秀樹 【MOURA】 投稿者 天地 日時 2004 年 12 月 09 日 15:39:26)
http://moura.jp/clickjapan/kiki/007/index.html
日本の外交官には「親米」、「親中」はいても「親日」はほとんどいないのが現状である。なぜこんなことになってしまったのか?頭の中で考えた「普遍性、合理性」や見せかけのグローバリズムに惑わされてきたせいだ。今こそ、真のローカリズムが希求されるべきときである。
◆人の幸せとは何なのか、を追求すべき◆
加藤 歴史的に覇権国はすべて自分の論理を徹底して相手を支配下に置こうとする。アメリカは覇権国で、日本は覇権国にはなれないわけだから、覇権国の論理に押しつぶされないよう巧みにしのがないといけない。静かに戦う、というのが国益を守ることに通じるのですが、それもまたわかっていない。
藤原 ヨーロッパは冷戦が終わってから、やっとわかり始めましたね。EUというのをつくって、アメリカニゼーションを阻み、アメリカに対抗するひとつのシステムをつくった。通貨も統一して対抗する。でも日本はまだまだ全然甘くて、アメリカと戦うという意識がない。ふたこと目には「日米同盟」の盟友である、と言う。防衛同盟としては正しいのです。アメリカとの防衛上の絆を断ってしまうと危険ですしね。アングロサクソンは百年単位で陰謀を企むことのできる唯一の民族だから。「50年後に滅ぼすためにどうしたらよいか」とね。こういう国とケンカになったらえらいことになっちゃう。かなわないです。アングロサクソンとケンカしちゃいけない。しかし、経済上は日本の最大の敵はアメリカなのです。アメリカもそれをはっきり認識しています。「防衛上は盟友である、しかし経済上は天敵である」と。日本もそこを意識しないといけないのに、日本は鎖国を長くしていたせいか、外交がヘタで。二つの目を心の中に持って、防衛上はしっかり手を組むけど、経済上は絶対に相容れない敵なんだというのを深く意識しておく、ということができない。軍事でニコニコ手を握るけど経済では譲らないという外交が日本はできない。
加藤 一番そうでないといけない外交官が、「身も心も相手国に捧げる」みたいな感じで、捧げるどころか、今の日本の外交官には、「自分はガイコクジンだ」くらいに思っており(笑)、向こう側から日本を冷ややかに見ている、というのが多い。
藤原 外交官に多いのは親米と親中ですね。まず親日になってほしいのですけど(笑)。親米の人はすぐ「これが一番国益にかなう」と言う。では国益とは何かというと「安全と繁栄」です。たしかにそれは最重要事項ではある。しかしそのために文化とか伝統とか、日本の根幹を傷つけてしまうことが非常に多い。たとえば農産物を何でも自由化すると、安い米や牛乳や肉がバンバン入ってきて、消費者は品物が安くなって喜ぶわけですが、農村は滅びてしまう。そうして日本の田園が崩壊すれば、日本の文学とか、情緒の源泉というものがなくなってしまう。もののあわれ、とか美的感受性とか、和歌や俳句などすべて自然の美しさに依拠していたわけですが、それがすべて潰れてしまう。そうすると日本がなくなってしまう。「国益」の点では完全自由化したほうがいいが、それが日本の文化や伝統を損ねるわけです。政治家にも官僚にも常に忘れてほしくないのは「日本を国益を守るに足る国家にする」ということ。安全と繁栄のためだけだったらアメリカの51番目の州になるのが一番いい。またはアメリカの属国になること。その道を今の日本は選んでますが、それは国益を守るに足る国家ではない。そんな国家は地球上から消えていい。独立不羈を捨てるような国は、なくなっていい。
加藤 「繁栄とは何なのか」ということを議論していくと「人の幸せとは何なのか」ということに思い至らないといけないのですが、その一番の基本を語れない人たちが、浅いところで「国益」「繁栄」だけを語っているから、視点が短期的な経済的利益などになってしまうのでしょうね。
