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「反戦」落書き判決に サウンドデモで抗議 [金曜アンテナ]
http://www.asyura2.com/0411/nihon15/msg/438.html
投稿者 なるほど 日時 2004 年 11 月 20 日 01:48:50:dfhdU2/i2Qkk2
 

(回答先: 立川反戦ビラ裁判で 懲役6月求刑 [金曜アンテナ] 投稿者 なるほど 日時 2004 年 11 月 20 日 01:37:57)

「反戦」落書き(本誌昨年6月27日号参照)によって、建造物損壊の罪に問われていたKさんの控訴審で、東京高裁は9月3日、控訴を棄却する判決を言い渡した。この判決に抗議するサウンドデモが14日、東京都杉並区であった。

 1審の東京地裁では建造物損壊罪で懲役1年2月執行猶予3年の刑が言い渡されていた。Kさんは最高裁まで争う構えだ。

 デモは事件があった杉並区立西荻わかば公園からスタート。出発前のシンポジウムでパネリスト、斎藤貴男さん(ジャーナリスト)は「行政は今、憲法改正も含め、人間の生き方の規範を作り変えようとしている」と述べ、落書き程度で重罰を与える行政と司法を批判した。

 デモは公安警察と見られる者約40人が監視するなか、150人以上が参加。沿道からは若者らの声援も見られた。

(ライター 竹内一晴)

http://www.kinyobi.co.jp/KTools/antena_pt?v=vol533



ここまでヤバい、今の日本!
斎藤貴男(ジャーナリスト)×キー(反戦落書き裁判被告)
http://www.kyokiren.net/_protest/saito&key

● 公園のトイレに落書きをしただけで、なんと1年2ヶ月の懲役?!
斎藤:今日の往復インタビューは教育基本法のことについてということですが、今、僕らがこの国で置かれている全体状況というのは、教育の問題も含めて、相当ヤバイものがある。教育基本法とは直接関係はないのだけれど、キーくんの事件というのも、このままいったらどうなってしまうのかという最悪の近未来をイメージするには、丁度いい、といったら失礼だけれど、ふさわしいものがあるので、その話から伺います。

 事件の概要から聞かせてください。

キー:昨年4月17日に、東京・杉並区の西荻わかば公園という小さな児童公園の公衆トイレ外壁に「戦争反対」「反戦」「スペクタクル社会」という落書きをしたのを、道路に面した近所の住民に見られて(恥)、即警察に通報されて、近くを巡回していたパトカーによって、準現行犯逮捕されました。容疑は器物損壊です。

 事件当日は夜だったこともあって普通の署の刑事(荻窪署)の取調べだったんですが、落書きの内容が政治的内容ということで、翌日から公安刑事の取調べを毎日6時間から8時間くらい受けました。そして事件後12日目の4月28日に、容疑が器物損壊から建造物損壊に格上げされ起訴されました。建造物損壊というのはものすごく重い罪で、器物損壊は3年以下の懲役か罰金刑なんですが、建造物損壊は罰金刑はなくて、5年以下の懲役刑になります。落書きで建造物損壊罪が適用されたっていうのは、僕が知る限りでも初めてのことです。

 なんでこんな重い罪を適用されたのかっていうと、書いた内容が政治的内容だったからです。昨年の3月20日以降の反戦デモへの弾圧、それと一体となったものだということです。事件後、僕を支援してくれる「落書き反戦救援会」という支援団体が結成されて、その救援会と担当弁護士によって、5月30日に勾留理由開示公判を開いていただき、その公判を流すかたちで保釈になりました。それまでのあいだ、44日間荻窪署の留置所と東京拘置所にブチこまれました。

 6月16日から公判が行われ、被告人である僕と弁護人は一貫して無罪を主張しました。検察側の論告求刑は懲役1年6ヶ月。今年の2月12日の判決公判では懲役1年2月、執行猶予3年の有罪判決になりました。もちろん納得できないし、不当なので控訴しました。その控訴審判決公判が9月3日に行われましたが、控訴棄却で2度目の有罪になってしまいました。ああぁ…

 その判決文はといえば、一審判決文の垂れ流し。被告人・弁護人の論旨をまったく省みず、かつ省略するという、手抜き極まるふざけた代物でした。僕は判決文の朗読が終わると、裁判長にあくまで平和的な態度で質問したんですが、裁判長が突然退廷命令を告げて、警備員にケリを入れられたり、柔道技で投げつけられるなどして、強制的に退廷させられました。あまりにふざけた判決-判決文、また僕への暴力的排除-暴行。これに怒った傍聴者が抗議すると、今度は全員強制退廷の命令が強行され、みんな廊下に叩き出されて。そこでわれわれと警備員でもみくちゃ。もう、一種の騒乱状態というか大衆団交状態の事態に発展。かたや裁判長はそそくさと逃走しちゃうし。まさにスペクタクルです。この最中、警視庁公安二課が乗り込んできて、われわれは退散することにしました。しかしまったくこんな不当な裁判を、法治国家の枠組みさえも大きく逸脱する判決を二度も食らわされ、絶対に納得できません。最高裁に上告します。ここまでが一番最近の近況です。

斎藤:質問しかけてキーくんは追い出されてしまったということですが、何を質問しようとしたのでしょう。

キー:公安刑事の取調べでは、「君はノンセクトか」とか「政治的なことに関わっていたら人生だめになるゾ」とか、反戦落書きをしたので「イラク戦争をどう思う」とか「君は戦争に反対なのか」とか、事件の事実関係よりも僕の思想・信条を重点的に聞かれました。「私には子どもがいるが……君は今の教育をどう思うんだ」、とか(爆笑)。事件後僕のアパートに家宅捜索が入って、政治的内容のビラが押収されたんです。そのアパートは結局この家宅捜索によって解約されてしまったんですけれど。あと僕の背後関係とかを執拗に聞いてきて。これだけをとってしても、この起訴が政治的な起訴であるということは自明です。なのに1審-2審とも裁判長は「政治的な意図ではない」と言い渡すばかりで、ちゃんと納得できるような説明はなかったので(そもそも説明できないのだが)、まず家宅捜索や思想背景を公安が調べたことについて聞こうとしたんです。

斎藤:「裁判長」と一言くらい言っただけで?

キー:ええ、まぁ。それだけでもう、警備員がドヤドヤッて来て。

斎藤:警備員は何人くらいいたの?

キー:傍聴者と同じくらい、40人…もっとかな。いすぎだろっていう。

斎藤:最初から控えさせておいたわけね。

● 公共空間へのこだわり
斎藤:言わずもがなのことだけれど、昨年の4月17日に落書きをしようと思ったきっかけは何ですか。

キー:…一番の動機は、戦争反対です。最近はあまり言ってないけど「戦争反対」。「なんで落書きで反戦を訴えようとしたのか」とよく聞かれるんですが、公共空間を使って表現行為をすることに意味がある、大ありだと思っているからです。後、中毒気味ではあるのですが、個人的には落書き断固支持者だから(笑)。法的には落書きは犯罪行為ということで罰せられますけれど、一定程度、というよりも落書きは重要な表現手段ですし。落書きが軽犯罪ならまだしもまさか建造物損壊になるとは思わなかった。もっというと、最初の器物損壊のときだってものすごく重いと思った。事件後12日目に建造物損壊に格上げされて、ものすごくびっくりして、怒りよりも「これからの人生どうなってしまうんだろう」という絶望的な心情になりました。起訴をされるということは裁判をやらなければならないわけで、裁判にどれくらいの時間や費用がかかるのか、精神的にかなりの負担がかかりましたし、もう不安で一杯で。

斎藤:戦争反対を表現するやり方としては、デモもあるだろうし、今だったらネットで投書をするという方法もあるだろうし、なのに公共空間というものにこだわった理由っていうのは?

