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Re: 誰か昭和を想わざる 「死のう団」顛末記
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投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 10 月 13 日 22:19:56:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 個人的には反対です 投稿者 ぷち熟女 日時 2004 年 10 月 13 日 18:45:19)

誰か昭和を想わざる 「死のう団」顛末記
http://www.geocities.jp/showahistory/history1/12a.html

--略--
淫祠邪教をカルトと呼びかえるならば、蓮門教も大本教も実態は急激に勢力を拡大した新興宗教で、特別に異様な衝撃を与えるような行動を世間に向けて示した訳ではないので、カルトと断じてしまうにはかなりの差しさわりがある。戦前最大のカルト教団による事件といえば、保阪正康がその著書に「軍国主義下のカルト教団」とサブタイトルをつけているように死のう団事件が挙げられるだろう。死のう団というのは、「死のう、死のう」と叫びながら東京の各地で割腹自殺を図る若者の集団という世上のイメージがあるが、実態は日蓮宗不受不施派の系統を継いだ宗教団体であった。しかも単なる宗教団体にとどまらず、国家主義の色彩を濃厚に帯びた団体であった。

日蓮の影響を受けた国家主義的な宗教団体は戦前には一世を風靡した。血盟団の井上日召は日蓮主義者で、団員らは皆、法華経を唱えてテロに向かったというし、右翼思想家として知られる北一輝も愛読書は「法華経」であった。さらに知っている人は知っているが宮沢賢治と石原莞爾には共通点がある。どちらも国柱会の信者であったという事だ。国柱会というのは、今でもあるけれども、特に戦前に日蓮主義と国家主義をブレンドさせたイケイケドンドン思想で有名で、いわゆる「八紘一宇」というのは国柱会の田中智学の造語である。この田中智学の息子が里見岸雄であった。今でこそ当時の対外膨張主義は否定され嫌悪されるけれども、当時の時代背景では国柱会の日蓮国家主義は一世を風靡したのである。皆、隠しているが、戦前から存在する日蓮系の新興宗教というのは、実は多かれ少なかれ田中智学の影響を受けている。現在は放棄しているが、公明党設立の本来の目的である、国立戒壇の設立というのは実は田中智学の発案であった。創価学会の戸田城聖も本人が意識しているかどうかに関わらず結果として田中智学の影響を一部で受けている事になる。それほど戦前に国柱会の日蓮解釈は影響を持ったのだ。石原莞爾は満州国建国の立役者であるが、その行動の多くは国柱会の思想の影響を大きく受けている。一方の宮沢賢治、実は石原莞爾と同じ大正9年に国柱会に入会。熱烈な信者であった宮沢賢治が上京したきっかけが、この国柱会入信であったし、作家活動の大きな原動力も国柱会への信仰であった。国柱会を右翼として蛇蝎のごとく嫌う人は、宮沢賢治は一時的に国柱会に関わったが、後には心は離れていたなどと宮沢を「弁護」するのだが、宮沢は終生、国柱会の信者として過ごした。「日蓮主義者。この語をあなたは好むまい。私も曾ては勿体なくも烈しく嫌ひました。但しそれは本当の日蓮主義者を見なかった為です。東京鴬谷国柱会館及『日蓮聖人の教義』『妙宗式目講義録』等は必ずあなたを感泣させるに相違ありません」。宮沢賢治が知己に送った手紙の中の一節である。宮沢賢治の遺言というのは「国訳妙法蓮華経」1000部を親しい友人に配布する事であった。じゃあ宮沢賢治は右翼なのかというと、それは短絡的に過ぎる。戦前と今とでは価値観が違うのだ。国柱会の思想は現在でこそ違和感を感じる向きも多いと思うが、戦前においては何の問題もない、むしろ世の中の風潮にマッチした非常に最先端の思想と思われていた筈である。それに宮沢賢治が乗っかったとて、彼を何ら責められようか。後世の価値観で当時の事を判断してはいけないのである。