藤原 アダム・スミスのころから、経済学というのは、自分の利潤を最大にするように行動するのが基本です。利潤が幸福の定義みたいなものですよね、経済学では。しかし、そうじゃないはずです。市場経済などをどんどんやっていたら、完全に滅んでしまう。人間が穏やかな心で生きていくことができませんし、潤いのある人生を送ることもできない。そういう点で経済学者とかエコノミストの人たちは困ったものだなあと思います。この10年不況が続いています。あの人たちのアドバイスにしたがって日本でいろいろな経済改革をしてきましたが、ちっとも良くなってない。自然科学者の立場から見れば、自分の学んできた理論を現実に応用して1回でもうまくいかなかったら、もうその理論は吹っ飛んでしまう。その理論に反するような実験データや自然現象が一つでもあると、もうそれで吹っ飛ぶ。でも経済学者の言うとおりに公共事業やら不良債権処理やらビッグバンやらをあれこれして、金利をゼロにしたり、何をしてもうまくならない。だから彼らの理論が吹っ飛ばないとおかしいのです。でも東大の経済の教授とかは誰も切腹してないようです(笑)。
加藤 切腹っていう仕組みを入れると、なにかとさっぱりするかもしれませんね(笑)。
藤原 でも経済学者に限らず、欧米というのは自信過剰ですね。この200年間、世界を支配してきたから、自分たちのやり方が全部正しいと思って押しつけてきますよね。でも、日本人は全然別の文明をつくっているわけだから、もっと自信をもたなくてはいけないのです。日本が本当に屹立するには、欧米を見下すくらいでちょうどいい。やはり自国に対する誇りとか、自信がないと、くだらない論理、1歩2歩の論理にやられてしまう。そういう意味で、今の日本は戦後GHQによって骨抜きにされ、コテンパンにやられてしまった。日本人が二度とアメリカに歯向かわないようにしようというのがアメリカの目的でしたから、そのために文化、伝統、歴史を否定して、日本人が立ち上がらないように、誇りとか自信をなくさせた。そのGHQの方針とモスクワの指令で動いていた日教組の「人間みな平等」路線で、「戦前は暗黒」論でやったから、米ソの利害が日本で一致してしまった。だから今の日本で70歳以下の人は日本に対する自信を全くもてない。自信を持っていた人たちは旧制高校に通っていた人たちなのです。その人たちは現在75歳以上でほとんど15年くらい前に引退してしまいましたから、それ以降、日本は急坂を転げ落ちてきていますよね。
◆言葉の定義の重大さがわかっていない◆
加藤 ちょっと話が変わりますが、言葉について伺いたいと思います。最初の論理の話につながるのですが、言葉の文字面だけで浮き足立ったり、逆に納得してしまったりしているのではないでしょうか。中身がないまま「民営化」とか「構造改革」と言っている小泉さんに高い支持率を与えているのはその典型ですが、バリアフリーとか男女共同参画も同じ。若者の言葉の乱れより深刻な気がします。
日米間の金融自由化の協議がありました。私も大蔵省で担当していたのですが、アメリカは「もっとフリーにしろ、フェアにしろ、グローバルにしろ」と言ってくる。で、我々は「はい、わかりました」と答えて、頑張って法律を変えたりいろいろなことをやるわけですね。でも、1年たって向こうは「なんだ、お前たちはフリーでフェアにするって言っていたが、何にも結果が出てないじゃないか」と責めてきます。その際には、「嘘つきだ」というのがさらに一つ上乗せされてくる。日米間の経済協議というのは、その繰り返しだったと思います。そうなると日本人が二つのタイプに分かれるわけです。一つは、とことんアメリカに追従しようとする。で、もう一つは「あんたら何だ!? 失礼な!」とキレる(笑)。どっちも非常に危険です。今つくづく反省しているのは「スタートが間違いだった」ということです。アメリカがフリーとかフェアと言ってきたときに「お前の言うフリーとかフェアとか、その定義は何だ?」と問うべきだった。それをせずに我々はまず理念、総論でOKと言ってしまった。「お前のロジックは正しい」とスタートしてしまった。今出ているさまざまな問題は、その手の話ばっかりかな、と(笑)。
