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家庭で、学校で、会社で、そして国で地方自治体で、もう十年以上もの間、日本中が危機だ、破綻だ、革命だと浮き足だっている。しかし対症療法では危機は解決できないのだ。
足元をしっかり見すえることなしに、「グローバル・スタンダード」といった言葉に踊らされているのではないか。それが危機を深化させているのではないか――この企画の出発点、問題意識はそこにある。また、理屈では説明できない、一見「非合理」なものが、何百年もの知恵の結集であり、実は非常に合理的であったりする。日本人が21世紀を生き抜いていく方策は日本人自身がすでにもっているのである。そのことに気づかなければ、日本に未来はない。そこで、「数学者という習性から、すべての底に横たわる本質について考えざるを得ない」と言うお茶の水女子大学教授の藤原正彦氏と、加藤秀樹・構想日本代表が本当の処方箋を提示する。
◆人間は短期的論理にだまされやすい◆
加藤 最近、民営化とか規制改革といった経済や社会の仕組みに関するものだけでなく、公正とか人権といった言葉が、中身を十分吟味されることなく、ひとり歩きしている。言葉を聞いたらもうわかったような気になってくる、という感じになりませんか。専門家と称する人たちが「世界ではこうなっている」と主張すると、それをマスコミが囃したて、企業の経営者や政治家、役人など、そこそこ判断力をもっているはずの大人たちが、あまり中身を考えないで「こっちに行かないとおいてきぼりを食う」というふうに動いている。
ところが、よく考えてみると、その方向がそもそも間違っているということが多いのではないか。そうした現象を眺めていたら、「浮き足立ち症候群」という言い回しが頭に浮かんできたのです。ここ10年くらい日本人は「改革だ!」と言って全員が浮き足立っているけれど、違うんじゃないの、と。何かを変えないといけないにしても、方向が間違っていれば、さらに変な方向に行ってしまうわけですから、そこを考えないといけない。
藤原 やはり根っこを失うとそうなりますね。私の考えでは、大きな流れでは戦後のアメリカニゼーション。そして明治の頃からのウエスタニゼーション(西欧化)がある。明治の頃はまだよかったのですが、最近になって日本の根っこが荒廃してきた。これは日本だけでなく、アメリカも初等中等教育は公立学校では破綻しています。イギリスも同様です。
ヨーロッパの治安はEUになってから、さらに悪くなっている。私の知人でブリュッセルに住んでいる人物は、ベッドの下にライフル銃を置いている。「東欧から貧乏人が大量に来て、高価な車をかっぱらっていっちゃうからだ」って言うんですね。昔は国境の検問所でストップされたけど、今はそれがないからノンストップで東欧まで逃げて、絶対に捕まえられないそうです。そんなふうに治安も悪くなっている。教育も、イギリスの上院議員と話していたら「子どもが本を読まなくなった」とか「若者は電車の中でも車の中でもケータイをカチカチやってる」と嘆いていました。我慢力もなくなって理数離れも進んでいる。世界中同じことになっています。日本だけじゃなく世界中が浮き足立っている。そこをどうすればいいか。
ここ2世紀は世界が欧米の支配下になっていました。いくら日本とかアジア、南米やアフリカ諸国が頑張ったところで、欧米の支配下なのです。それは産業革命以来、欧米が強力な武器をつくったからです。産業革命というのは歴史上あらゆる革命で一番大きい革命だった。イギリスでなぜそれが起こったかというと、その前に科学革命をニュートンたちが起こした。その前に宗教改革、ルネッサンスがあり、理性とか論理とか近代的合理精神が解放された。それをヨーロッパが手にしたわけです。でも結局、最近の世界の破綻で、欧米の合理精神とか論理的思考とか理性とかだけではやっていけないということが、やっとわかりはじめた。
