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(回答先: 東国復興伝統主義者の主張:「天皇右翼は地方分権と西洋思想没落の現代にそぐわない」 投稿者 明神下 日時 2005 年 1 月 14 日 07:31:13)
「天皇制と靖国神社と歴史教科書」論議に一石を投じるための転載 ( 釣りを含む懐古趣味と儒教風味に注意しながら ) 『皇国史観プロパガンダで東日本人を侮辱するな』1-3
43 名前:真の神話教育とは?
日本神話なんて偽造神話だろ。我らにとって必要な神話・伝承は、郷土に根ざした郷土の神話・昔話のたぐい。
人工的な偽造神話なんかで、郷土愛が育つわけがない。
我らに必要な神話は、柳田など民俗学者が採取したような、地域に根ざす伝承の類だろ。これらを復権させてこそ、真の地域に根ざした郷土愛が育つというもの。
山には山神があり、川には川神がやどる。それを日本の津々浦々の民は、崇拝し、民間伝承として語り伝えてきた。
それをヤマトのクソどもは、文明開化と称して、日本の津々浦々に学校・役場を建て、地域に根ざした生きたる神話=民間伝承を虐殺していった。その目的は、美しい伝統的地域社会・郷土愛を破壊し、醜い人工国家たる国民国家へと、日本を作り替えるためだろ。
本当に我らに必要なものは、地域に根ざした神話だから、天皇・ヤマト族のイデオローグの日本=ヤマト神話なんて要らん。
我らの神は、一枚の葉や一匹の虫にすら、宿っているのだからな!
だからアズマは、ヤマト族のイデオローグのヤマト神話に絶対に反対だ!
日本神話なんて偽造神話を公教育でありがたがる前に、子供には、地域の「お地蔵さん」「道祖神」の謂れや、地域に根ざす「民間伝承」を、土地の古老を教育の場に招いて教えるべきだな。
教科書で、通り一遍の、しかも、国民国家生成のイデオロギー、日本=ヤマト神話を教え込むなど、百害あって一理なし。
それより、古老を招いた地域の生きた「民間伝承」を実施することこそ、真の伝統に基づいた、郷土愛を子供に敬わせる歴史教育だ!
45 名前:歴史を学ぶとは?
西郷隆盛は、薩長簒奪政府がアズマ徳川正統政府から戊辰戦争(1868〜1869)で政権を簒奪したときの指導者であり、薩長簒奪政権の首領であった。ヤマトにとっては、建国の偉人である。
しかし、戦争に敗れて東国という郷土を失ったアズマにとっては、必ずしも偉人ではない。いや郷土を蹂躙し、アズマから不当に政権を奪った強盗団の親分ですらあるのだ。
歴史は、民族によって、それぞれ異なって当然かも知れない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないのかもしれない。個人によっても、時代によっても、歴史は動き、一定ではない。
しかしそうなると、気持ちが落ち着かず、不安になるであろう。だが、だからこそ歴史を学ぶのだといえる。
歴史を、固定的に動かないもののように考えるのは止めよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることも、止めよう。歴史を、自由な囚われのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめることにしよう。
そうすれば自ずと、歴史の面白さが心に伝わってくるようになるだろう。
以上の趣旨で、『皇国史観で東日本人を侮辱するな』スレは立ち上げられた。
ヤマトにはヤマトの歴史の見方があるように、アズマにはアズマの歴史の見方がある。
歴史とは、数多くの見方を重ねることに意義があり、新しい歴史教科書のように、現在の日本ナショナリズム思想で歴史を見ることは、一方的見方にすぎるのである。
51 名前:どうしたら良いのか解らない
投稿者:下等哲史
唐突ですが、私は最近、感情が激すると涙が出るようになってしまっています。
それは何故かと言えば、最早国家としての体をなしていないアズマの現状を、あらゆる現場、特に歴史教科書に関する活動現場でさんざん見せられてしまっているからであります。
戊辰戦争の幕府方戦死者のご家族が、本来なら流さなくても良い涙を流し、逆賊として、未だに皇国史観により辱められているこの現状。
この悲惨な思いを度々させられねばならないのか、それを考えると本当に情けなく、自然と涙が流れるようになってしまったのであります。
私は本当に無力な一個人です。武闘派としての行動力のみが取得の人間にすぎません。私はかなり過激な投稿を行ってまいりましたが、本音を申しますと、自分の行った行為を是としたい気持ちが、心中まだ半分以上残っているのです。
何故なら、私のような人間がいかにして郷土を売るヤマト野郎と有効に闘えるか、全く解らないからです。
今、アズマは国家としての体を全くなしてはおりません。このままヤマトの馬鹿共に国政を食い物にされては、靖国問題から教科書検定まで、すべてがヤマトとブサイコク文化人の思うがままに牛耳られてしまう可能性大です。
今、私はどのように行動すべきなのでしょうか。何を成すべきなのでしょうか?
私はどうしたら良いのか全く解らんです。誰か教えてください・・・・
私は何をすべきなのでしょうか?
53 名前:悲嘆は禁物>下等氏
投稿者:レスザウラー
逆臣の汚名を受け、簒奪政権下で維新を生き延びた志士達の苦難は、我々が現在抱えているそれらより遥かに巨大だった筈です。
明治維新の際、我ら東国を愛する「アズマ至上主義者」は、上野の山で戦い、長岡で戦い、会津で戦い、蝦夷地で戦いました。
迫り来る簒奪者、蛮族、えせ南蛮人と、徒手空拳に等しい力で戦おうとした我らアズマの徒は、劣勢を知りつつも戦い、戦場に散っていきました。
それはなぜか?それは皆、愛すべき郷土を、蛮族ヤマト族の馬蹄下に踏みにじられるのが耐え難かったからです!