藤原 言葉の問題ですごく重要なのは、その点です。たとえば私は自由と民主主義はアメリカのプロパガンダとしか思っていないですからね。要するに戦略ですよ。それが彼らの国益に最もかなうわけです。したがってあちこちの国に押しつけています。それは結局マーケットの開拓、国益追求なのですね。しかし自由とは何か、民主主義とは何か。日本は今、民主主義ですけど、民主主義とはある意味、国民の平均値でやっていくということです。多数決ですから。でも国民の平均値で国を運営したら必ず国は滅びてしまう。だからどうしても真のエリートが必要になってくる。エリート自体が民主主義と相反する部分もありますが、エリートなき民主主義国家というものは、どうしようもない最悪のものです。そういうことを無視して、ただ「民主的」とか「自由」とか言っても意味がない。日本の中世では「自由」というものは、身勝手と同じものとして捉えられていました。非常に怖いものだと。自由は危険だと日本人は見抜いていたのです。非常に胡散臭いものだと。だから民主主義だって、そんなにいいのか、と。その辺の言葉の意味をきちんと整理して、見直す必要がある。21世紀というのは自由をいかに規制するかという世紀だと思うのです。自由は、やっぱり封建制とか独裁制とか苦い思いがあって、やっと世界が手に入れたものです。したがって自由を批判したり、規制することはまだまだできない。しかし自由を野放しにしたら、確実に世界は滅びるんです。政治も経済もあらゆる面でいかにして自由を規制していくか。でも、一歩間違うとひどい事態になりますから、非常に慎重にやっていく必要がある。自由の規制は21世紀最大のテーマになると思います。そして民主主義の修正ですね。民主主義というのは国民が成熟している場合には理想的な主義ですよ。しかし私の見解では、世界中の国民というものは永久に成熟しない。したがって「国民が成熟した」なんていう美辞麗句に基礎を置いた民主主義は、うまく機能しない。どうしても、真のエリートが必要です。真のエリートというのは、文学とか歴史とか芸術とか思想とか、何の役にも立たないような教養をバチッと身につけている。そして庶民とは圧倒的に違う総合判断力をもっていることが第1条件ですね。第2条件はいざとなれば、国民や国家のために命を投げ出すということ。こういう真のエリートが日本からいなくなっている。
加藤 憲法改正の議論の際、「つまり憲法はGHQがつくったものだから自前のものに変えよう」とよく言います。しかし、さらに言えば、そこで使われている「人権」だとか「公正」だとか「社会」だとか、そういう言葉や概念自体がそもそも全部輸入品ですよね。多くが明治17〜18年ごろからつくられた言葉です。でも、今さらそういう言葉を使わずに憲法をつくれないのであれば、定義をしなければならない。そのためには、日本人が「人権が守られている、人権が侵されている」と思うことを、日本中から募って、何百件でも何千件でもそこに書いて「日本人が大事だと思う人権というのはこういうことだ、自由だと思うのはこれなんだ、逆に不自由だと思うのはこれなんだ、日本人が公正だ、あるいは逆に、ずるいと思うのはこうなんだ」と具体的に挙げ、新憲法を作るくらいのことをやらないと、日本人にとって本当にしっくりくる内容にはならないのではないか。
藤原 そうですね、日本ならではのものをつくり直さないと。「GHQに押し付けられた」と言うけれど、実は押しいただいちゃったんです。日本はすぐ迎合する勢力が出てくる。でもドイツはそれを断っている。「憲法とか教育基本法は国民をつくるものだから、占領軍に任せることはできない」というわけです。まあ、日本とドイツのこの差は見識の差ではなくて、ドイツが戦争に負け慣れているからですけどね(笑)。日本は史上初めて完敗しちゃったので、動転して「ははーっ」となっちゃった。
◆情緒や美的感受性の大切さを認識すべき◆
加藤 最後に「型」について。どこの国も同じ傾向かもしれませんが、特に今日本で型というものが、どんどんなくなって、逆に型があることが悪いような感じになっています。ここでも、世の中の部品の話ばかりして全体像をもたない政治家や学者の責任は大きいと思いますが、型は、人びとの安心感や社会全体の価値観を考えるうえで大変重要だと思うんです。
