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バルタン星人さん、こんにちは。
ここの方が、居心地がよいので・・・。
雑談19のレスに繋げたかったのですが、ドジって中断してしまいました。
でも日本の美意識の中には(あっ、韓国も)「間」「空間」も表現の一部分として鑑賞する愉しみがありますし。
なので「この間抜け!」と言われたら、ポジにとらえて「あ、ありがとう。誉めてくれて」っていうのもアリかなと。
さて本題です。共同主観=世界の定立という「始源の秘密」についてです。これは、個人的志向や嗜好の域を越えて「良い」ものと承認される「真・善・美」の元となる価値観に通じるものでしょうか。そしてこれに基づく「価値」は、貨幣を尺度とする価値とそうでない価値がありますね。価値観は時代や地域によって変化しますが、いずれも言葉による「関係」によってそれらを生み出す。(個人的には、対極の「偽・悪・醜」もある意味において、これらの存在価値を否定するものではありません。多分微妙なニュアンスはご理解いただけるかと―偽の極みの美とか)
丸山圭三郎著「言葉と無意識」(講談社現代新書)にはこの 言葉、価値、貨幣について下記のように書かれています。
一般的に私たちは、自分の欲しいものはすべて自分が生存するために欠くべからざる本能的欲求の対象と思いこんでいるばかりか、その対象が自然的有用性を内在させていると信じきっている。ところが、この一見純粋な生産物の<使用価値>も、貨幣が生み出した<交換価値>に汚染された文化的欲望の対象でしかないのである。労働によってもたらされたはずの生産物がひとたび商品形態をとるや、あたかも自らに内在する自己同一性を備えた即時的な価値として現前し、人間の意志を超えて動き出し人間を拘束するさまも、言語の物神性と変わるところがない。
この抜粋は、貨幣を尺度とする価値観についての「モノ信仰」に纏わることですが今、多くの人が次の時代にシフトする予感を感じ取りモノによる充足感ではない「価値」を模索しているのではないかと思います。
ところが今、多くの日本人が苛立ち摩擦が起こっているという現象は、上記の貨幣を尺度としない価値観のズレや共通理念の「探りあい」といったところから生まれているような気がします。そしてこれが何処から来るのかというと、現在の私達の環境は、『生まれた時、既に病院、学校、会社、監獄等等、すべての身の回りのシステムがあたり前のように整っていた。』という事にも起因すると思います。監視と規律のもとに整えられたシステム。
はっと気付いて周りを見回し、目を開き、耳を清まさない限り、この用意されたシステムに従って生き続けるのでしょう。
私達が、「今」に疑問を持つきっかけや共感するきっかけというのは、すべて感知したものを脳で「言葉」に変換されたものだと思うのですが、このきっかけは、人それぞれで、探求するツールとして哲学であったり、宗教、精神世界、政治、なんてカテゴリーがあります。そしてこれらには、時代によって変化こそすれ、その中では、ある種の共通言語が存在する。だから交じり合わない部分があったり、理解できない部分があったりするわけです。
でも、言語に変換される前に感知する五感の感覚、情報にも依らず感じ取るもの、そんな全てを超えて共有できるものも存在する。
例えば、いきなりな例えですが、丘とか海辺、グランドキャニオンとかに居る自分を想像してみてください。周りに何も無い環境で誰かが指さした日の出の太陽とか、大きな月とかを見た時、誰もその人の指を見るのではなく、その先の対象を見て一体感を味わえますよね?その状況で、誰もが自分以外の人の、宗教観、政治理念、好き嫌いなんて考えもしないだろうし、ただ一緒にいる事ができると思う。
そんな対象が、尺度を越えた価値観による「始源の秘密=共同主観」なのかなと思うわけです。
逆にこの主観を、政治、思想などに還元して、境界を飛び越え行き来して、新たな方向性が見つかる可能性もある。
一部では起こっているようですが、もっと一般的に解り易くという意味で。
こんな共同主観を有効利用して、争いや破壊を食い止める方法はないものでしょうか?なんて考えてます。でも具体的にってとこがまだ思いつきません。
なんか、「ユルイ呟き」みたいで ごめんなさい。また宜しくお願い致します。