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(回答先: バルタン星人さん、「始源の秘密」について考えてみました。 投稿者 Sinta 日時 2004 年 12 月 17 日 09:18:00)
Sinta さん どうもです。
いやー、あやうく見落とす所でしたが、まぁこうい風に底の方に沈んでたゆたゆと漂うのも心地よいですね。くせになるかも。
>これは、個人的志向や嗜好の域を越えて「良い」ものと承認される「真・善・美」の元と
>なる価値観に通じるものでしょうか。そしてこれに基づく「価値」は、貨幣を尺度とする
>価値とそうでない価値がありますね。
デュシャンの泉の話しって阿修羅でどなたか投稿されましたでしょうか。私は朝日の紙版で見たんですがWebには見あたらなかった?様な気がしました。
http://www.linkclub.or.jp/~kawasenb/02artist/dcn1_page/izumi.htm
デュシャンの泉の便器は何万個、何十万個つくられた大量生産の産物ですが「オリジナル」は一つしかない、芸術(美)は徹底的に形式だということではないでしょうか。(この辺から柄谷モード全開)美術館に置いてあれば便器だろうが美術品と見る、あるいは見なければならない。
「大先生」はご子息から「バカチンコ」などと呼ばれておられる様ですが、私も子どもが小さいとき美術館に連れていってダビデの像の複製?の前で「やーい、ハダカ、ハダカ、チンコ、チンコ」と大騒ぎされて「るせー」って頭パシッしましたけど、ご同情申し上げます。
「真・善・美」はカントが「判断力批判」で展開していますけど、美は真と善を判断停止(かっこ入れ)することで成立する。真、偽でいけばフェルメールの絵を見て「デジカメで撮った方が本当だ」とは誰も言わないし、サドやマゾッホ、日本の「わじるし」(春画)挙げるまでもなく美は善、悪の括弧入れで成り立つことはいうまでもありません。
逆に「科学」=真偽判断は「美、醜」「善、悪」を棚上げ(括弧入れ)することで成立するわけです。カントが画期的なのは「価値判断」について厳密に定義したけど「優位」はない、と言っていることです。科学者は「真偽」の追求が最優位ですが「そんなんして何がオモロイの?」と聞かれれば詰まる、実はそのことに「善」「美」を見ているわけで、決して「美醜、善悪」から逃れうるものではないし、イコールで結びつけられるものでもないわけです。
問題は「○○はXXの彼岸にある」などと言ってナントカ至上主義から降りないアホがいるということでしょう。いや、降りないというより括弧に入れたり外したりの思考操作が出来ないというべきかもしれません。そうした括弧入れと外しを切り替えるというのが「共通感覚」=コモンセンスという正体不明のものでもあるわけですが。
で、貨幣の話でいくと「交換価値」というのはあらゆる価値判断を「括弧入れ」するわけです。美術品であろうが、科学的な発明だろうが個別の具体的な「使用価値」は判断停止される。いま使用価値と書きましたが実はそんなものは無くてですね、丸山さん得意ののソシュールの言語理論ではないですが「意味するもの」(シニフィアン)と「意味されるもの」(シニフィエ)の関係と同じで、交換価値はあるコード(記号)体系の中での示差的な関係の中にしかない、だからその結びつきを解かれれば両方とも雲散霧消するものでしかないわけです。
「ヨン様」でいえば(笑)皆さん「真偽判断」しかなさらない、あれはペケペケの陰謀だ、「名指し効果」ですね。それで判断停止じゃないか、しつこく言っていたんですが、じゃぁ、「何故受けたのか」という「美的判断」。一番おいしい部分はゴミ箱に捨ててしまうのは勿体ないお化けが出る。(笑)それこそ「批評」ということじゃないかと思いすけど。
レヴィ=ストロースが美術作品は「現実の縮小模型」だと言っていますが、絵画が現実の二次元的な模型であり、彫刻には色彩が欠落している、だから価値があるんだという話しですね。つまり鑑賞者がそれを補い完成させることで鑑賞者は創造者と対等になるということですが、これは実は問題アリアリで、暗黙のうちにあるものを強いるわけです。
これは阿修羅既出なんですが、柄ヤンは子どもや外国人のようなヴィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」を共有しない他者との間には「教える/学ぶ」という「売り/買い」に相当する非対称的な関係、命懸けの飛躍があると言っているんですが、上野千鶴子が『社会学者が文学を社会学する』で「おっちゃん、それ権力関係やおまへんか」と噛みついていています。
「売り/買い」において労働力商品という賞味期限つきの生ものを売る立場と商品、貨幣所有者が対等であるわけがないということでもありますけど、私が子どもの頭をパシッするのと同じ、食わせてもらっている恩義(を感じていればの話ですが)で少しは黙る。要は「共通感覚」は、まず禁止、抑圧として成立し、意味は必ず遅れてやってくる、あるいは永遠に来ないかもしれない。
どうせ誰も見てないんで言ってしまいますが、私は上野千鶴子さんラブラブなんです、あんな可愛い人はいないと思っている。時々「ベネディクト・アンダーソン何するものぞ、我が日本には吉本隆明の『共同幻想論』あり」とか国粋的なドアホウな事言うのが、また何とも...って何の話しでしたっけ。
>ある種の共通言語が存在する。だから交じり合わない部分があったり、理解できない
>部分があったりするわけです。
私みたいなポスト・モダン人間は規範=共通感覚を社会順応主義として忌避してきた、やっぱ「差異の哲学」じゃんと言ってですね。しかし差異というのは関係性に置いてしかありえないわけで、おっしゃるように暗黙のうちにある共通項を前提にしていたわけです。しかしあらゆる規範と戦って自壊させても残るのは貨幣という規範だけというアイロニーですね。むしろ資本の運動に「乗り越え」られてしまった。
今月号の『早稲田文学』のテリー・イーグルトン「After Theory 忘却の政治」は非常におもしろいです。時間があればOCR入力してUPします。
>周りに何も無い環境で誰かが指さした日の出の太陽とか、大きな月とかを見た時、誰も
>その人の指を見るのではなく、その先の対象を見て一体感を味わえますよね?
これもあっしらさんとのやりとりで書いたことですが、カントの言うサプライム(崇高)ですね。その感動を「宗教的回心」にしないため、その時一体感を持った人達はどうしたらいいんでしょうか。
たぶん、静かに笑い合うんじゃないでしょうか「そんなことは大したことじゃない、人間だってなかなかのモノさ」って。
>こんな共同主観を有効利用して、争いや破壊を食い止める方法はないものでしょうか?
>なんて考えてます。でも具体的にってとこがまだ思いつきません
前記のイーグルトンの論文にありますけど今の世界は富める者がグローバルで、貧しい者はローカルなわけです。いまイラクで頑張っているのは地縁、血縁と宗教を基盤にした共同体が残っているからだと思うわけです、まだ商品経済で完全にバラバラにされてはいない。ですから私は「窮民革命」というのは全然ダメだと思うんです。人間腹一杯食えないと戦えない。チェチェンの様に根こそぎぶっ壊されたら抵抗できないわけです、日本は「貧しいけどグローバル」ですから、なにか作らなければ依拠できる共同性はない、あるいはいま何が残っているのか....みんな答えが出ないから苛立つ、手短に近場に敵を名指ししてやっつけようとする、非常にしんどいですが、考え続けるしかありませんね。
>なんか、「ユルイ呟き」みたいで ごめんなさい。また宜しくお願い致します。
いやー本質的かつハードコアな話しでしょう。