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愚民「愚皇」愚悪仮説
(ロイヤルな個として)
問題は、問題発言を繰り返す立憲王室内に居住まう関係者の程度の低さや、配慮の欠如にあるのではないかもしれない。
むしろ逆であろうはずで、趨勢的な意味での最高水準の教育機会を、教育費に喘ぐ庶民からみて当然、潤沢な予算で保障されていようからには傀儡人形であるかの、集権に帰する中枢的な演出装飾用の存在ではなくして、すでに破戒的言動には近しいと感ぜられるのである。そこにあるのは緩やかな思想性・思想的運動性であろう。
市民的な社会意識に目覚め、さもなくば自身が置かれている立場の有利な側面を自覚すれば、またはより閉鎖的にでも、内部の人間関係における深い情愛と責任とに促され、それを制度構造全体の連関から捉え直す折りには、どこから改革するのか、インパクトをどういった場での表現で与えればよいかについて、当人なりの気づきを得たのは不自然ではないはずなのである。
大衆層にせよ、貴族層であれ、その営みは俗人為政と相関的であるというよりも、大衆・貴族ともに下位たる強制奉仕側なのであろう。
しかし、そうした多衆としての積極奉仕に疑念を抱く、また対照的に奉仕の低減・逓減を嘆く、突出大衆ならぬ突出貴族は、何れの機にか出現しうるはずなのである。
昨今の王室を巡る騒ぎの顕現、波乱と緊張の醸成は、もとより聖なる俗人性をソースに面白おかしく加工する媒体の風潮、コネが入り込んだ収集力、また報道産業自体の成長など、情報化・国際化の進展に起因するものではないと思われるのだ。
これを長期的に防止するには、減速材としての伝統文化ないしは遊興への形式的関心へと、醇化もしくは馴化させ、制度へと徐々に再び閉じ込めること、つまり、公人すなわち社会存在としての各個を、平たくいうと、それらの貴人は人工的に全体社会での虚けにしてしまえばよいということなのであろう。
(この点では、国民に接する従来の帝王学と、まさしく源を同じくするはずなのだ。
むろん、生産型の人間形成に、富国競争上、教育水準を上げねばならなかったのが国内では敗戦後であろう。
だが、それとても、即戦力型への企業人へと民間教育するための担当者が教育機関に出向するようになり、また企業が学校経営に参入して、先行投資を含む一石二鳥の利回りに浴する民営化が断行され、また官学である教育機関そのものを法人化する一方、自治体や上部組織や筆頭株主が自由主義的に恣意運営できるようにして引き継がれ、功利思想を強化される流れとなっているかもしれない。
つまり、国家単位でいう学問ないし学知一般は、やはり自主自己管理型の教養ではないところの、生産教育である教育の本懐を露呈するかの形になっているのではなかろうか。
さらにいえば法廷の法的判断への啓蒙をも、社会的再教育の契機と捉えるとき、知的財産等を切り口に、いうなれば体育団体によって業界内部の齟齬を調整・仲裁する民間審判のようにして、保守民業が司法へと進出する動きは、教育一般において、一瞥した以上に大規模な地殻変動であることが窺われるであろう。
尤も革新系でも、司法参加の模擬企画や、自主裁判の萌芽的な試み維持への傾注などと系統を分散して、保守側とは異質の努力が払われたようではあるが。
いずれにせよ、広い意味であればなお、教育というものは公務・国策であっても、それなりの数に対し、それなりに一定程度の制度的な幅と活用をもって、多様な思想に接する機会と習慣をもたらす働きを担ってきたはずである。
しかも教育関係者に、反体制的支持者や準構成員が流入・輩出するような方向で公務員制が自己撞着に陥りもしたというのであれば、それらの反省として、国家機能不全の建て直しに、より保守的な民間大企業を、大企業であるという自己宣伝の権威を背に、依然として俗界の一大源泉にありながら、優先的に正統に教育に介入させるという、思想経済表裏一体の浄化に乗り出したものと思われるのである。
生産は生活直結であり、生産技術からくる収量と雇用・給与水準の王であるところの最大手企業は、現状肯定的にそうあるだけに、多衆にとっても危険ではないと思わせる高度な危険性をもって国家施策に重用され、いわば、その襞ごとに毛細を伸ばし、絡みついてきているのかもしれない)
いずれにせよ、まずは教育選良のなかから、逸脱者が登場するのであれば、受講する強要教養度の高かろう貴族にあっては、その頻度も高いはずなのである。
ただ高貴であればあるほど絶対数が少ないために、一般から制限なく募られた独裁者よりは変異体が圧倒的に見られにくいということなのかもしれないのだ。
換言すれば、諸国の皇族にあっては、教育選良として表には、また放蕩型の落伍者として裏には、逸脱者が登場するというのであれば、国家全体への信用の揺らぎをもたらすのであるから、反体制勢力の期待も相俟って、波紋が広がるのであろう。
しかしこれも、その種の危うげな娯楽として是認され、定着し、生活の潤いに供されるのであるならば、統制者にとって思想を語らない限りで、さしては忌々しくあらざるものといえるかもしれない。
そういう王室の変化はまた、反体制的な多数化運動において大衆獲得の説得材料にも使えようが、それが一時的現象もしくは、処置・封印されるまでの兆候に留まるのみならず、そこを制度論議の突破口として結果的に招き入れることで時間稼ぎにされ、また王室破綻へと運営の躓きに仄かな希望を繋いだことで皮相な反体制を長引かせる好材料に加えられるという意味では、また直接には、過敏な動きへの反感を生じせしめることからしても、ときとして騒ぎは過剰反応の災いとなるかもしれないのである。
むろん、それらは相殺されることなく、いずれもが反体制を強化し、しかも反体制の強化は、これもまた両面から体制を強化することになるのであろう。
すなわちそれらは、しかもさらには、それぞれが二重に、不用意な変異体と反体制の接種からくる免疫および、すでにして体制内外に誤った運動の支流が増すような停滞、ということだと思われるのだ。
すなわち体制が真の中心で崩壊するのでなく、大衆と貴族は、ともに機能においては外部であるだろうから、というのだ。