キー:それは僕が街路とか都市とかいうものにこだわりがある、同時に好きだからです。判決文でも「彼は他にインターネットとかの手段があったにもかかわらず、落書きという安易な行動をとった」と。インターネットで反戦を訴えるということとトイレに反戦落書きをするということを、まったく同列に論じているんですね。これを裁判長だけでなく――2ちゃんねらーはともかく――反戦デモでビラ撒きしてるだけで同じように文句を言われたり(苦笑)。笑ってますが、イタイんです。僕の立場から言わせてもらえば、媒体も空間も違うし、まったく同列に論じることはできない。要は政党だけではもちろんなく、市民の側も民主化してるというか。確かに落書きは逮捕されるという点において違法なんだけど、街路を使って表現することは――デモとかと一緒で――重要な表現手段だと僕は当たり前ですが考えます。

斎藤:あと、「スペクタクル社会」と書いたわけだけど、これはどういう意味なんですか。

キー:日本語訳しますと「茶番な社会」。この、紛れもなく現代社会。

斎藤:フランスの思想家のギー・ドゥボールっていう人が唱えた概念ですね。映画館のお客さんのようにしか市民が状況に関われなくて、ただ見せられているだけ。ひとりひとりの意思が反映されることなく、ただ観客にさせられているだけ、こんな理解でいいかな。

キー:はい。

斎藤:取調べのときに「それはどういう意味だ」ってこともずいぶん聞かれたと言ってたけど、警察はその言葉にも関心を持ってたみたいだった?

キー:持ってましたね。

斎藤:全然知らなかった?

キー:ええ。「なんだ、この言葉は?!」って。

斎藤:無視されてしまった弁護側と被告側の主張ですが、主なところはどういう争点を柱にしていたんですか。

キー:さっき言った「政治的」捜査-起訴ということのほかに、そもそも建造物損壊罪の成立は何を根拠とするか、という点です。建造物損壊となるには、建物を使用不能にするか、あるいは外観・美観を著しく損ねるか、です。「使用不能」という点においては、当たり前ですが、トイレはその後も普通に使えるわけです。つまり外観・美観の問題になるわけですが、僕の落書きによって「見た人がものすごく不快な思いをする」ということを検察側は論告求刑でも言ってますし判決文でも言ってる。でも、外観・美観というのは、人によって感じ方がさまざまなわけです。街に氾濫する落書き(グラフィティ)。多くの人は(大)嫌いであるとか、何のことはないかもしれないが、これが好きな人もいる。興奮する人もいる。そういう曖昧なものを権力側が一方的に「著しく損ねた」と押し付けてくるのは、法律的には、実のところおかしい。曲がりなりにも法治国家であるし。というか違法なんです。

斎藤:「戦争反対」というのが不快なんだろうね、彼らにしてみれば。でも、元々そこには大きな落書きがあったんでしょ。

キー:僕のより少しだけ小さい落書きがありました。「悪」「タツ」というヤンキーが書いたような落書きが。でもあくまで「被害者」と自称している杉並区はそれまでまったく放置していたんです。その杉並区は(逮捕された)翌日僕を告訴したんですが、その告訴手続きがものすごくズサンで、どれが僕の落書きかもわからなかった。警察が杉並区に告訴するように促した。杉並区は落書きで告訴なんていうことは、これまで経験がなくて被害届すら出したことがない。

斎藤:そりゃないだろうね、普通。

キー:警察に促されて追認するかたちで告訴をした。自治体の自立性もなにもあったもんじゃない。警察に飼われた犬、杉並区は警察犬(笑)。

斎藤:言いなりだよね。あと、場所的に、住民が敏感だったという背景もあったのかもしれない。

キー:たぶん。あの公園付近は一軒家が多いですし、おそらく防犯協会とか自警団的なものがあっただろうと。また(ボロ)アパートなどが並ぶ地区よりも、パトカーの巡回は多いだろうと思います。あくまで憶測ですが、現場地域のブルジョア層と警察は結託してますね。事実、バトカーが夜間巡回してたし。僕が以前住んでたアパート地区では、夜間にパトカー巡回なんて目撃したことないし。

斎藤:金持ちの町だから…。あと、オウムが来そうになったときもめたよね。

キー:はい。異物を排除するような背景は事件以前から実はあっただろうなと。あと、声を大にして言いたいのは、やはりこれは政治的な事件だということ。裁判でも毎回公安刑事が来ていますし、普通の事件とは一線を画す、クドイですけど公安事件だということです。検察が裁判所よりも上にあって、裁判所は検察の言いなり。判決も検察の主張に沿ったものでした。公安事件だから。

斎藤:検察が裁判所より上にあるというのは、具体的にはどういうこと?

キー:公安の検察というのもあって、僕の事件だけじゃなくて、反戦デモなんかで逮捕されたりした場合、2泊3日とか、拘留を10日延長するとか、さらに10日延長とか、公安が裁判所に申請するんですけど、ほとんど公安検察の言うとおりになるんです。

斎藤:裁判所は独自の判断ができないということだね。

● 戦争と差別と監視の国へ
斎藤:ところで、キー君の場合「戦争反対」と書いた内容を許さないということになるわけだけど、一方で「落書き自体を許さない」という流れもあるよね。警察でいえば生活安全局が唱道している、最近流行の「ゼロ・トレランス*」。そういう意味合いはあまりなかったの?

キー:僕の場合には違いますが、落書き一般を考えるときにはそれは限りなくあって、落書きを警察だけが取り締まるんじゃなくて、住民参加型行政、自治体や住民も一体となって取り締まる。「割れ窓理論*」を模範に浸透していて、落書きはもちろん、犬の糞の放置の取締りや監視カメラの大普及とか(泣笑)、そういうのが着々と進行し、勢力を拡大していますね。したたかです。

斎藤:結果として、キー君の判決はいろんな受け取られ方をすると思うんですけれども、「戦争反対」を叫ぶとこうなるんだぞ、という見せしめがひとつ。で、もうひとつは、落書きするとこうなるぞ、っていうメッセージが込められているよね。

 日本ではここ数年、今の「割れ窓理論=ブロークンウィンドウ・セオリー」というのをしきりに使って、例えば警察白書などにも紹介してる。一昔前は「検挙に勝る防犯なし」というのが日本の警察のスローガンであったものを180度転換して、今の警察の犯罪捜査のやり方は、何も起こらないうちから予防するんだとなったわけです。だから、この場合で言ったら、「落書きするようなやつは、他で何をするかわからない、犯罪者予備軍だ」という受け止め方をする。

 この事件から、キーくんは、今の日本の社会がどういう状況になっていると考えていますか。

キー:僕の事件もそうですし、公共空間の締め付けっていうのがものすごく強くなってきたなって感じですね。タバコのポイ捨てを取り締まれ、とか、千代田区では喫煙自体を取り締まっている。犬の糞や落書きもそうですけど、今まで普通に行われてきた、営まれてきた行為が、「マナー」という名の下にできなくなっていく。どんどん都市が農村化していくというか、いろいろな人がいて、雑多なものがあって、自由に移動する――ということができなくなっていく。行為そのものが決められて、国と行政がだめだというものは抑圧され、規制され、時には逮捕されて僕みたいに弾圧される。インターネットで反戦を訴えるのはいいけれど、街頭でやるのはどんどん取り締まられる。相当ヤバイです。