この日蓮国家主義思想を広めた張本人ともいうべき田中智学をすら抹殺リストに掲げ、「国諌を放棄し、政府と安易に妥協し、その庇護のもとで発展をはかる僧侶たち」と既成宗教をすべて悪として救国運動を開始したのが日蓮会殉教青年党こと死のう団であった。いうなれば最右翼である。ただこの抹殺リストは特高の取調べによるものなので、どこまで具体性のある話だったのかはわからない。昭和8年にこの日蓮会殉教青年党は殉教千里行と銘打って黒装束で布教の旅に出るが、右翼テロ盛んな時代のこと、特高に終始マークされ、神奈川の逗子で一行はあっけなく逮捕されてしまう。日蓮を信奉して要人殺害やクーデターを訴える集団がここかしこに出現した時代である。日蓮会殉教青年党は具体的なそうした行動を起こした訳ではないのだが、少しでも怪しいものは早いうちに芽を摘んでしまえという特高によって、狂信団体のレッテルを貼られてしまったのだった。すぐに信者らは釈放されたものの500人を数えた信者は激減、その後も日蓮会殉教青年党は活動を続けたが、組織の先細りの中、次第に追いつめられていく。一方で日蓮会殉教青年党を放火未遂の1人以外起訴できなかった特高も責任を取って警部補ほか数人が辞職に追い込まれている。

彼らがとった行動は特異なものだった。通常の日蓮系の国家主義団体はテロやクーデターなど外へ向かって働きかけるのだが、日蓮会殉教青年党は集団自殺をほのめかして政府の中枢で信者が騒ぐという行動に打って出るのである。
昭和12年2/17午前12時35分、宮城(皇居)前広場で黒地に白字で「死なう」と書いたビラを撒き散らしていた男が大声をあげながら切腹を企て、救急車に運ばれる。これが日蓮会殉教青年党、新聞報道によって死のう団の呼び名が定着する、のメンバー渡辺であった。渡辺は病院で診断をうけるが軽傷であった。その15分後には警視庁正面玄関の大ホールで縞の着物に黒袴の男が、突然座り込み切腹を図る。そのまま庁内の診断室に運ばれたが全治4週間のけが。これも死のう団メンバーの青木という男。さらに午前12時45分、空き家となっていた元外務次官官邸に和服姿の男が現れ、これも切腹を図り軽傷をおった。この男も死のう団の山本。同じ時間には議会開会中の新議院の正門と通用門の間の庭で切腹を図り軽傷した男がおり、これも死のう団の長滝であった。午後2時20分、内務省3階便所でまたも切腹騒ぎがあり、軽傷を負った男も死のう団の田中であった。

事件前日の2/16は日蓮の誕生日、夜に蒲田区糀谷の教団本部を出たきり信者8人が行方不明となり、見張りの警察によれば、小型モーター船に乗って海へ出てしまったという。そのうちの3人が2/17の集団示威自殺未遂に参加したのだった。「死のう団」リーダーの江川桜堂の行方は不明であった。事件当時の信者数はわずか14人で男女半々、「死のう」のスローガンは法華経の「不身惜命」からとったという。かねてからマークしていたものの、またも首都の中心で騒ぎを起こされた事で、特高は昭和8年の件に続いて重ね重ねの大失態であった。江川は糀谷生まれで芝中学を中退、東京工学校を卒業し東京市電気局建築課に就職、1年半で辞職して日蓮宗に凝るようになり、昭和2年に既成宗教打破の真日蓮主義を提唱して日蓮会を創立、その後、昭和7年頃には信者500人を抱えるに至った。昭和8年には「盟主に命を捧げたり」と教団内でも特に熱心な28人が江川への絶対服従を誓うようになったとされる。この28人が死のう団の原型であった。

特高の必死の捜索をあざ笑うように、その後も東京各地に死のう団メンバーが出没する。2/17夜9時、歌舞伎座で新派50年興行「渦巻」開幕直前に4階の立見席の女2人から突如ビラが撒かれる。そのビラはなんと噂の死のう団のもの。同じ頃には淀橋の角筈(現在の新宿中心部)でも同様のビラが撒かれたが、まんまと警察の追跡をかわしてしまう。