藤原 それは論理ではないですよね。柔道だっていきなり受け身の練習をどんどんやらされて、理屈をこねずに型を覚えていく。茶道だってそう。入門したら「何でこんなことするの?」なんて質問を発する間もなく、型というものを強制されます。それが人間においてもある。「嘘をついちゃいけない」とか「卑怯はいけない」とか「恥ずかしいことをしちゃいけない」とか、そういう武士道精神からくるものを教えるけど、それもすべて型です。論理的に説明できないもの。そういう型というのは、子供の頃に強制的に押しつけないといけないのです。今、自由平等のせいで、親も先生もこれができない。でも自信を持って押し付けないといけない。子どもが小さい頃は従って、大きくなってからそれに反発したり、別の方向に行ったりするかもしれない。それはそれでいいのです。でも最初に型というのを押しつけないと、身動きが取れません。そして型というものをやってみると、それが非常に合理的だということがわかってくる。何百年もの知恵の結集ですから。ただその合理性を理解できるまで10年はかかる。理屈では説明できない。理屈で説明する必要はまったくなく、押し付けるべきなのです。
加藤 先ほどの、時間の積み重ねがつくってきたものの話ですね。たぶん型というのは、場所と密接に関わっているのでしょうね。だから日本の型が普遍性を持ってアフリカでもヨーロッパでも通じるわけではないけれど、少なくともこの日本という島々に住んでいる人たちにはぴったりと合理性をもって当てはまっている。そういう大事なものが、単に頭の中だけで考えた「これが普遍的で合理的であるはずだ」というものによって駆逐されつつある。
藤原 そうですね。欧米型文明は普遍性、合理性、効率、能率というのを希求します。それも素晴らしいものではあるけれど、最も素晴らしいものではない。たとえば効率のよさだけ考えるなら、明日から世界中で生まれてくる子どもには英語だけ教えればいい。30年後には世界中の人が外国語を勉強せずに英語で意思の疎通ができるようになります。でもそんな地球になるなら、爆発してなくなったほうがいい。効率、能率なんかより、地球の各地、各国、各民族に美しく花開いた文化とか伝統とか、情緒とか、そういうもののほうが大切なのです。たとえばチューリップは美しい花ですが、世界中の花がチューリップだけになるのだったら、そんな地球はなくなったほうがいい。やはり信州の野に行けば道端にコスモスが咲いている、千葉に行けば一面の菜の花がある、山に行けば一輪のすみれもある、と、そうして初めて地球は美しいのです。それをグローバリズムとか能率、効率ですべて一色にしてしまったら、最悪です。20世紀ぐらいまで、欧米の文明が効率を追いすぎてきましたが、21世紀は、ローカリズムの時代だと思います。私の言葉ですが、ローカリズムとは、世界の各地、各民族に美しく咲いた文化、伝統の花、それを人々が尊重し、育てること。そういうのが21世紀の正しい姿で、これをきちんと欧米の人にも教えてあげないといけません。
加藤 アメリカ人は生物の多様性には熱心なのに人間の世界になると一つの価値観を押し付けようとする。しかしどちらも同じことで、画一化・均質化することは、人類全体としては弱くなるってことですから、多様であること自体の価値を重視すべきですよね。
藤原 そうですね。やはり、最初に言ったように、論理とか合理に寄りかかりすぎているのですね。それはすごく重要なものだけど、それだけでは人間はうまくいかないのです。伝統に凝縮された知恵というものを大事にしないと、世界はもたない。今、日本だけじゃなく、世界中の先進国が荒廃している。先進国の人たちと話すと、彼らもどうしたらいいかわからない。だから日本は国際貢献とか、みみっちいことでなく、世界を救出するべきなのです。日本人の「もののあわれ」とか、とりわけ日本人がもっている鋭い情緒、美的感受性とか、武士道精神とか、型、そういうものを欧米人たちに教えてあげるといい。「論理とか、合理とか、理性だけではないんだよ。それは非常に重要だけど、美しい情緒とか、型だとか、そういうものがないと、地球はやっていけないんだよ」と、そういうことをまず日本人が身につけて、世界の人たちに発信し、教えていくことが必要だと思います。21世紀はそういう時期です。戦わない自衛隊を出すよりも、世界はそれを待っていると思います。