斎藤:要するに、戦後僕らは少しずつ自由を獲得してきたのだと考えていたわけですね。本当の自由はとてもまだまだだったと思うけれど、多くの人が自分のやりたいことをやり、封建時代だとか戦時中だとかに較べればまだしも少しずつ自由を勝ち取る過程でいたんではないかと思います。

 よく僕は「このまま行くと日本は、戦争と差別と監視の国になっちゃうぞ」という警告を発しているんですけれど、じゃあ今までが平和で平等で監視のない素晴らしい社会だったかというと、そうではないですね。理不尽な差別も偏見も相変わらずだったし、朝鮮戦争やベトナム戦争にも協力していたわけだし、監視だっていろんな形であった。ましてや日本人が平和だ平等だと言えてきたのは、差別の上に乗っかってきたからこそだ、という恥ずべき歴史でもあった。だけれど、少しずつそれだけじゃいけないよ、という程度のコンセンサスはあったんだろうと思うんです。だから90年代に入って、在日であることを隠して日本名できた在日の人たちが――たとえばにしきのあきらなんかが「実は」と言うことができるようになったということは、まだしも、少しずつ、いい方に向かっていた証拠じゃないかと思うんです。

 ところが90年代半ばくらいから、つまり戦後50年を過ぎたあたりから、急速に揺り戻しがあって、人々が自由にものを考えたり行動したりということ自体に対する反発がものすごく強くなってきた。だから、自民党や民主党の政治家たちが必ず言うのは、戦後「押し付け憲法」のせいで国民が権利ばかりを主張するようになった、と。その見返りとしての義務をまったく果たさなくなった、と。

 冗談じゃないよ。我々は税金だって払っているし、義務なんか嫌というほど果たしている。だけど、本来あるべき自由を、なかなか謳歌するところまでなっていない。まだその発展途上の段階だったんだけど、その程度の自由も認めたくないという人が、今社会の中枢にいて、一方ではなかなか自由を謳歌することのできない一般の人たち、むしろ自由を持て余してしまっているような人たちが「統制してほしい」というような流れが、確かにあるような気がするんです。

●「生活安全条例」のおぞましさ
斎藤:そういう中で、公共空間への縛りというものが急速に強まっている。具体的には「生活安全条例*」というのが今や全国1000以上の自治体で制定されて、警察と自治体と地域社会――具体的に言うと町内会とか――が共同で防犯対策に当たらなければならない云々と条例で制定されている。例えば、ビルを建てる業者さんはあらかじめ所轄の警察に相談して監視カメラをつけるようにしましょう、とかね。

 さっきキー君が触れた千代田区の場合、タバコのことばかりが強調されて何にも問題が明らかにされないんだけれど、あれは「禁煙条例」じゃなくて、あくまでも「生活安全条例」の一つのバリエーションなんです。たまたま千代田区の区長はそういうことに熱心だったから禁煙と一緒にしたんだけれど、禁煙のところだけとってみても、この問題の本質ってすごく出ていると思うんですよ。月に2回合同パトロールの日というのがあって、その日は警察と自治体、町内会が全部で30人くらいでそのあたりをウロウロしてタバコを吸ってるやつをつかまえる。

 僕自身は本当はタバコが好きじゃないんだけれど、実験したことがあります。千代田区の神田駅前でタバコを吸ってみたんです。そしたら、ものの1分もしないうちに、黄緑のユニフォームを身を包んだ男性に咎められる。「タバコ吸わないでください」と。こっちは実験ですから無視して吸っていたら、その人が他の人も呼んできて、5、6人に取り囲まれた。「吸うな」と言われても構わず吸っていたら、今度は問答無用で取り上げられた。で、新しいのにまた火をつけたら、その中の一人が「おい、こいつわざとやっとるぞ」と。「科料じゃない。罰金5万円だ」と言い出した。そしたらもうひとりが「まあまあ」と言いながらずずいっと身を乗り出してきて、「あんたどこの人か知らないが、ここは千代田区だよ。千代田区に来たら千代田区の掟に従ってもらおうじゃねえか」というわけです。

 「生活環境条例」。確かにこれに従っている。やめれば科料、やめなければ罰金5万円とちゃんとそこに書いてある。だけど、その条例が決まる直前までみんながやれていたことが、ある日、区長と区議会が決めたというだけで180度ひっくり返っちゃった。このことの異常さにもうちょっと僕らは敏感であるべきではないのか。

 今はタバコの話だけをしたけど、実は他にも千代田区の条例で禁じられている行為があります。例えば、ラーメン屋さんが店の前に看板出してる。これもいけない。麹町界隈では、お客がいる店内に見回りの人が看板を放り込んだ、とかいうトラブルが続出しています。

 公共空間というのは天下の往来であって、みんなの場所だから誰もがそこを堂々と歩くことができる場所だった。ところが、こういう条例ができると、全国1000以上の自治体で、公共空間というのは行政と警察のものだ、そこを普通の人間がヘコヘコと頭を下げて通らせていただく、しかもその通り方にも、タバコを吸っちゃいかんとかあれやっちゃいかんこれやっちゃいかんというのが全部決められていて、逆らうと罰金だ、こういうことにされちゃったということです。

 警察官とか自治体の人間は教育されているので、そういう本音の部分はなかなか言わないけれど、僕を取り囲んで「罰金だ」と言った人たちは町内会の人たちだったんですね。だからつい本音を喋っちゃった。本当は警察でも自治体でもないのに、権力の切れっ端を与えられて舞い上がってるんです。だから、より深刻なのは、普通の人が権力の手先になることを喜んでしまっていて、逆らうやつは許さん、というメカニズムになっていることです。これは戦時中の隣組と同じ空気だと思いますね。

キー:僕はタバコを喫むんですが、どうやって反撃しようかというときに、文書を提出するとか勿論あるわけですが、まずもって怖気づいちゃいけないと思うんです。堂々と吸っていいと思うんです。路上における主従関係でいえば、警察ではなく、僕らが主人公であるはずです。

 行政も自治体も「割れ窓理論」とか知っていて、その日本版が生活安全条例と目されている。でも、そういうことと関係なく堂々とすればいいと思います。その場で、街頭で。

斎藤:それは大事なことなんですが、おそらくこのサイトの読者は、それだけを言うと必ず反発してくるでしょう。タバコが嫌われる理由はあるわけですね。狭いところで吸えば煙い。多分に情報操作のにおいもあるけれど「受動喫煙」の問題もある。あと、街を歩いている場合で問題なのは、指に挟んで歩いていると、ちょうど子どもの目の高さになるんで非常に危険――これは僕自身、子どもがいたときに思ったので、わかる部分もいっぱいあるんですね。だけど、それこそマナーの問題であって、そのことをきちんと広報するとか、それで子どもが傷ついたりした場合の罪を重くすることがあってもいい。だけど、その行為そのものをすべて禁じて、「逆らったら罰金」というのは、これは明らかにいきすぎだし、いつも子どものことを考えているお母さんたちの思いを逆手に取る非常に汚いやり方だと思う。