人間というのは、論理が通っていると簡単に騙されてしまう。帝国主義も植民地主義も、今から考えると「あんなアホなことは」なんて言う人がいますが、1900年の時点ではイギリスの宗教者も人格者も、誰もそれを悪いとは思っていないのです。「劣等な民族のために優等な民族が統治してあげる」という、素晴らしく親切な論理が一本通っているわけ(笑)。
共産主義だって同じですよね。「すべての生産手段も共有して、その結果も共有する、それによって貧富の差のない公平平等な社会ができて、皆ハッピー」と、素晴らしい論理なのですが、結局は70年間ソ連が実験して大失敗した。論理、合理、理性はすごく大事ですが、それだけではやはり人間というのは、うまくいかない。そのことに欧米の人が現時点で全く気づいてない。
日本も特に戦後、アメリカニゼーションがあって、すべて論理、合理、効率、能率でやってきていますよね。今のすべての改革もそうです。アメリカのような実験国家はそれをどんどん進めて、しくじったら「いけねッ!」とばかりに頭を抱えてまた新しいことをやればいいのですが、日本とかヨーロッパなど歴史のある国がそういうことをすると、失うものがすごく大きいのです。いろいろな伝統とか宝物を傷つけ、損ねてしまいますから。そこを知らないで一つや二つの論理や合理、あるいは短期的な論理と合理だけで推し進めていくと、ここ10年間の経済改革を見てもわかるように、ビッグバンだ、規制緩和だ、不良債権だ、市場経済だ、「これさえやれば」といろいろやってきたけれど、どれひとつ不況の緩和になってない。それ一つだけの論理としては通っていても実効性がないのです。
教育の世界でもそうです。「ゆとり教育」も、きちんと論理は通っています。これを進めた文部大臣(当時)は、テレビで「5年後を見てください。不登校も落ちこぼれも一切なくなります」と言いましたが、実際には5年前より増えています。論理的には不登校やいじめはなくなるはずだったのですが。
欧米化によって、論理にあまりにも依存しすぎた世界になってしまい、そこに非常に大きな罠があったのです。座標軸がしっかりないときの論理というのは、根無し草みたいなものなんです。座標軸としては、欧米では昔はキリスト教というのがきちんとあった。日本にも、武士道精神とか、他にもいろいろ、情緒とかがあります。そういう行動基準や価値基準が一つあると、論理は暴走しない。ところが今は座標軸を失ってきたが故に論理が暴走して、いろいろな改革をしても何一つ結果を出せないのです。すべてが論理的であるけれど対症療法にすぎなくなっている。
論理というのは、1歩や2歩の論理じゃ深みに到達しません。私がやっている数学では100万歩くらい先まで考えます。1歩や2歩の論理では対症療法にすぎません。だから何の改革をしてもダメ。最近では改革が改悪になっていることのほうが多いですよね。
加藤 1歩だけの論理ということなのでしょうね。たとえば「臓器移植是か非か」と言ったときに、全然その数十歩先のことをチェックもせずに、「あっ、人の生命は何よりも大切ですね、だから早く進めましょう」とすぐになってしまう。しかし、臓器移植とは体の一部ひいてはいのちが取り替え可能になること。すなわち、生命はかけがえがない、ということがなくなる?ことなのです。そのロジックがつめられないままに、一見論理的な装いをもって納得してしまう。
藤原 そうですね。結局論理といっても、言葉を使いますから。すべての言葉が、まるで定義されていない。数学では、いかなる言葉も全部定義されています。公理というものがあって、「A点とB点を結ぶ線分がただ一つある」とかビシッとあり、すべての人が共有する定義や公理から出発して論理が組み立てられる。論理は「AならばB、BならばC、CならばD……ならばZ」という形で、出発点のAから結論のZを導き出す。
ところが、出発点Aの困難があるのです。出発点Aから、A→Bという矢印があるけれども、Aにはどこからも矢印が来ていない。つまりAは論理的な帰結ではないわけです。常に仮説なのです。この仮説を選ぶために、教養とか情緒力が必要です。出発点Aというのを正しく選ばないと、あとの論理がどんなに正しくても間違ってしまう。まあ、あんまり頭のよくない人は、途中で論理が二転三転することで正しい結論になったりしますけど(笑)。そういう意味で出発点Aを選ぶための教養や情緒力が忘れられると、非常に怖いわけです。
