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(回答先: Re: 荒鳩さんへ 投稿者 朽ち無しゾンビ 日時 2005 年 1 月 06 日 19:41:11)
「ゾンビの運動」論が、あそこまで抽象的に書いてあるのだから、その意味する範囲は物凄く広いはずでしょう。
そうであるならば、たいていの運動が、そこに含まれてしまうのではないでしょうか。
運動を抽象的に語ることは、あらゆる可能性を考慮しながら、運動を限界づけていく試みとなるはずです。
したがって現時点で、こういう運動でなければならない、という具体的な方向づけは為されていないかもしれません。
そして、こういう運動しかありえない、というような「運動の条件」など、とうてい明らかにされえない、と仮にしましょう。
すると当然、どのような運動でもいいのでしょうから、運動したい人が個人であっても、仲間を募ってでも、自力で運動していけるはずですね。
しかも、複数の運動が重なりあっても、矛盾しなければ、これといって問題は無いでしょう。
例えば障害者運動と、性差別運動と、平和運動は共存できるはずなのです。
しかし、これまでの教訓から、いままでの運動スタイルでは、限界が見えてきているということはあるかもしれません。
そもそも世の中を変えるには、世の中をほとんど全部、変えなければならないかもしれない、ということがあると思います。
とはいえ、そんなことが可能なのでしょうか。
他方では、運動する人の数だけ増やして、政治的な力をつけた運動が、それで望み通りの世の中を実現したとしても、それが良い世の中といえるのかどうか。
運動を支持する人は、その運動が、よい運動だと信じて支持するのでしょうが、もしかすると、支持する人たちにだけ、つごうのよい運動なのかもしれません。
ならば、人数を集める運動とは、いったい何なのか。難しい問題が、はじめから横たわっているんじゃないでしょうか。
(もちろん、人数を集めることを優先しなければ、それらの問題は一気に、一石二鳥で解決するかもしれませんね)
もし、自分が始めた運動のことを正しいと固く信じ、運動し始めるとすると、その運動に賛成しない人は敵のようなものです。
それどころか、運動が力をもってくると、その運動で伝えるべき「新しい社会像」を、その運動の「力で」人々に押し付けることになってしまうでしょう。
さらには、積極的に運動に参加しない人をも、問題にし始めるのではないでしょうか。
しかし、運動が正しくない場合には、「未来像」を押し付けられたり、運動に動員させられた人は、いい迷惑ということになりかねませんね。
大きい運動が正しいわけでもないだろうし、小さい運動も、大きな運動になることで、正しさが証明される、というわけではなさそうですね。
したがって、こういう今日的な問題をクリアする運動があるのか無いのか、あるとすれば、どういう運動なのか、ということでしょう。
まずは、そのハードルを越えたもの全てに、よい運動である可能性が残されているのかもしれません。
そういう意味で、新しいタイプの人たちの、新しいアイディアは、よい運動の候補といえるのでしょう。