 吸う人間がちゃんとマナーをわきまえる、これは当然だけど、それはそれぞれの人の生き方の問題だということです。それなのに、なんで行政が介入するのか。これはもっと言えば「健康増進法」とかいろいろ他の問題もいっぱいあるんですけれど、人の肉体の使い方に行政が介入する、一定の規範をつくる、ということの恐ろしさを多くの人たちにどうかわかってほしい。

 さっきの実験のときにね、僕はその日は2時から合同パトロールがあるってことを知っていたんだけど、2時5分前くらいになったら、駅前の「マツモトキヨシ」の店員さんがワアーっと出てきて店の外に置いてあった商品を全部店の中に入れるわけ。「どうしたんですか」って聞いたら、「いやあ、2時になったらお上が見張りにくるんだよ」って。いつの時代ですかって言いたかったね。まるで江戸時代の町人が殿様が駕籠に乗ってやってくるからビビッて土下座して待ってるみたい。いつのまにかお上と取り巻きの町内会が強くなっちゃった。このことは非常に恐い。だから、キー君の事件は、ただ単に「戦争反対」と書いたことだけじゃなく――それ自体非常に大事なことなんだけど――ゼロトレランスの部分と、少なくともそのふたつの意味合いがあるってこと。

●地域住民を巻き込んでの監視・摘発体制
キー:東京都が平成13年度に、『ジュリアーニ市政下のニューヨーク』というパンフレットを発行したんです。ニューヨークってもともと観光都市ですよね。ニューヨークは移民が多いし、ストリートチルドレンも結構いた。そういう社会的貧困層のなかでは犯罪も起こるし風紀が乱れたり、いろいろある。そういう問題を解決した、とそのパンフレットには書いてある。警察が取り締まり、地域住民も追随するかたちで。でもやっぱり排除されるのはアフリカやヒスパニック系の人たちだった。最後には歯止めが利かなくなって、死亡事件にまでいたる事態が結構起きているんです。路上でのコミュニティも解体させられて周辺部に追いやられる。すごくきれいになって観光都市化が進むんだけど、周辺には貧しい場所がある。つまり、要塞化してるわけです。だから、はっきりいって生活安全条例もなめちゃいけないんです。ソフトパワーだけど。

斎藤:なめちゃいかんどころか、これはとんでもない問題だと思うけど。思いつくままにいくつか言うと、警察庁が監視カメラをどんどん入れなさいという大綱をつくって出してたり、警察の予算でそうするだけじゃなく、江戸川区の小岩のように商店街が積極的に住民から一人頭500円ずつ集めてみたり。金の出所はいろいろだけど、すべて映像は警察に行くような流れがいつの間にかできちゃってる。監視カメラは顔認識システムだとか総背番号制度とリンクしていくので、カメラに映った人間が、「どこの、誰で、今何をしているのか」すべて警察が握るということができるわけ。一方逆に生活安全条例みたいにローテクで、人間の人力でお互いを見張る仕組みというのもいっぱいできています。

 産経新聞だけに載っていてあまり報道されていないんだけれど、都の条例でコンビニのエロ本が規制されるようになったでしょ。シール貼らなくちゃいけないって。

キー:たしか、「青少年健全育成条例*」。

斎藤:あれはあれで手間もカネもかかるものだから、やらない業者も結構いるわけです。そこで文部科学省が音頭をとって、所轄の警察、町内会、自治体、PTA、教員を組織化した協議会を設置する。そしてそのグループで日常的にコンビニを見回る。こういう方針が打ち出された。警察とか町内会、自治体だけなら普通の生活安全条例と同じなんだけど、これにPTAと教員を導入したのがミソでね。教員っていうのは、今の世の中ではまだしも「戦争反対」の立場を取る人の多いかたまりなんです。PTAもいざ戦争となれば、子どもの命を考えますから反対に回る人も多い。それを警察の指揮下におく、というのが非常に大きな狙いかなと思います。

 何年か前の大晦日に世田谷区の一家4人惨殺事件というのがありました。犯人はまだつかまっていないわけですが、あれも口実になった。あそこの周りの愛犬家たちは、毎朝一定の時間帯に散歩するわけですね。それを「ワンワンパトロール隊」として組織して、これも警察の指揮下に置くわけです。あの周りの愛犬家はみんな、今や警察の別働隊にさせられているわけです。もちろん犯罪捜査は大切だけれど、それとこれとは意味が違うだろう。

 あと、新聞配達の人も、早朝とか夕方とか毎日決まった時刻に動く人たちで、中日とか読売とかが所轄の警察と協議会をつくって、同じことをやる。警察は「早朝に新聞配達をする人は危険だろうから、パトロールしますよ」とか何とか言って、そのバーターでね。これにはいろんな余波があって、そんなことを販売店が日常的に続けていれば、やっぱり警察に逆らう記事はあんまり書けなくなるだとか、新聞社総体としてはそういうことにもなるわけです。

 短い時間では喋り尽くせないほど、「犯罪予防」だとか「テロ対策」の名の下に、あらゆる人の営みが、なんでもかんでも警察の支配化に置かれつつあるということです。

〈つづく〉



「ゼロトレランス」 もどる
=寛容さゼロ。アメリカの荒廃した学校に秩序を取り戻すため、学校現場で採用されている方法。一切の例外を認めず、あらゆる非行、不法行為、逸脱行為を厳しく取り締まるというもの。違反を犯した生徒は即座に退学、または警察に引き渡される。実際アメリカの学校内の秩序が著しく向上したとして、高い評価をされ、地域の治安維持にも採用されようとしている一方、ちょっとした間違いや過ちも認めず、本人が違反を犯すつもりがなくても厳しく罰せられるため子どもが傷つくこと、いきすぎた過剰な処分が横行したり、学校を放り出された子どもがギャング化するなど、さまざまな問題を指摘する声もある。
「割れ窓理論」 もどる
80年代にアメリカで唱えられた犯罪捜査の思想で、ビルのちょっとした割れ窓を放置しておくと、そのビルの管理が行き届いていないということで犯罪や治安の荒廃の温床になり、やがては深刻な犯罪の温床となる。したがって、ちょっとした割れ窓も見逃さずに、徹底的にその一帯を管理・統制していくべき、という理論。ジュリアーノ前ニューヨーク市長がニューヨークの治安回復にこの理論を採用し、その発想に基づく捜査を90年代以降すすめ、ニューヨークの犯罪はその結果減少したと伝えられている。しかし対談にもあるように、貧富の差や自警団とマイノリティの対立を招くなどの問題も指摘されている。
「生活安全条例」 もどる
「安全・安心なまちづくり」をスローガンに、全国1000以上の自治体で採択・施行されつつある条例。そのなかには監視カメラの設置を義務づけたり、公共の場での喫煙を禁止・罰則規定を設けるなど、警察と自治体、市民組織が一体になって、市民的自由を制限する内容のものも多い。
【参考】監視社会を拒否する会
「青少年健全育成条例」 もどる
「青少年の健全な育成」をはかるため、各自治体が発令する条例。東京都では、青少年の目に安易に触れないようにするために、ヌード写真や過激な画像等を掲載している雑誌、書籍、ビデオなどは立ち読みできないようにビニールで包装することが義務づけられてる。しかし「健全な育成」に「有害」かどうかの判断は東京都に委ねられているため、「有害指定」を受けないため、出版社が内容を自粛する可能性がある。これについて「言論の自由への介入」と反発する声も挙がっている。
東京都少年の健全な育成に関する条例
東京都健全育成条例改定に反対する市民有志Webサイト