◆長年の積み重ねによる合理性と論理性とは◆
加藤 私は、最近決定的に欠けていることの一つは、時間の要素だと思いますね。時間をかけて見るとか、時間の軸をどれだけ考慮に入れるかです。たとえば最近言われる「勝ち組」「負け組」とか、「効率化」とか「競争力」とかはどうなのか。「効率化」については、企業の経営で1年という、一つの会計年度をとって、その中で利益が多いかとか少ないかということだけを見れば、どんどん進めようということになります。では一番利益を生まずコストがかかるのが研究所だからと効率化のために研究所を切っていけば、とりあえずコストは下がって利益は上がる。ところが次の製品ができなくなる。長期的には競争力がなくなり負け組になるんですね。
藤原 10年後が大変ですね(笑)。
加藤 ええ。ですから10年で見たら、効率化というものも中身が全く変わるわけですね。会計制度では、資産を時価で記載する時価会計が、企業の懐具合をより透明にあらわすので世界の流れだ、と多くのエコノミストは言いますね。なぜそれが透明なのかと聞いても、彼らはきちんと答えられない。
藤原 そうなんですか。
加藤 ええ。日本の一流企業の経営者たちも、やっぱり「おかしい」と言う人が多いです。たとえば、コップメーカーが製品を作るのに工場がいる。工場を建てるには土地がいる。で、本業で一生懸命いいコップを作って100万円儲けても、工場用地として1000万円で買った土地が500万円に下がったら、その会社の業績は悪化したことになる。土地は必要だからもっているのであり売るつもりはない、と社長がいくら言ってもダメなんですね。これが時価会計の考え方です。でも時価なんて本来ずっと不透明ですよね。時価の定義にもよるし、刻一刻と変わっているわけですし、すし屋に行けばすぐわかる。
時価会計は、企業はモノづくりを本業とするよりも、アメリカのように「企業は全て投資信託のような経営資産運用会社にするのが一番いい」という考えの下では有効なのです。今の例でいえば、本業が100万赤字でも1000万円の土地が1500万円になれば、会社としてはより高く評価される。これでは、まじめにモノづくりするのがバカバカしくなってしまう。株や土地の値上がりを期待するようになります。これはバブルの発想です。
でも日本みたいにモノづくりをやりたいと思うと、それではダメなんです。バブルの経験からわかるように、これでは経済は長い目でみるともたない。本業できちんと利益を出している会社が銀行からお金を借りられなくなるのです。そんなふうに時間軸を忘れている。あるいは、先のことを考えないままに、表面的なロジックで、みんなが「そうかそうか」と踊らされているのですね。
藤原 時間をかけることは、日本が'80年代ひとり勝ちしていたときは、やっていたのですね。先行投資して、たとえば10年後に芽の出るような研究をやっていた。その強みを今、全部忘れてしまったわけです。そういう会社や、国があってもいいと思う。たとえばアメリカは時価会計でずっとやってほしい。そうすると産業力がどんどん弱くなって必ず滅びますから(笑)。でも日本は絶対真似しちゃいけない。時価会計は絶対しちゃいけない。それを「グローバル・スタンダード」として世界に押しつけるというアメリカのやり方とは、きちんと戦わなくちゃならない。アメリカでMBAかなにかを取って、自分の先生が言ったことを全部受け売りしている学者やエコノミストが多い。「日本を滅ぼす最も確実な方法」ですね。時価会計以外も、経済系統の最近の「改革」は、アメリカが日本の強い部分を壊滅させるためのプログラムどおりにやっている感じですから。