結局、アズマの志士の戦いは成就することなく終わりましたが、我らアズマの志を引継ぐものたちが、いまこそ明治簒奪政権を打倒し、アズマの未来を切り開くべきでしょう。
我々も新撰組のように、この命燃え尽きるまで戦おうではありませんか。
我々は国事に奔走する志士であって、志士に絶望は不要なだけでなく、許されない。
62 名前:ブサイコク文化人は、デマゴーグ!!!
ブサイコク文化人は、戦後民主主義の弊害を、西洋文明の「個」の増大が、社会を成り立たせている基本原理たる「公」を浸食した結果起きたと分析し、「公」を復興させるべきと主張する。
しかし、「個」が西洋文明の産物なら、「個」を社会に調和させる「公」概念もまた、西洋文明の産物でしかないのだ。
ブサイコク文化人は、「公」を主張する時に、「個」を押さえる、日本の伝統的・文化的規範を持ち出すが、これは誤りだ。
なぜなら、ブサイコク文化人の「公」は、西洋文明の「個」人主義を前提にした概念・規範であり、日本で古来から守られてきた、伝統でも、文化でもない。
そんなものは、西洋化した明治以降にでっちあげられた規範にすぎない。
本来の日本=アズマには、「個」という概念はなかった。だから、「個」を調和させるための概念というものも当然存在しない。
ブサイコク文化人達は、口では日本の伝統・文化と言いながら、持ち出す規範は、西洋ナイズされた、「公」概念だ。
彼等、ブサイコク文化人は、日本=アズマの伝統・文化を、南蛮の社会秩序と取り替えようとする、反伝統・反民族主義者である。
彼等は、日本=アズマに存在しない「個」と「公」という図式を、日本の伝統であるかのように偽装して、日本=アズマに密輸しようとしている「密輸業者」である!
アズマの諸君、ブサイコク文化人(西部邁、西尾幹二、小林よしのり等)は、民族の伝統・文化と言いながら、南蛮化を押し進めるデマゴーグだ!騙されてはならん!
65 名前:アズマ至上主義者の我らの主張
要するに、我々がナショナリズムと思い込まされて来た天皇中心の価値観は、明治簒奪政権の伊藤博文、山県有朋らによってでっち上げられたものなんだよ。
だから、我々アズマ人がそんなものを奉じなければならない理由はないんだ。
「明治簒奪政権によって押し付けられた社会規範を奉ずる者が愛国者で、それを否定する者が非愛国者である」なんて根拠はないんだよ。
92 名前:文責:名無しさん
新選組の近藤勇、土方歳三。彼らは武州多摩の百姓の出身である。
彼らは郷土武州の農民を代表して、父祖の血と汗と涙の滲んだ武蔵野の大地を守ろうとしたのだ。
その魂の叫びを、我々東国人は絶対に忘れてはならない。
そして、彼を逆賊として悪逆視する靖国神社は、徹底的に殲滅しなければならない。
94 名前:ぁゃιぃアズマ人
「愛国心・伝統を守る心が大切である」
我々は、このようなスローガンに隠された邪悪なヤマトの意図に警戒すべきである。
何故なら、真の愛国心・伝統とは、郷土に結びついたものだからである。
本来伝統や郷土を愛する心とは、郷土毎の伝統、郷土毎の多様性を認める立場である。それぞれの郷土の中に、それぞれ色合いの違う伝統がある。
そのような差異を無視し、単一の価値観を求める者、唯一の国家への忠誠を求める者は、地域に土着してきた真の伝統・習俗と、それに支えられてきた郷土を愛する真心を踏みにじる、伝統の破壊者・真の愛国心である郷土愛の破壊者でしかない。
明治簒奪政府は、かつて日本の津々浦々に息づいていた、郷土を愛する心・郷土の伝統的価値観を、南蛮化政策によって破壊し、代わりに南蛮起源の人工的な国民国家・天皇なるまがい物に対する忠誠を、日本全土に流布させた。
かつて、我ら東国人には東国人に密着した郷土愛・伝統があり、蝦夷には蝦夷の、越には越の、隼人には隼人の、熊襲には熊襲の、郷土愛・伝統・習俗が存在したのだ。
それぞれの地域は、地域に密着した生ける生活共同体の中で、独自の規範・習俗を形作り、自らを律して生活してきた。
95 名前:ぁゃιぃアズマ人
しかるに明治簒奪政権は、日本の各地に存在した生ける伝統、地域民が育んできた郷土愛を、醜い南蛮起源の国民国家に対する忠誠というシステムに組換え、日本各地の地域民から、「真の郷土愛」を奪い去ったのである。
特に我ら東国人が、国家の「愛国心」とやらを真面目に考えると、「我らにとって戊辰戦争とはなんであったのか」という問題に行き着くのである。
我ら東国人にとって戊辰戦争とは、「薩長蛮族からの郷土防衛戦争」であり、武運拙く戊辰戦争に斃れた郷土の武士は、「郷土の英雄」なのではなかろうか?
しかるに靖国神社には、我らの郷土愛の実践者たる東国武士は祭られていない。
それはなぜなのか?それは、我ら東国武士が天皇に弓を引いた「賊軍」だからというのである!
果たして、こんな自虐的な論理が、我ら東国人に許されるわけがあろうか!
所詮、靖国神社は、薩長簒奪政権が、自分達の都合で作り出した「国民国家」に対する忠誠心を、我ら東国人に押し付けたものに過ぎないのだ。
こんなご都合主義、我らの父祖を賊軍と罵る「愛国心」など、薩摩長州と天皇に突き返し、我ら東国人は真に東国人のための郷土愛を模索しなければならないのだ。
我らの輝かしい未来を信じて、志半ばで上野の山・越後長岡・会津・函館で斃れた我らの父祖のためにも!