●アメリカの「衛星プチ帝国」、日本
http://www.kyokiren.net/_protest/saito&key2
キー:「日の丸・君が代」の強制に反対した教員の大量処分・解雇といった現状は、とても法治国家とは思えないんですが、東京都が特にひどいですよね。やはり…

斎藤:東京都がすごいのは、何よりも石原慎太郎という都知事のキャラクターによるところが、とりあえず大きいですね。とりあえずというのは、石原が右翼だからとかいうことだけの話なら、まだしも私たちは幸せなわけです。それはいずれ、彼が引退なりすれば済むことですから。あるいは、どうしても都立高校のやり方に耐えられなければ、他の府県に引っ越せばいい。それで時間稼ぎをして済むことならいいのだけれど、そうでなくて怖いのは、石原は確かに突出しているけれど、彼のやっていることは明日の日本全体のことだということなんだよね。

 石原慎太郎という人は、一言で言えば、徹底した差別主義者です。きわめてシンプルな、剥き出しのレイシストなんですね。今の都の政策というのは、差別を政治で表現するとああなるという姿、それ以上でも以下でもないと僕は理解しています。が、それはしかし、今のグローバリゼーションの中で新自由主義というものが目指すところとまったく一致しているわけです。つまり、もともと力を持っている、社会的地位の高い人間が、すべてを支配する。何もかも金や権力でもって弱い人をぶっ潰し、奪いつくしていく。こういう構図が新自由主義だと僕は考えています。

 それがアメリカで80年代以降ずっとやられてきた。彼らは世界中を侵略し、国内においてはさっきのジュリアーノじゃないけど貧富の差を極端に広げてきた。それを今日本も真似しようとしているわけだけれど、日本の場合にはもうちょっと平和や平等を目指そうとした時期が曲がりなりにもあったが故に、ふつうの政治家や役人ではちょっと恥ずかしくてできないわけですよ、あれほど人でなしのやり方っていうのは。少しは躊躇があるわけ。だから、小泉の構造改革がなかなか進まない。進まないほうが本当はいいんだけどね。

 それを、石原という剥き出しのレイシストは何の躊躇もなくやってしまうわけ。福祉を削ったりして、例えば障害がある人が苦しもうがなんだろうが、石原は何もためらわない。あの人は、そういう苦しんでいる人がいるとむしろ嬉しくなってしまう人だとしか僕には思えない。困るのは、今の東京は明日の日本であるということですね。

 今の日本は徐々にアメリカを真似しようとしているといったけど、じゃあ、どういう社会を目指そうとしているのか。これは、最初に言ったように、戦争と差別と監視の国です。アメリカのミニチュア版。僕自身の表現で言えば「衛星プチ帝国」。衛星国でありながら、なまじ金持ちだから帝国にもなりたい。でもそれはアメリカの傘の下ですから、あくまでも「プチ」――ちっちゃな帝国ですね。これを目指してる。すべてはここに向けて収斂している。キー君の事件も、さっきの「生活安全条例」も。「戦争反対」なんてとんでもないという話になるわけです。だってこれから、アメリカの子分になって世界中を荒らしまわろうとしているんですから。アメリカの価値観に従えないやつは徹底的につぶして行く。アメリカだけでは大変だから日本も手伝う。手伝う代わりに、分け前もいただきまーす、と。これが今の日本政府の立場だよね。

 だけど、そんなことをやっていけば、必ず世界中から軽蔑されて憎まれるから、当然仕返しがあるよね。これを「テロ」って言っているわけだけれど、やる側にすればテロでもなんでもなくて、ただの報復ですよね。例えばイラクのようなことをやれば、僕がイラク人だったら、まず日本人を狙うと思う。だって、元々仲良くしていたのに、アメリカに言われたからって軍隊をよこすようなやつを誰が許してやるもんか、と思うのは当然なわけですよ。いくら「戦争に行くんじゃない」なんて言っても、問題は来られたほうがどう受け取るかなんだから。また、貧富の差が広がれば、当然理不尽な差別を受けた人間はやっぱり不満だらけになる。犯罪も当然増える。だから監視社会だ、となってくる。それがまたゼロトレランスを招いて、それがさらなる不満を呼んで、犯罪はより残虐になっていく。

● そのような全体状況の中で教育基本法「改正」をとらえると…
斎藤:で、教育です。これからの教育改革で目指されているのは、そうなっても不満を抱かない人間をつくること。今年の2月に「教育基本法改正促進委員会」という超党派の議員連盟で、民主党の西村眞悟という議員が教育基本法を「改正」したい最大の理由として「お国のために命を投げ出す人間をつくる」と明言しましたが、まさにそれなんだよね。つまり、それぞれの子どもが自分の未来を自分で考えてはいけない。お上の命ずるとおりに動く。人殺しをさせられて、あげく自分が殺されても何も文句を言わない、死んじまえば何も言えないけどさ、そんな子どもをつくるための教育が今、目指されている。一言でいうとこういうことですね。それを称して「愛国心」とかなんとか言ってるわけだけれど。

 ただここにもダブルスタンダードがあって、つまり、お上が認めたエリートは簡単には死なせないわけ。お上が認めたエリートは早いうちから優遇して、参謀本部として活躍してもらう。特に優秀じゃなくても、お上の身内なんかもここに入れるのね。けど、お上が認めないノンエリートは早いうちから自分の分をわきまえて人殺しをさせ、あとはエリートのための弾除けになってもらう。こういう思想を小ちゃいときから植えつける。

キー:エリートが少数化するということですか。

斎藤:少数化というのではなくて、エリートとそうでない人ができてしまうということ。どうしたって組織の中でリーダーシップをとる人間とただ使われるだけの人間ってできちゃうわけで、そのすべてを否定するわけにもいかないけれども、そこにはお互いに対する共感だとか、仮に社会的には上の地位になった人間でも、下の人間をモロに見下しちゃいけないというお約束というか、人間としての「たしなみ」っていうのが必要だと思うんです。もしも何か教えるんだとしたら、その「たしなみ」を教えるべきであって、今はそうじゃないんだよね。もう小学校から選別してエリートには「あなたは将来人の上に立つ人間になるのよ」なんていう帝王学みたいなことを教え込む。そうでない者には「ゆとり教育」の名の下にもうそもそも知識を伝えない。知識がなければ何も言えなくなっちゃう。

● 「日の丸・君が代」、そして「愛国心」について
斎藤:今日本が目指している方向っていうのが、さっき「アメリカの衛星プチ帝国」っていったけど、漫画家の石坂啓さんに言わせると、アメリカがジャイアンで、日本がスネオだっていうわけ。いつも乱暴なジャイアン。いつもそのまわりでウロウロしてちょこまかしている、小金もちで小賢しいスネオね。ジャイアンは時々いいこともして、頼もしく見えることもある。でもスネオは決してそう悪いやつではないんだけれど、頼もしくもないし、ただみんなに馬鹿にされて軽蔑されてるだけ。こういうポジショニングであるわけ。漫画だからそれで済むけど、現実にはアメリカの手下として乱暴も振るう。素手の暴力と違って武器を使って暴力を振るうわけだから憎悪を招くわけですね。だからドラえもんのたとえもまだまだ甘いと言う話になるわけですが。