警察は蒲田糀谷の教団本部に踏み込む。中には1人の男と2人の女がいて「死のう」という字を白く染めた黒装束姿で、太鼓を打ち鳴らして「死のう、死のう」と騒ぐので警官は勢いに押されたが、すぐに取り押さえた。連行の最中も「祖国の為に死のう」などと信者3人は騒いだという。

この死のう団事件、昭和8年に一斉検挙された際に特高から受けた拷問とその後の信者激減を恨んでのものである事は明白であった。事件を伝える新 聞にも特高の拷問を恨みに思っての行動ではないかといった内容がちゃんと記されている。前回の失敗に懲りた特高は、今回は慎重に信者らを取り扱うように指示、肝心の取調べも重要なところへ差し掛かると信者は黙秘、服装検査では取り付かれたように「死のう、死のう」と騒ぐので、警察もなす術がなかった。ただ初めから本当に死ぬつもりではなかった事は、押収された短刀が刃先を2センチほど出してまわりを木で縛ったものであった事からわかった。

3/3、ようやく行方不明であったリーダーの江川が、岡山県選出の政友会代議士久山知之に連れられて警視庁に出頭する。江川は黒装束でポマード姿、「お騒がせしまして御迷惑をかけどうも済みません」と特高の上田部長に頭を下げると、上田は「いや、これから奇矯過激なことは慎んで頂いて、一箇所に篭城などせず正業について信仰して頂くんですな」と応対、わずか5分で会見は終わり。その後、参考程度の取調べを受け、終了次第の釈放となった。

その後、世間もこの集団自殺未遂騒ぎを忘れかけていた昭和13年3/19、狂言として片づけられた死のう団事件はまたも集団自殺事件を起こす。しかし前回と違い、今回はすべて本当の自殺であった。発端は同日午後2時、教団本部で今井という27歳の女性が3畳の自分の部屋で劇薬自殺を遂げた事から始まる。今井は帝国女子医学薬学専門学校を卒業した才媛で、父は洋服屋をしていたが、母が日蓮信仰にはまり、今井と今井の妹2人、弟1人を連れて信仰に無理解な父の許を飛び出したのだった。今井はこの母の影響からこの死のう団に最後までとどまる事となったようである。普段は薬剤師をして教団の生計を支えていた今井だが、リーダーの江川の肺結核の病状悪化をはかなんでの自殺であった。

江川桜堂こと忠治は3/20朝5時半、33歳で死去。自分たちは迫害されていると信じ込み、リーダーへの狂信的な信仰で結びついた少人数の集団が、そのリーダーを失った時どうなるか、あまたの例は世界史のここかしこで見られる。死のう団の最後もこれと同じ道をたどる。3/25、江川の実弟である青木桜花こと万寿吉は江川の実家の物置で切腹、服毒自殺を遂げる。23歳であった。同日朝には教団本部で前日夜に銭湯で身を清めた今井、三輪の2女性が服毒自殺、23歳の三輪はそのまま絶命したものの今井は夕方になって死亡。20歳の若さで、先に自殺した同姓の女性の妹であった。示威活動としての自殺未遂は男性ばかりであるのに比して、リーダーの死による後追い自殺は女性が多い事に気づく。後追いで死んだ唯一の男性はリーダーの実弟であった。カルト宗教などでの、信仰への距離というものが、男性と女性ではかなり違うものである事がわかる。

その後は今井姉妹の母と渡辺だけが生き残って教団本部に住んでいたが、渡辺は6/10午後1時40分、浦賀発千葉行の連絡船湘南丸から投身自殺を遂げている。


参考
奥武則「蓮門教衰亡史」 1988
寺内大吉「化城の昭和史」 1988
東京朝日新聞各記事など 1937〜1938
藤巻一保「真言立川流」 1999
古川利明「カルトとしての創価学会=池田大作」 2000
保阪正康「追いつめられた信徒」(講談社文庫版) 1990
丸谷才一/山崎正和「二十世紀を読む」 1996

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