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差別仮説
保証なき全員動員という見果てぬ夢のために、個々個別へと開国を迫るのは、まさに多数化運動家その人であるはずなのだ。
それは情報交換ではなく、対話でなければならないという。
対話において、より多数への全体利益の話で勝り、主観的選択を屈服させるのである。
(統合は本質において、復元として真実のために、そうならねばならぬのに対し、人的統合は力のために、そうさせようとされる。力を集めることの純粋な在りかたとしては虚無である。ないし、危険である、制御されないとき、もしくは制御されえない大きさであるときには。
また虚無でない場合に、力は利用される、または利用しようとする。そうさせようされるとき、そうさせようとする者が)
彼らは本質において不定者、引きこもりなどの多面的切断者を容認しえない。
それがまさに差別的なのである。なぜなら、沈黙は病によって控除されるべきものと見做されるからなのだ。
(差別してはいけないのではない。差別に過ぎないことにつきあう義務はないというのだ。
また差別であるなら、日頃の主張は矛盾するか、矛盾させる側を隠さねばならないだろう)
統合市場に巻き込むための余計な手助けは丁寧にしてくれる。
(対等に見てくる。対等のはずである、どの私も数なのである。
最終統合の前に、最終統合を前に、数はひれ伏す。
統合は神である。統合過程は神の生である。
どの私とも遠いところに神は在る。それに届く見込みは何もない。
しかし、そこへ行けと声は届いてくるのである。明らかに代理の声が)
そういう拡大に合意し、まずは経済の統合した結果が、今の、これなのである。
何のために意思を統合する。
意思は意思の資本である。利益の集中した中心が踏み荒らされるのは目に見えている。
狙ってくれといわんばかりの、無防備化そのものである統合への自衛策は何かといえば、逆としての分散であり、分散は切断なのである。
それは個々の恣意によってなされ、生活防衛のための迷路を意識的に、また結果的に形成するか、またはしない。
もっぱらそれは恣意という、彼らには取るに足らない最善に委ねられるのである。(これが正当な迷路である)
逃避仮説
多数化を批判する活動自体が、多数化ではないかとの疑念を受ける恐れは、常にあると思われる。
だが、拡大しないことに利益があるならば、拡大の野心があるとは見做されにくいだろう。
拡大しない利益で、というよりも、拡散して集権中心へと意図が到達することこそが致命的であるならば、それをもってすれば、拡げることそのものたる様態が眼目であるような多数化運動ではないのだと理解されやすいのだろう。
もとより国家を脱するとの仕業は、語りづらいことのはずである。
そのとき密告は、少数への流布であったものが、危険存在と直通になってしまう跳躍的事態となろう。
が、それとても、多数向けに開かれていない特異な表現様式ならば、本質を嗅ぎ取られずに難を逃れうる新段階なのかもしれない。
むろん、舐められることで執拗な、また無遠慮な迫害に遭いがちとなるかもしれないにせよ、過剰に迫害すればこそ、より頭脳的な上部に、わけがわからないとするものを中継される危険の可能性は下がるのではないか。
(いかに半ば隠すか、狭いところで判りにくくするか、結果的に判りにくくなる線を狙うか。際を、個別文化をと。
個の文化ごと個を、と)
ことに核心については、個別性の結果として符牒的すなわち難解であるのが望ましく、その使用とは抑制、節制して意思と意志を広めつつも、なお分散的に地下結社的であるという、まさにそのことに思えるのだ。
(あえて効率を下げる。これは集団性の発露である統合開発や、統合相乗性の開発であった炉心からの収穫への反定立に相当しており、趨勢に対する個別の自由の、しかるに一般化された、成果を共有されうるとする分散集団的、小集団的な行使である。この随時の営為が濾過を通じた自制であり、多数化ならぬ増員、すなわち合目的的増員なのであり、それ自体としても合目的的なのである)
基本仮説
対話を通して真理がえられるか。
真理など求めていないとすればどうか。
恣意は、真理に勝る。
真理を求めるのも恣意にすぎないからである。
不明仮説
少なくとも誤った自己を鍛えてゆく必要は無い。
その過程に際限は無く、しょせん不断の、密度について基準不明の対話を強いるのである。
対話しなくとも、独善にならなくて済む方法は、仮言化である。方法は有るのである。
(ならば、独善になるとするのが独善であるという、いつもの楽しみに出会う)
仮言化すれば対話の途中などにならずして、しかも仮言であっても最終命題は明確に提出されうる。
なぜならば、命題が仮言命題の内部に蔵するのであるから。
それどころか、仮言において誤った自己はないのである。
仮言は、仮言とする限りで、仮言とするがゆえに原理的に完全である。
完全であるから、責任をもてるのである。(だが賢明なる個別運動家は徹底的に責任回避をしうる。誰が社会集合になど、逐次責任を預けるか)
無制限に不完全であり続け、対話を繰り返す不全社会、不全交流の前提雰囲気では、他者を糾弾できない。
糾弾は対話ではない、一方的確言であって純粋である。愚かしい伝統である妥協などあろうはずもない。
対話のようにして確言すればよい。その擬装と、差益すなわち集団的誤解の利用が可能である。(ここにも限定流布の効能が見られる。いま限定流布を知る者は、直線的ではなく絶え間ない死で更新される、その数の往復をも、これを読めたとき、この、ここで知った)