 今度在日米軍の総司令部が、米軍基地の再編協議で、今ワシントンにあるものを座間に持ってこようとしている。そんなことをやられた日には、まるっきりアメリカのアジア戦略の中心が日本になるって言うことになる。イラクやイランや北朝鮮に対する侵略がそこからの命令で始まれば、モロにテロの対象だよね。

 日の丸・君が代の問題ですが、僕はこれが非常に屈折していると思うんだけど、スネオの存在っていうのはあくまでもジャイアンの家来でしかない。とすれば、いい悪いは別にすれば、今の日本にいる人間は、本来であれば「日の丸・君が代」でなく、星条旗を崇めて、アメリカ国家に忠誠を尽くさなければいけない。これが筋なわけですよ。

 じゃあ、なんで星条旗にしちゃわないのかと言えば、これは右でも左でもいやなわけですよ、さすがに。民族意識は誰にでもあるわけで、そう簡単にアメリカの植民地や家来にはなりたくないよね。そういう意味でのアメリカに対する反発が強まっては困る。そこで、癒しとしてのナショナリズムが求められる。

 もちろん僕らは国家権力から「日の丸・君が代」を強制される自体が嫌なんだけれど、大半の人はそれでもって民族意識を満足させることができるわけ。ことの本質を隠されたままなんとなく強くなった気にさせられる。こういうことだと思う。

キー:「癒しのナショナリズム」とか「プチナショナリズム」と社会学者が言うところのことですが、ちょっと拡大してみると――僕はサッカーは好きなんですけれど――ワールドカップとか最近ではアジアカップで国家斉唱することにも、プチナショナリズムってあることはありますよね。

斎藤:あんまり過剰に考えてもいけないと思うんだけど、例えばこういう状況がまるでなくて、もうちょっと世界が平穏なときに世界大会があって、自分の国の選手を応援したり、勝って日の丸が揚がって君が代を斉唱するのが嬉しいということを全部否定したとしたら、それはちょっと野暮かもね。当然、在日の人だとか、かつて侵略された側の国の人が日の丸も君が代もすべて否定するのは、これはこれで当然なんだけどさ。

 日の丸が国旗で、君が代が国歌だと法律で定めたことは非常に抵抗があるのだけれど、僕はそれらが国旗・国歌であってもいいと思う。そこのところは、このサイトの読者と僕はやや違った考え方かもしれませんが。それはとても血塗られた歴史なんだけれども、右翼がいうようにどこの国もそんなもんですよ。それが流されたり揚がったりしたときに反省をこめて、歴史をひきずって今があるんだ、という思いを馳せて、反省の糧にできるのであれば、むしろその方がいい。ただ、それはかつての侵略のシンボルであったわけだから、在日の人たちとかと十分話し合ったりしなければいけないんだけれど、これで新しい歌・旗をつくるって話になったときに、新しい歌・旗を作る人が新しい権力になってしまうよりは、むしろどうせ血塗られたものなんだ、国歌(国家)なんてものは、というコンセンサスのもとに、でももうこういうことはやめようね、という意味でそれが続くんであれば、むしろいいことだと思う。

 ただ、愛国心だとか郷土愛だとか――絶対にそれをいっしょくたにしちゃいけないんだけど――ひとりひとり違うでしょ。愛国心の「国」っていうのは統治機構という制度だからいけないのであって、日本という地理的な条件の中に郷土愛を求める人がいても、これはぜんぜんかまわないと思う。ただそれはそれぞれの価値観に見合った「そこはかとなくあるもの」だと思うんですね。それが何らかのかたちで制度的なものから強要されることがあってはいけない。今、国が求める愛国心というのは、そのような意味での郷土愛ではない。明らかに統治機構のために命を捧げさせるためのものです。だからこそ強制がある。

● 平等を真っ向から否定する教育基本法「改正」
キー:教育基本法っていつごろできたんでしょうか。

斎藤:憲法の理念を実現するために、憲法とほぼ同時、憲法のすぐ後にできました。ちっちゃいときから憲法の理想に向けた子どもを育てようということで、いわば憲法とセットなんですね。

 ただ、そこにもいろんな問題があります。例えば、第3条の「教育の機会均等」のところですが、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって……」とありますが、そうすると「能力に見合った」というのはどういう意味だ、ということになる訳ですよ。教育者の側が「能力」というのを勝手に判断して「お前は能力がないから教えないよ」ということも可能にさせる。ただここに「すべての」がついてるから「まあいいかな」とか、言葉の遊びみたいなところがあるんだけれど、改正論議の中でこの「すべての」っていうのを取っちゃうとか、人それぞれ「お上」が育てようと思えば育てるし「こいつはどうせ特攻隊にする奴だから」と思えば教えない。それでもいいですよ、ということがこれからはやられようとしている。

 このパンフレット(教育基本法「改正」反対市民連絡会の10円リーフレットのこと)にあるように、少数のエリートと従順なもの言わぬ大衆をつくる、これなんですよね、「改正」の狙いは。とりあえず戦争とかをおくとしても、日ごろの社会の中で企業を動かす少数のエリートと、そうでないその他大勢。その他大勢だけれども黙って安く、非常に高い生産性で働く子どもを育てたい。

 今までも例えば就職のときに、普通の会社に100人大卒から入ったとしたら、学歴であったり、家柄であったりで、実は最初から分けられてる。将来の幹部候補生は最初からエリートコース(人事、秘書、総務)があって、地方の営業所周りなんかはどんなに出世しても課長どまりということがあるんだけど、それは一応ないことになっていて、建前は同期大卒ならヨーイ、ドン! で一斉にスタートという幻想で、企業は成り立ってきた。建前さえあれば、会社の中で競争できる可能性はそれなりになくもないので、「こいつは出世なんてしないだろう」と思われていたやつが、頑張って出世したりということもあったりする。それを日本社会は「活力だ」とずっと言ってきた。80年代くらいまではJapan as No.1、そのやり方は正しい、とやってきた。

 だけど、経済のパイが段々縮小してくるとそのやり方は無駄だと上に立つ人は考えるようになった。むしろ、どん底から這い上がってエラくなった人までもが「自分たちはエリートだ。最初から人を選別して、給料やボーナスも全部変えて、目に見える形で分けよう」というふうになったわけ。

 そうなると社会に出る前の教育の時点で平等だ、なんて教えられると困るのよ。学校の時は平等だったのに、なんだ、社会に出てみたら差別だらけじゃないかとなると、齟齬をきたすので、もう子どもの時からわきまえさせる教育を施す。これも狙いなんですね。そうなってくると、会社の中の上下関係だけに留まらずに、社会的な身分制度となって士農工商みたいな意味を帯びてきた。だから女性の派遣社員がモロにセクハラの対象になったりする。こういうことを経営側は「生産性が高い」と見るんだよね。確かにエリート以外の人件費をすごく低く抑えるわけだから、ノンエリートが頑張れば、一番効率がいいことになる。本当はそんなふざけた扱いをされりゃ、まじめに働くやつなんかいなくなる道理だけど、そこはムチで、ちょっとでも怠けたやつはすぐクビということをやっていく。