加藤 不良債権の定義は何かというのと、今話した企業価値は何かというのと、ほとんど表裏一体ですね。人間が大事にするものは国によって違いますし、おそらく人間の行動とか世の中のルールは、0か1かではなく、長年の間に積み重なってできたものですからね。何百年、何千年かかってできたものの有効性とか合理性は、我々、たかだか数十年生きてきただけの頭で考える論理では説明できないかもわからない。「年上を敬う」ということを「なんで?」と問われれば説明できない。私は、説明できなくてもいいと思う。長年生き残ってきたものは、生き残ってきたということで、長期的論理とか合理性があったと認めるべきです。今しか生きていない私たちは「論理」とか「合理性」に見えないだけではないでしょうか。短期的合理性というのは、しょせん賞味期限つきの合理性です。文化というものは、何かよくわからない、非合理的に見えるけど何百年も、何千年も残ってきたものの中に合理性があると認めるべきなのです。そういうことが、現代においては世の中を考える上でのベースにないから、変なことになっているのではないでしょうか。
藤原 そうですね。それは論理、合理、理性の欠点の一つだと思います。さっき言った「論理というのは長くなれない」ことと、「出発点の困難」というものがありますね。出発点は論理で選べない、仮説に過ぎないからです。もう一つは今おっしゃられた、「この世の中の最も重要なことの多くが、論理で説明できない」ということですね。つまり「論理は世界をカバーしていない」。でもアメリカ人はこれがいつまでたってもわからない。
加藤 そうですね。学校の先生は、生徒から「援助交際はなぜダメなの?」って聞かれて説明できないと「ダメ!」って言えない、なんて変なことになった。
藤原 そうですね。戦前「天皇陛下は神様だ」とか論理的じゃないことを教えすぎたせいで、反省しすぎちゃった。それで戦後は論理的なことだけ教えるようになりましたが、たとえば「電車の中で化粧をするのはなぜいけないか」というのも説明できないし、「人を殺しちゃいけない」ということも、論理的に「ノー」と言うことは難しい。論理的に説明できないことは山ほどある。それが先ほどおっしゃった、伝統だとか、そういうものの中で、いくつも光っているものです。論理的には証明できないけど、素晴らしいものなのです。たとえば長幼の序とか、ある程度の年功序列とか、挨拶を交わすとか、老人を敬えとか。論理的に説明できなくとも、そういうものの中には大きな意味での合理性というものもある。人間の知恵の結集というか、凝縮したものがあるわけですから。
加藤 アメリカは、ああいう歴史の短い国ですから――もちろんアメリカ人にもいろいろいますが、大体において――積み重ねた合理性、文化とかがないのですね。その分、頭の中で考えた論理とか理念で勝負を迫ってくる。
藤原 そうです。だから実験してもOK。失うものがないから。でもヨーロッパとか日本、アジアの古い国は絶対にアメリカの真似だけはしてはいけない。日本がドイツやイギリスの真似をしても被害はたいしたことはない。でもアメリカの真似をすると、ものすごい害が起きる。これを世界中が忘れている。だからヨーロッパの人にも教えたいです。歴史がある国は、文化や伝統の光り輝く宝物を抱えているわけですから、アメリカの真似をすると、それを根こそぎにしてしまう。
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〈藤原正彦プロフィール〉
1943年、旧満州新京生まれ。東京大学理学部数学科大学院修士課程修了。お茶の水女子大学理学部教授。専門は数論。'78年、数学者の視点から眺めたアメリカ留学記「若き数学者のアメリカ」(新潮社)で日本エッセイストクラブ賞を受賞、独自の随筆スタイルを確立する。『遙かなるケンブリッジ〜数学者のイギリス』(新潮社)『天才の栄光と挫折―数学者列伝』 (新潮選書)『古風堂々数学者』(講談社)など著書多数。
〈加藤秀樹プロフィール〉
1950年香川県生まれ。'73年京都大学経済学部卒業後、大蔵省に入省。証券局、国税庁、財政金融研究所などに在籍し'96年に退官。'97年、慶応義塾大学総合政策学部教授。非営利独立のシンクタンク「構想日本」を設立。省庁設置法改正、公益法人制度の見直しなど、縦横無尽の射程から日本の変革をめざす。共編著で『ひとりひとりが築く新しい社会システム』(ウェッジ選書)、『道路公団解体プラン』( 文春新書)など。