彼らの運動的日常が対話でないことは、さらに悪い。対話と称して、一方的確言であることが、その逆と比べても最悪なのである。
(あるいは対話を機械でする。機械で対話しているが、それは意思決定の対話ではない。
もしくは時差で対話する。それも対話の順序を変え、後を先にする。そこに反応はない。
用意された文言は、有無に対応する有無でしかない。
限定が深く、感情の細部が脱落している。
まともに受けない。ずれをつくる、計画的に。
宙に放る、一般論として。
迫る善意の相手を分解する。そのうえ、これら、有る方法は、豊かに成りうる)
しかも対話では、宥めるために、相手の主張を一部受容する。媚びである。
これは取り引きですらない。後ほど回収される一時的な預かりなのである。
より学習の段階が進むにつれ、自然に理解すると泳がせるのである。
敷居を下げ、取り込むことを優先する。そして囲い込んでから、おもむろに消し去るのが手順、というわけである。
もし対話すれば、弛緩と妥協と相互容認の譲歩対話に明け暮れる。(中間化するのである、悪と善とで)
この態度は寛大なのではない。この集団的状態を腐敗という。
(だが、風通しをよくすれば敗北する。無神経に駆け抜ける速度に勝る思慮は無い)
特異仮説
腐敗がある。だからこそ、すべて否定する。その上がある。それでも足りなければ拒絶する。ないしは下でもあるも。
例えば付きまといは許容される。求愛も、尾行も、抗議行動も許される。
ところが、そのときに、或る特定の範囲の何かを表現すれば、正当に不要を申し渡される。
もし却下されれば、ようやくそこで終わらしめられる。付きまといの終わり、これが先方の拒絶であるのだ。
付きまといを否定する者が、言論においてはつきまとう。(私有化と集権化への批判の場を私有化し、集権化する)
或るときには、読み込まなければよきものを目障りだからと、消せという。(応ずる間もなく、確言できずして、仔細なしで他が己で消す)
この純粋理性が、封殺主義であることに気づかぬか。(潔癖に病んだ絶対の主体が手を差し込む絶対の視野存在)
例えば男は女を護る。男から護る。護るというよりも既得権を囲う。
相愛は揺るがされる、ゆえに、相愛のうちに、意を受けて追い払う。
あるいは暴力的身内へと、責任の持ち合いで譲って逃げるように、暴力的に追い払ってもらう。否、これが暴力でなくて何か。
対話しなければ無罪である。また対話しなければ、集団の集団的術中に填まることはない。(集団と個は、相互に無罪でいられるのである)
傍観者は取捨選択できる。傍観者であって傍観者でなくなる、なぜなら、出力するのであるから。
空中に出力し、必要な者が取り込む、多様な可能性が流れる、それを嗅ぎ分ける。(最終的に己のために、あるいは少なくとも己の基準で)
わけの分らないものを投げ込む。
(相手にとって、そうであると判って投げ込む。
だが、意味はある。意義もある。適っている。それは運動に適う)
わけの分からないものと対峙する。
そして己を変えようが変えまいと、
そもそも拾おうが拾うまいが。
これが市場である。
例えば、売るのは自由である。例えば、性を買うのは自由である。
暗がりで売ればよい。規格化してはならない。言われていないルールは無視しうる。
それらを全て無視しうるのが自由である。
個別活動家は、個別性を自己抑制し、あえて共通の際を狙い、個別一般たる抽象存在と化す。
ときとして、全く重複しない挙げられた項目について、全てが際であるような非活動的個性もありうるのだ。(知覚された別格特異性を、さらに幾らかの或る恣意が弁別しうるが、無価値としたり、鋭敏な恣意や、その格をこそ無価値とするなりしてよい。さらには知的濾過を無価値化し、感覚的濾過と等価にできもするところに転じうる)
(この位置の、闘争の最終滅却現場に前線が移動してきた。ここでは回収しえない個たちが取り残されている。この小さな領域が、大きな領域と均衡する。小さな領域と、大きな領域が、個において総合される。個と集団との出会いであり、個と集団の集団との出会いである。集団の集団は集団に総合されない。その前に、個と出会い、個に分解して別の経路を辿るのである。
しかし、そういう時間性というものも、そもそも集団である不溶性の遅延なのである。個は通常、即時に個である。
個を語る個という触媒によって媒質が、それを包む広々とした培地として触られ、集団であった過去でもある余所が一斉に塗り変わる。だが、意識的に集団を延長し、増量し、凝固させんとする、ここにある触媒毒に、ややもすると感染していってしまうのである)
そういう存在は絶えず問題を起こし、真に求められてきた境界との亀裂を輪郭づけてくれる。
この存在は、事実性のみの他者志向、先人志向、管理服従や、可能なその他をも、もしそれが有れば破壊する。
しかしながら、その存在の生きづらさは最終的自滅へと、存在を接近させてゆくのである。
他方、これでも気づかない慣習主義は、集団的雰囲気とか集団代表意思とか相互集団依存とかいったものが圧殺してゆくようにして、特異者への罪を重ねる。
ゆえに外部的、上位的存在に訴えて、角を立て、騒いででも改正させ、修繕させ、賠償させるという、地域運動の成立余地があるというのである。
それは幾多の自爆によって、冷たくも無縁で敵対的な同類を結果的に護ってきた。
(先駆者が被った火の粉は被らない。そこに世代の隔たりがあった)
そういう献身は、だが我のためにのみある。これが恣意である。