 そして、国内だけでは収まらない企業がグローバリゼーションで世界中に展開していく、そのリスクを抑えるための軍隊だ、ということになってくると、国民全体を戦力としてみることにもなってくる。そのときに、企業社会に入れない、就職できない子たちが自衛隊に入り、兵隊にされていくわけです。今だって貧しい都道府県から自衛隊員は出てきている。エリートとノンエリートがはっきりしている社会っていうのは、命令をしている司令官と、どこにでも飛んでいって命令に従って人を殺したり自分も殺されたりするのを厭わない末端の兵隊という構図。軍隊の上下関係って言うのは非常に差別的だし、差別が容認された社会じゃないと成立しない。戦後の自衛隊だって体育会系みたいな上下関係はあるんだけれど、世の中全体が「平等がいいよね」って思っているうちはなかなか機能しにくい。だけど、今みたいな世の中になってくると、軍隊のヒエラルキーが世の中全体と非常になじんでくる。教育も今それにどんどん合わせようとしている。

● やっぱり、教育って大きい
キー:日の丸・君が代強制とか教育基本法「改正」反対とかで大いに騒がれていますが、当の子どもたちは、どうなのか。自慢じゃないですけど僕はものすごく馬鹿で(笑)、学生時代、日の丸・君が代とか愛国心とかもまったくわからずに普通に起立していたわけです。最近の『心のノート』にしても、愛国心を植えつけるようにすごく巧妙につくられているわけですよね。それに対して実際に子どもたちはどういう反応をしているんでしょうか。けっこう従順に受け入れたりしてるのか。どうなんでしょう

斎藤:子どもはいちいち深いこと考えてないと思うけど。ただね、いくら勉強ができなかろうがなんだろうが、小・中学校で9年間通って植えつけられるものっていうのは、ものすごく大きいと思いますね。

キー:それは、斎藤さん自身も?

斎藤:僕の生まれは1958年なんだけど、この頃は日教組がすごく強くてね、僕はよく「あんたは戦後民主主義の典型じゃないか」と言われる。それがいいか悪いかは別として、人っていうのは誰しも「時代の子」であるし、今キーくんが「君が代もぜんぜん抵抗なく歌ってた」って言ったけど、僕らのときは歌わなかったんだよ、やっぱね。歌わない学校が多かったのよ。地域によっても違って、愛知県とか千葉県とか管理教育が強いところは違ってたらしいけど。

 一番いけなかったのは、これはほとんどの世代に共通すると思うけど、社会科で近現代史ってやらないじゃない。何でやらないかっていえば、やはり、戦争の評価をしたくないからでしょ。本当は一番大事なわけじゃない。平和を考える上でも。それなのにやってない。3学期に入ってもせいぜいが江戸時代で「あとは本読んどいて」って。そういうことを戦後50年続けてきた。だから、近現代史とか戦争の問題とかに興味を持った人しかやらないで過ごしてしまう。だから、「じいさんが戦争で死んだ」なんて被害者の部分だけを感情的にしかとらえていない。被害者でもあったけれど、加害者でもあったというような構図は、やっぱり勉強しないとわからないでしょ。社会の中では一部の上層部の人だけがそういうことを考えて、考えて反対する人もいれば、「おれにとっちゃ得だな」と思うやつもいる。損得で言えば、戦争したら得なやつの方が上層部には多のさ。

 僕はキー君より成績はよかったと思うけど(笑)、うちは鉄屑屋だからぜんぜん勉強やらなくて、戦争とかの問題なんかまったく意識がなかったんです。フリーになっていろんな仕事をしていく中で、必要に迫られて少しずつ勉強した。これを若い頃からもうちょっとちゃんとやってたら、こんなふうじゃない、もっと立派なジャーナリストになれていたかもしれない。教育ってやっぱり、すごく大きいんだよ。絶対に大きいよ。だから教育基本法を変えて世の中全体がどんどん戦時下になっていけば、10年もしたら世の中まるっきり変わっちゃうよ。

● 「命」を欠落させた戦後世代の政治家
斎藤:戦後史の大失敗は、全然勉強してないのに損得だけには長けているやつらが上のほうにきちゃってること。右翼が恐ろしがるぐらいなんだよね。中山正暉っていう青嵐会の最近引退した右翼政治家がいるんだけど、この人が石原慎太郎のことを「安物のヒットラー」って言った。最初僕が「憲法も変えられようとして、先生たちにとっては願ったりかなったりじゃないですか」と少し茶化した。そうしたら、「いや、違うんだ。私がタカ派なのは戦争をしないためのタカ派なんだ。今の若い政治家は本気でやろうとするから困る。戦争の怖さが全然わかっていない。『北朝鮮がテポドンを打ってくるなら、先制攻撃でミサイル打ちましょうよ、先生』なんていう。『ちょっと待ってくれ。ミサイルを打ったら、本当に人が死ぬんだよ。それを君はわからんのか』と説教したことが何度もある」そう言ってましたね。

 みんな、まさか政治家が本気で戦争をやろうとしているとは思わない。できれば人殺しなんてしなくて済むならしたくないんだから、とすごくノーマルに考えるんだよね。俺もそうだった。いろいろ取材していても30代後半くらいまでは「オレが考えている程度のことは東大出のやつだったらとっくの昔にわかっていて、どうしても避けられないからこうしてんじゃないかな」と、ついつい思う。だけど、40を超えて多少は深い取材をするようになってからはっきりと思ったのは、「やつらは本気でやりたいんだな」と。そのときに「絶対に自分と自分の身内は関係ない」という大前提がある、ということがつくづくわかるわけ。

 最近も小林節っていう改憲論で有名な憲法学者がいるんだけど、この人がここ一年くらい、とたんに態度を変えてきた。『赤旗』とか『週間金曜日』に出るようになった。なんでかっていうと、理論としては自分は今でも改憲派だけど、今の小泉にやらすわけにはいかない。最高に優秀なスポーツカーがあったとして、こんなやつらに運転させたらたまったものじゃない、というたとえをする。「どうしてですか」って聞いたら「だってあいつら、本当に二世・三世ばっかりで、封建時代の領主の気分なんだよ」。「どういうときにそういうふうに感じるんですか」って聞いたら「だって、一緒にやってたんだからよくわかるわ」というんだ。「先生、それってちょっと遅すぎませんか」って言ってやったんだけど。どこで気づくかってくことなんだけど、この人は自分の娘の命を考えたんだって。要はエリートさんたちはなかなか気づきにくい環境にいるんだよね。

 今の二世・三世議員の人たちっていうのは、他人の命というものに対する最低限の礼儀みたいなものが、まるっきり欠けているのよ。脳みその中、どっか欠落しているとしか思えない。そういう育ち方をしちゃってるんだよね。ただ問題は、そいつらを当選させたのも我々だっていうことです。世襲議員を批判することもいいんだけど、落とすこともできたのに、しなかった。

● 教師という職業がおそろしいものになろうとしている
キー:僕の体験ですが、中学の時に日中戦争は何年とかやるなかで、フツウに「侵略」という言葉は出てきました。でも、それを「流す」んですよね。それ以上のことを説明しない。中学の授業でどこまで教えるのか、という点はあるにせよ、人の命にかかわる、という教え方ではない。だから流される人間にとっては、政治に関われない、という構図は根強くあると思うんです。とっかかりがない(苦笑)。僕が――奇跡的に――政治に興味を持ったのは二十歳越えてからですね。

斎藤:キーくんが中学くらいっていうのは、何年くらい?

キー:1992年くらいかな。

斎藤:その頃っていうのは、加害者としての意識というのがまがりなりにも高まり始めた時期なんだよ。また先生と生徒の資質っていうものもある。俺なんかは日教組の影響があるっていったけど、やたら先生が戦争の話をするのがイヤでさ、どっちかっていうと右翼っぽい少年だった。ただ、戦争っていうのは僕は絶対悪だと思う。やむをえない戦争っていうのもあるかもしれないけれど、でも絶対悪なんだよ、それは。そういう思いがありさえすれば、あとは淡々と事実を教えればいい。決めつけっていうのはかえって逆効果の場合もあるし、何でもかんでも反戦教育をすればいいってもんでもない。ただ戦争を教える先生が、戦争は絶対にいけないんだということだけは共有してもらいたいと思うけれども。

 これまたいい悪いは別にした話なんですけれど、学校の先生がみんな戦争大好きになっちゃったということであれば、けしからんけれど、どうしようもないとも思うんだ。ただそういう人ばかりなら議論の余地もあると思う。是々非々で話すこともできる。だけど今一番恐ろしいのは、なにもかもが人事とか労務でそれがなされるってこと。

キー:生徒だけじゃなく、教師同士が点数つけ合う、点数低いとクビっていうのもありますよね。これは学校というよりも、もう企業の論理ですよね。

斎藤:学校の先生の多くは戦後民主教育を受けてきたはずだし、戦争大好きなんていうのは多数派じゃないはずですよね。でもそういう人たちが逆らったらクビ、逆らわないで従順だと給料が高くなる。これは企業式の成果主義ですね。企業論理としてはありえても、これを学校で教師がやったら、いかにある一定の考え方にするかとか、進学率を上げるかとか、そういうところでしか評価のしようがなくなるでしょ。そうすると、本当に恐ろしい職業になる。教育と洗脳っていうのは紙一重だから。そこが一番怖いところですね。

 それで従ってるような人は、教師なんかやっちゃいかんとも思う。日の丸・君が代で立たなかったり歌わなかったりして処分されたり訴えたり、ああいう人たちは非常によく頑張ってるとは思うんだけど、なんでいつまでたっても少数派なのか。けしからんのは、労働組合も全部裏で手を握っていたりするからね。訴えたりする人は『自己責任』でやってるわけでしょ、組合は共闘しない。

 まあ、いろいろな場面があって、ここで逆らったら撃ち殺されちゃうということが確実な場面だったら、それでも「逆らえ」とは言わないよ。逆に、この程度のことなら妥協して組織の存続をはかったほうがいいという判断をする場面もあるとは思いますよ。だけど、今の状況っていうのは、逆らっても撃ち殺されはしない。せいぜい処分、3回やるとクビとか言ってるけど、まだその程度です。一方で、やらされていることはとてつもなくひどい。

 今、この状況の中で日の丸・君が代を強制するというのは、さっき国旗/国歌であってもいいと言ったけれど、それとはまったく別の次元の話です。これだけ議論がある中で、しかもかつての加害した国の人や在日の人がまったく納得してくれてない中で強制をする。しかもそれが、教師だけじゃなくて、子供が立たなくても教師のせいだと言い始めた。これはもう、それまでの何十倍もひどい事態だと思うんですよ。

 それは単に日の丸・君が代の問題だけじゃなくて、この場合は都立高校や養護学校だけれども、特に高校生に対して自分の判断では何も考えることができないという前提で決まっているわけでしょ。つまり大学へ行くか社会人になろうかという人間が、立つのも立たないのも教師が決めて、その命令に従う以外の行動は取れないと考えて言っているわけでしょ。まったく高校生の人格というものを認めていないわけだから、それは3年間に一度の卒業式や入学式だけの話ではなくて、この高校教育すべてがそもそも成り立たないわけだよね。まったく人格を認めていない相手に教育しているということでしょ。これは教育というものの根幹に関わる話なわけですよ。

 だったら、ここで保身に回ってしまったら、何のためにその人が教師になったのか、教職員組合というのは何のためにあったのかということが、根底からおかしくなっちゃう。だからここでは職を賭しても闘ってもらわなければ、そんなヤツらのところに大事な子供は預けられない、ということにならなきゃおかしい。

キー:僕もその意味で子どもをつくるのは怖いですね。

斎藤:都教委の連中というのはある意味でとても気の毒だと思うんだよ。石原みたいなヤツに君臨されて、逆らったらクビというのは、彼ら自身がずっとやってきているわけだから。俺のところに手紙をくれた福祉局の人がいたけれども、毎日の仕事が思想教育なんだって。つまり何か企画書を持っていっても、石原の思想に合わないものは全部却下。それはつらいでしょう。だから石原都政になって5年経って、ものすごくそいつらの人格は歪みきったと思うよ。個人としては本当にご同情申し上げるけども、それを人様の子供にまでやらせるわけにはいかないんだよ。俺の子を石原の私兵なんかにされたくないもん。

 教育基本法の問題ってなかなか一般に伝わっていかなくて、日教組の先生が騒いでるだけという――その日教組はいちばんダメなんだけど――この誤解が抜きがたくある。だから本当に教育が悪かったんだよ(笑)。だから今までの教育は改めなければならないんだけど、今改めようとしている方向は、あまりにひどいよね。最悪の方向だよね。

●最悪にして現実味のある近未来
キー:自身、被弾圧者ということもありますが、現在ってまぎれもなく「戦時」ですよね。それは昔と違って、国民を総動員する必要はない。「戦争」が起きた。その情報を大量のメディアが伝えてくれる。リアリティがないんですよね。戦闘シーンもハイテクな映像に媒介されて、消費され、忘却される。考え方によりますが、「落書き」もメディアです(僕みたいにパクられちゃだめですが)。落書き反戦救援会で「graffiti is not a crime!」、日本語訳すると「落書きは犯罪ではい!」というスローガンを一貫して打ち出しています。たしかに逮捕されるという点で「犯罪」なんですが、ぼくらは確信犯的に「犯罪ではない!」と言う。それは「落書き」という行為、それに及ぶ身体の欲望――全面的肯定――が含意されています(もちろん、批判は受けてきましたが)。メディアに媒介されないメディア、人の繋がり、場所、そういったことをもっと考える必要があると思います。そういう(広範な)――直接的ではないにせよ――横断的な連結が強く求められていると思います(それは、必ずしも多数派の論理に収斂するのものでないのですが)。すみません、かなり偉そうに言ってますが。

斎藤: やや大げさに聞こえるだろうけど、本当に第3次世界大戦に近づきつつあると心配してるんですよ。あのイングーシでの小学校占拠事件で、ただちにブッシュが支援を約束した。アメリカが言えば日本も協力するわけです。万が一にも米軍がチェチェンに爆弾を降らせるような事態になれば、これは世界に拡がる。世界的なグローバリズムのなかで今度はそのテロリストグループが連携するかもしれない。テロリストだってグローバライズされるわけだから、先進国の国家や多国籍企業というセクターと、テロリストといわれる勢力がグローバライズされると、これは第3次世界大戦ですよ。狙う側からすれば、いつもいつもロシアばかりじゃなく、関係もないのにしゃしゃり出てきた国のほうが憎い、ということもあるわけですよね。そのときに国家間の戦争だったら降伏させるということもあるだろうけれど、テロリスト相手だと降伏にならないわけですよ。そしたら世界中がいつもどこかで戦争していると。アメリカはその当事者であることを買って出ているわけだけど、日本がそれこそ分不相応に噛んじゃったりすると、日本は世界一のテロ地帯になっちゃうかもしれない。

 そういうことも含めて、今の日本がどこへ向かおうとしているのか、きちんと考える必要があるんじゃないでしょうか。

〈了〉

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